八ッ場ダムの水没予定地にある川原湯温泉街の郵便局が昨日で営業を終了しました。
川原湯の郵便局の歴史は明治13(1880)年、3等郵便局として開局した時にさかのぼります。営業地は、川原湯温泉の元の湯、王湯の泉源に近い場所でした。
当時の郵政事業は、郵便取扱人(郵便局長)を各地の有力者から採用し、準官吏として待遇し、取扱人の自宅を局舎として無償提供させるという方式でした。(写真=12月22日撮影)
明治25年、小包郵便物の取り扱い開始を機に、郵便局は対岸の川原畑地区に移転して川原畑郵便局と改称します。当時は川原畑に街道が通っており、両岸の集落は吊り橋で結ばれているだけでしたから、川原湯の郵便局では小包の搬送は無理だったのでしょう。
吊り橋の両岸は曲折した急坂で、特に川原湯側の山道の往来は一苦労だったといわれます。(写真右=川原湯郵便局の室内に掲げられた「川原湯郵便局のあゆみ」12月22日撮影 写真をクリックすると拡大します。)
その後、吾妻渓谷の入り口に八ッ場大橋が架橋され、昭和5年には、川原畑地区・穴山沢の地すべり崩壊を機に、街道は川原湯地区を通るようになりました。
大正8(1919)年、再び川原湯に郵便局が戻ってきました。長野原町誌によれば、翌大正9年、共同湯の笹湯と郵便局の入る局舎が新築され、階上が郵便局、階下が笹湯の浴場となったということです。隣には王湯もありますから、さぞかし湯の香あふれる温泉街らしい郵便局だったことでしょう。
昭和26年の川原湯温泉の大火をきっかけに、翌27年、笹湯は坂下に移転しましたが、川原湯郵便局は平成2年まで王湯の隣にありました。郵便局移転後も、王湯の脇には赤い昔ながらの郵便ポストが立っていました。毎年大寒の湯かけ祭りの際には、郵便ポストも鉢巻きを締め、紅い褌を巻いて凛々しい姿で湯かけ祭りに参加していました。(左写真=2008年1月20日撮影)
水没予定地の川原湯郵便局の風景印の絵柄は、吾妻渓谷の入り口に架かる八ッ場大橋を滝見橋から見た風景でした。八ッ場ダムができるとこの八ッ場大橋も沈んでしまうからか、この風景印は昨日が最後で、代替地に移転後の郵便局では使われないそうです。新聞報道によれば、吾妻線同様、”最後”のアピール効果か、全国からこの風景印を求める注文が500件以上あったとのことです。(12月22日撮影)
郵便局の裏手の打越沢の脇では、今も地質調査が続いています。
川原湯温泉街の移転代替地は、温泉街の背後の山の中腹に造られつつある人工造成地です。打越沢を埋め立てて造った場所は、代替地の温泉街ゾーンとなっています。
代替地の安全性を確保する為の対策は、地質調査の結果を踏まえて決まることになっており、まだ明らかにされていません。(写真右=12月18日撮影 カーキ色のテントの中で調査が行われている。)
川原湯の郵便局は、明日24日から代替地で開業するそうです。局種変更により、簡易郵便局としての再スタートです。
http://www.post.japanpost.jp/notification/storeinformation/detail/index.php?id=2193
日本郵便ウェブサイトー川原湯郵便局
簡易郵便局とは、立地地域(長野原町)が日本郵便株式会社と契約を交わし、業務を行なうものです。
右と下の写真が明日開業する代替地の川原湯簡易郵便局です。川原湯温泉街の坂道(県道川原湯川原湯停車場線)が八ッ場ダムに水没することから、補償事業で建設中の付け替え県道林岩下線がすぐ脇を通っています。(写真=12月22日撮影)
●群馬県公式サイトより 一般県道 林岩下線(吾妻峡南道路)
http://www.pref.gunma.jp/06/h3410006.html
関連記事を転載します。
◆2014年12月21日 読売新聞群馬版
http://www.yomiuri.co.jp/local/gunma/news/20141220-OYTNT50336.html
ー川原湯郵便局 134年で幕 八ッ場ダム建設でー
国による長野原町の八ッ場ダム建設で、134年の歴史がある川原湯郵便局が22日に閉局され、代替地で町が運営する川原湯簡易郵便局が24日に開局する。水没予定地に残っていた最後の公共機関で、金融機関がなかった地域を支えてきた。局員たちは「長い間ご利用いただきありがとうございました」と感謝の文字を掲げている。
川原湯郵便局は1880年(明治13年)に水没予定地の同町川原湯、川原畑、林、横壁を管轄する3等郵便局として開局。現在は社員2人、非常勤職員1人の3人で営業しているが、1980年代までは川原湯温泉街からの利用者も多く、3人の外務員を含む計8人で集配や金融の業務を行ってきた。
同町出身で最後の20代目局長となる佐藤孝幸さん(54)は「業務日誌を見ると電話交換があった約60年前は、泊まり勤務もあったようでした」と振り返る。
現在の局舎は90年に建てられた。22日の閉局から1か月程度休業期間を設けることも検討されたが、住民に迷惑をかけられないと2日後には簡易郵便局を開局させることになった。
局内には、川原湯郵便局の歩みと題した歴史や一部ダムに沈む吾妻渓谷の写真を展示した。
同町によると、水没予定地では町立第一小学校やJR吾妻線の川原湯温泉駅、交番などの公共施設が移転。沿線の国道145号も廃止となっている。
佐藤局長は「昔からの郵便局がなくなり、ダムに沈んでしまうと思うと、さみしい気もするが、地域の人の要望で新たな局も出来るので利用してほしい」と話している。
◆2014年12月23日 上毛新聞
http://www.jomo-news.co.jp/ns/3614192629531590/news.html
ー川原湯の顔また消える 郵便局が営業終了 閉局惜しむ来訪者続々ー
八ツ場ダム建設に伴い、水没する群馬県長野原町川原湯の川原湯郵便局が22日、営業を終了した。24日に近くの代替地で町が運営する川原湯簡易郵便局が開局する。川原湯に開局してから130年余りの歴史を持ち、地域の金融機関として住民らに親しまれてきた郵便局。最終日は記念にと年賀状を購入したり、消印入りのはがきなどを求める利用者が訪れ、これまでの役割に感謝するとともに閉局を惜しんだ。
川原湯郵便局は1880年4月、川原湯、川原畑、林、横壁の4地区を配達区域に現在地とは異なる川原湯で開局した。その後、92年に川原畑、1919年に川原湯と移転を繰り返し、現在地には90年6月に移った。約310平方メートルの敷地に約120平方メートルの木造平屋建てが建ち、現在は局長以下3人で運営して来た。
7年前に赴任した佐藤孝幸局長(54)によると、ダム建設に伴う人口流出で利用者は年々減少。最近では観光客らの姿が目立ち、吾妻渓谷に架かる橋が描かれた川原湯郵便局の「風景印」を収集する愛好者が多い時には1日に10人以上訪れることもあったという。
正面入り口近くに「長い間ありがとうございました」と感謝の気持ちを掲げた同郵便局。22日は近隣郵便局からの応援も受け、局員が全国各地から郵送で依頼された「風景印」を押す作業などに追われた。県外から直接訪れる利用者もおり、名残惜しそうに周辺で写真撮影したり、郵便局名が入ったポストカードなどを買い求めた。
休日を利用して電車で東京都清瀬市から訪れた男性(35)は「最後と聞いて駆け付けた。せっかくだから年賀状を買い求めたい」と笑顔を見せた。長野県小諸市から車で来た男性(50)は「水没予定地にある駅に続いて郵便局も営業を終える。寂しい」と変わりゆく景観を記録しようとシャッターを切った。
新しい川原湯簡易郵便局は、現在地から東南へ約2キロの県道林岩下線沿いの代替地にある。佐藤局長は「川原湯郵便局は、地域の方々に愛されてきた歴史ある郵便局。これからも住民の利便性は確保できるので、お年寄りらが歩いて行けるような身近な郵便局であってほしい」と話した。
◆2014年12月23日 朝日新聞群馬版
http://www.asahi.com/articles/ASGDQ42FCGDQUHNB007.html
ー群馬)川原湯郵便局、営業終了 24日から代替地で再開ー
八ツ場ダム(長野原町)の水没予定地にある川原湯郵便局が22日、現局舎での営業を終えた。24日からは高台の打越代替地で「川原湯簡易郵便局」として再スタートする。
22日は県内外から多くの人が訪れた。吾妻渓谷に架かる旧八ツ場大橋をデザインした消印が目当てだ。最後の日付で押してもらおうと、30人ほどが訪れたという。全国から返信用封筒に入れてはがきなどが500通以上届き、局員が消印を押して返送する作業に追われていた。朝6時半に川崎市の自宅を出たという斎俊男さん(77)は「見納めに来ました」と話した。
明治13(1880)年に開局した。旧川原湯温泉駅近くにある現局舎は1990年に建てられた。赴任して7年の佐藤孝幸局長は「以前は道案内など観光案内所のような役割もしていた。風景もずいぶん変わりました」。温泉街にあった王湯は6月、旧川原湯温泉駅は9月、国道145号(旧道)は11月と旧施設が次々に役目を終えるなか、「最後までお客さんのために」とぎりぎりまで営業を続けた。移転先でも「いつも身近にある郵便局でありたい」と語った。(井上怜)
—転載終わり—
川原湯郵便局の頭上には、八ッ場大橋が聳えています。
吾妻渓谷の八ッ場大橋と名前は同じですが、ダム湖の両岸を結ぶために造られた巨大な湖面橋です。(12月22日撮影)