八ッ場ダムの水没予定地、川原湯地区の上湯原(かみゆばら)では現在、石川原(いしかわら)遺跡の発掘調査が行われています。
情報開示資料によれば、石川原遺跡の本年度の発掘調査面積は約5万平方メートルと、実に広大です。
以下の地図で赤枠で囲まれているのが石川原遺跡です。JR吾妻線『川原湯温泉』駅の谷側にあります。(マッピングぐんまより、群馬県吾妻郡長野原町 大字川原湯)
八ッ場ダム事業の発掘調査については、調査を行っている群馬県埋蔵文化財調査事業団の公式サイトに最新情報が掲載されています。⇒「群馬の遺跡・出土品発掘遺跡の最新情報」
◆ 発掘調査の経緯と面積
川原湯地区の農村地帯であった上湯原は、江戸時代・天明3(1783)年の浅間山大噴火直後に発生した泥流で覆われたため、全域が天明の災害遺跡であると同時に、天明泥流の下に平安、縄文など、さらに時代をさかのぼる遺跡が良好な状態で遺された土地でした。
石川原遺跡では2008年に1,700平方メートルの発掘調査が行われましたが、翌2009年の政権交代により八ッ場ダム中止が政策課題となったことから、一旦は発掘調査が休止されました。しかし、その後、ダム建設に再びゴーサインが出され、石川原遺跡が水没することが決定したため、2014年4月より発掘調査が再開されました。
写真右、上下=発掘調査の前に、2~3メートルもある天明泥流を重機で除去する。電信柱の周りに残された土砂(銀色のカバーに覆われた部分)が泥流の深さを示している。泥流には大きな石も含まれていた。吾妻川右岸に、河床から約30メートルの高さで舌状に張り出している上湯原を襲った泥流の凄まじさが想像できる。
調査面積は2014年度に2万5,000平方メートル、昨年度は5,000平方メートルでした。石川原遺跡の発掘調査は今年度の約5万平方メートルで終了の予定です。
昨年度の調査では、江戸時代の寺院跡が出土しています。吾妻川と利根川流域に点在する天明浅間災害遺跡の中でも、特に注目される発見でしたが、報道で取り上げられることはありませんでした。どれほど貴重な遺跡であっても、調査後は埋め戻されてしまいますので、遺跡を目にすることができるのは調査期間に限られます。
写真右上=発掘調査を行っている遺跡はロープを張られており、その中に入ることは禁止されています。
(参照:石川原遺跡で出土した不動院跡の見学レポート)
◆水没予定地へ行くには
石川原遺跡のある水没予定地の上湯原は、2014年10月に開業した『川原湯温泉』の新駅から徒歩圏にありますが、駅前の地図にも書かれていませんし、マスコミが取り上げるわけでもありません。
ですが、わざわざ訪ねる価値はあります。初めて訪れた人は、東京・上野から特急で2時間余りの駅のそばに、かけがえのない自然と歴史とともに失われようとしている土地があることに、今更ながら驚くでしょう。
そこで、駅前の地図に水没予定地への道順を書き加えてみました(右)。
黄色の矢印は旧温泉街への道です。
上湯原遺跡への道は赤い矢印の方です。
駅に降り立ったら、駅の脇の跨線橋を渡り、線路の反対側に出ます。プラットフォームの脇に砂利道(写真右)がありますので、まっすぐ線路に沿って歩いていくと、トンネルの手前で左に曲がる坂道が見えます。
ちなみに、この砂利道は(株)大同特殊鋼の鉄鋼スラグが不法投棄された場所で、地表が凸凹です。地元の方々が国交省八ッ場ダム工事事務所に対応を要望してきたそうですが、凸凹は以前にもまして酷くなってきたようですし、スラグも地表に転がったままです。
砂利道を曲がって左手に坂道を下っていくと、水没ラインを示す朽ちかけた看板があります。八ッ場ダムの満水位は標高583メートルです。「標高586メートル」は、これより下の土地はダム事業の対象であり、家屋は移転しなければならないことを示しています。
看板のあるあたりから、砂利道は舗装道路になります。そのまま道をまっすぐ下っていくと上湯原に辿り着きます。
◆川原湯村の下湯原と上湯原
坂を下りきったところに、小さな十字路があり、看板が二つ立っています(写真右)。一つは河川法で定める「河川予定地」を示す看板です。昭和61年にこの土地が「河川予定地」に指定され、土地の形状を変えたり、工作物の新改築を行う場合に、河川管理者(国)の許可が必要になったと書いてあります。
もう一つの看板は、もとは道路の案内図でしたが、ダム事業で通行止めとなった国道の文字が白いペンキで塗り消されています。(写真右下)
上湯原は最盛期には40軒もの住宅があったそうです。一部の住民は地区内に造成された代替地へ移転しましたが、多くは地区外に転出していきました。
天明期の記録によれば、川原湯地区は1783(天明3)年の浅間山大噴火の折、吾妻川を流れ下る泥流に襲われ、14名(男6、女8)が亡くなっています。当時、川原湯より吾妻川を下ったところにある原町の名主、富沢久兵衛が残した『浅間記』には、川原湯の家屋が十九軒流出したという数字も残されています。
川原湯地区では、上湯原に先立ち、昨年、下湯原で発掘調査が終了しています。下湯原と上湯原は、川原湯温泉街を挟んで、下流側が下湯原、上流側が上湯原といいました。
旧・川原湯温泉駅があった下湯原では、天明期の広大な畑や墓地跡が出土しましたが、屋敷跡は出てきませんでした。(参照:下湯原遺跡の見学レポート)
駅前の一等地だった下湯原には、商店が立ち並び、派出所や郵便局までありましたが、天明当時、川原湯の農村集落の中心は、日当たりがよく、土地も広い上湯原の方であったようです。
写真右=もとは上湯原へ下る坂の途中に双体道祖神が祀られていたが、ダム事業による代替地造成のため、石川原遺跡に仮移転。宝暦6(1756)年、天明泥流が襲う前の作。
◆石川原遺跡で出土した畑と屋敷の跡
群馬県埋蔵文化財調査事業団によれば、石川原遺跡は標高536~532メートル、20軒近くの屋敷跡と広大な畑跡が確認されています。
畑の作物は麻であった可能性が高いということです。麻は酸害に強く、酸性河川の吾妻川流域で広く栽培されてきました。麻の栽培では、成長を促すため、畝と畝の間を狭く密植します。
吾妻渓谷に近い川原湯村では、広い田んぼを確保するのは難しく、換金作物である麻の栽培が生活を支えていたのかもしれません。家屋の脇の狭い土地にも、隙間なく畑が出土しており、土地利用の徹底ぶりに驚かされます。土の上に白く見えるのは、天明泥流の前に降った浅間山の火山灰です。(写真右)
今のところ、石川原遺跡でも下湯原遺跡でも、泥流下から被災者の遺骨は出土しておらず、14人とされる犠牲者は泥流と共に吾妻川に呑み込まれたのかもしれません。
重たい石臼は流されにくかったようで、八ッ場ダム予定地の遺跡から幾つも出土しています。
こちらは、石川原遺跡で出土した中で、最も大きい屋敷跡です。(写真下)
背後にダム湖の湖面橋となる不動大橋が見えます。不動大橋の脇に流れ落ちる不動の滝は、不動沢となって、上湯原の土地を潤してきました。
屋敷の裏手には、不動沢の水を引く水路が流れ(写真右手)、玄関のある表側には、敷石が整然と並べられた庭や離れの跡が出土しています。
水路に降りるための立派な石段もあります。洗い場として利用されたのでしょうか?
この屋敷の主は、天明当時、麻の栽培で他の住民と財力に差が出るほどの力を蓄えていたのでしょうか? 泥流が襲った時、屋敷の住人達は逃げることができたのでしょうか?
◆天明遺跡の下には、縄文遺跡も
発掘調査に携わる方たちが、不動沢の冷たい水で砂利を洗っていました。天明の泥流下から出てきた土を篩にかける、細かな作業です。
篩の中には縄文時代の黒曜石の小さな矢じりが混じっていました。群馬県では黒曜石が取れませんので、ここで出土した黒曜石は、信州・霧ヶ峰の和田峠、あるいは八ヶ岳山麓の冷山(つめたやま)から、交易で運ばれてきた可能性が高いようです。
上湯原は山野草がいたる所に咲く美しい土地でしたが、景観も自然もこの一年で随分変わってしまいましたた。白い花は仙人草(センニンソウ)です。
人の少なくなった上湯原では、イノシシや猿がよく出るようになりました。転出していった人が残した栗や柿はまだ未熟ですが、猿がもう食べにきています。
住民が丹精込めて耕してきた田畑も、ダム事業で無理やり放棄させられました。草が生い茂る中に、ワレモコウが咲いていました。(2016年9月2日撮影)