八ッ場あしたの会は八ッ場ダムが抱える問題を伝えるNGOです

八ッ場ダム関連の発掘調査と本体工事

 四度目の協定変更
縄文遺跡 八ッ場ダム予定地では数多くの発掘調査が行われています。
 発掘調査の費用は八ッ場ダムの事業費に含まれており、国と群馬県が協定を結んでいます。2008年に結ばれた現協定書によれば、調査期間は2016年3月末まで、調査費用の概算総額は98億円です。
現時点ですでに調査期間を過ぎていますが、さる6月8日の県議会・文教警察委員会では、文化財保護課長が「来年度までに第四回協定変更を行う予定で、現在調整中である。今年度は一年延長で調査を続行しており、予算額は15億円程度」と答弁、一年延長という異例の措置で調査が続いていることが明らかになりました。
(写真右上=群馬県埋蔵文化財調査事業団で開催中の展示会展示会「吾妻地域の縄文文化」のパンフレットより、八ッ場ダム予定地域から出土した縄文土器)

 情報開示資料
上湯原の発掘調査2 群馬県教育委員会は6月2日、情報公開手続きにより、八ッ場ダム関連の発掘調査に関するこの一年間(昨年5月~今年4月)の国と群馬県の調整会議の文書を情報開示しました。
 開示資料によれば、2018(平成30)年までに発掘調査を終える必要があり、昨年度に続き、今年度も大規模な発掘調査がダム予定地域の各所で行われています。国交省八ッ場ダム工事事務所は試験湛水を2019年(平成31年)度より開始する予定で、それまでに発掘調査を完了させなければならないからです。
(写真右=川原湯地区の水没予定地、上湯原で発掘調査が行われている石川原遺跡。2016年4月19日)

 今年度、発掘調査が行われる遺跡は、二社平遺跡、上ノ平Ⅰ遺跡、三堂岩陰、下湯原遺跡、東宮遺跡、西宮遺跡、石川原遺跡、久々戸遺跡、川原湯中原Ⅲ遺跡、尾坂遺跡、西久保Ⅴ遺跡、中棚Ⅱ遺跡、下田遺跡、川原湯勝沼遺跡です。(開示資料「第11回 八ッ場ダム関連埋蔵文化財調整会議」平成28年2月22日)
 
 発掘調査を実際に行っている県埋蔵文化財調査事業団のサイトを見ると、最新情報が掲載されています。「5月調査」の報告が掲載されている以下の6遺跡は、すべて八ッ場ダム事業の発掘調査です。

石川原遺跡群馬県埋蔵文化財調査事業団 発掘遺跡の最新情報
下湯原遺跡(川原湯地区) 近世・中世・平安
上ノ平Ⅰ遺跡(川原畑地区) 縄文・平安・中近世 
東宮遺跡(川原畑地区) 近世
中棚Ⅱ遺跡(林地区) 縄文、弥生、近世
下田遺跡(林地区) 縄文・近世  
石川原遺跡(川原湯地区) 縄文・近世 

(写真右=川原湯地区の石川原遺跡。2016年6月27日
畑の畝と畝の間に火山灰が残されている。
 県事業団によれば、調査地の標高は539~533m。
1783年の浅間山噴火に伴う約2~3mの泥流層(天明
泥流)で埋もれた屋敷や畑の調査を行っている。
 屋敷は広い敷地に母屋や倉など複数の建物が建てられており、竈(かまど)や厠(かわや)などの施設も残っている。庭の隅には、天明三年に浅間山が最初に噴火した際の火山灰をかき集めた山が数か所検出され、泥流に襲われることを知らず直前まで庭の清掃を行っていたことが分かるという。)

キャプチャ 石畑岩陰遺跡
 群馬県は国から限られた期間内に大量の発掘調査を終えるよう求められており、効率的に発掘調査を行うために昨年度、12回の調整会議を重ねました。会議の中で、何度も取り上げられながら、今年度の発掘計画に組み込まれていないのが石畑岩陰遺跡です。

 石畑岩陰遺跡は吾妻渓谷の左岸側(川原畑地区)の「八ッ場」にあります。この地名がダムの名称となっていることからもわかるように、石畑岩陰遺跡はダム本体工事現場にあります。ダムサイトのすぐ上流側の大岩にあるこの遺跡は、水没予定地に位置していますので、湛水が始まる2019年度より前に発掘調査を終えなければなりません。調整会議の会議録では、群馬県文化財保護課が「石畑岩陰遺跡の発掘調査には10カ月以上かかる可能性がある。いつから発掘調査が可能か」と再三国交省八ッ場ダム工事事務所に問い質していますが、国交省の担当者は「工事予定の変更が難しい」と言葉を濁しています。(右上図=『群馬県史』資料編1より 図547 石畑岩陰遺跡の位置と地形(長野原))

吾妻線の八ッ場橋梁と国道

 上の写真は2014年11月13日に撮ったものです。手前の黄色い小さな鉄橋が「やんば橋梁」で、橋梁の下には八ッ場沢が流れていました。
 吾妻線の列車は2014年9月までこの線路を走っていました。川原湯温泉駅に向かってスピードを緩めた列車は、やんば橋梁を過ぎると、すぐにこの先で吾妻川に架かる鉄橋(第二吾妻川橋梁)を渡るのでした。石畑岩陰遺跡があるのは、やんば橋梁と第二吾妻川橋梁の間の岩山周辺です。

 八ッ場ダムの本体工事と石畑岩陰遺跡 
 現在、石畑岩陰遺跡の頭上の崖の上にはダム本体工事の作業ヤードが設けられています。川原湯地区の背後の山からダム本体の骨材を運ぶために吾妻線の線路跡に設置されたベルトコンベヤーは、第二吾妻川橋梁から先は作業ヤードに向かって上っていくように設置されています。
 石畑岩陰遺跡の周辺では、線路も、線路と並行して走っていた国道も潰され、遺跡そのものが茶色のベルトコンベヤーの陰になっています。
キャプチャ

キャプチャ土層 考古学の分野で注目される石畑岩陰遺跡は、1978(昭和53)年に発見されました。発見のきっかけは、吾妻線への落石防止のために防護コンクリート壁の工事を行った際、大量の土器と獣骨が出土したことでした。当時、遺跡の一部の調査により、縄文時代の草創期から晩期まで、約一万年間、縄文人の生活の場であったことがわかっています。
(右図=『群馬県史』資料編1より 図550 石畑岩陰遺跡の土層)

 『群馬県史』資料編1(昭和63年、群馬県立図書館)によれば、岩陰の規模は横幅が約40メートル、線路下にも遺物包含層が残っていることが確認され、大規模な岩陰遺跡であるということです。土層は31層に分層でき、全般にわたり良好な灰層が多く、灰層の厚みは4メートルに達します。各時期とも大量の獣骨が出土しており、イノシシ、鹿を中心に、ニホンザル、ツキノワグマ、キジなど、現在も八ッ場ダム予定地域に生息している動物の名が挙げられています。
 『群馬県史』の記述は、「濃厚な灰の堆積と合わせて、生活の場としての解明が可能な遺跡であると言える」と結ばれています。

 下の写真は、ダム本体工事現場の直下に聳える吾妻渓谷の小蓬莱より工事現場を見下ろしたものです。右手の緑の点線の丸で囲まれたあたりに、石畑岩陰遺跡があります。
 6月14日に八ッ場ダム本体工事のコンクリート打設が始まったとマスコミ各社が報道しましたが、コンクリート打設を始める前に終了している筈の基礎岩盤の掘削工事が7月4日現在も続いています。
 ダムサイト予定地の手前に青いラインが幾筋も見えるのは、減勢工部の岩盤の亀裂などにコンクリートを流し込み、養生をしているところのようですが、この工事は6月14日以前から行われていました。なぜ6月14日にダム本体のコンクリート打設を開始したと報道されたのか不明です。

キャプチャ
 
 

 

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