群馬県埋蔵文化財調査事業団が八ッ場ダムの水没予定地域で進めている発掘調査に関する展示が同事業団の発掘情報館で始まりました。発掘調査を担当した職員によるトークも予定されています。
以下に転載します。
http://www.gunmaibun.org/excavation_info/tayori/2017/20170518.html
発掘情報館 最新情報展第一期 「よみがえった江戸時代の村 -天明三年浅間泥流下の発掘調査から-」展の開催
◆期間 平成29年5月21日(日) ~ 9月3日(日)
休館日=毎週土曜日・祝日
◆場所 発掘情報館 資料展示室
群馬県渋川市北橘町下箱田784-2 TEL0279-52-2511
アクセスガイド http://www.gunmaibun.org/outline/access.html
◆時間 9:00 ~ 17:00(入館は16:30まで)
ギャラリートーク 中沢 悟 (当事業団職員)
◆7月2日(日) 13:00~15:00 無料 定員100名/申込不要
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八ッ場ダム事業における発掘調査は、ダムの付帯工事として進入路の工事が始まった1994年、建設省と群馬県が協定を結んで開始されました。
今回の展示(写真右)は、集落全体がダムに沈むことになった川原畑地区の東宮遺跡を中心としたものです。東宮遺跡の発掘調査は、水没予定地の埋蔵文化財調査の先駆けとして、2007年に始まりました。同遺跡は、八ッ場ダム事業による1995年から1997年の調査で初めて存在が明らかになった、いわゆる「新発見の遺跡」です。
「天明3年浅間焼け」と呼ばれる1783年の浅間山の大噴火は、八ッ場ダム予定地のある吾妻川流域に甚大な被害をもたらしました。大噴火のピークは1783年8月5日でした。この日、浅間山麓の鎌原(嬬恋村)を埋没させた高速の土石なだれは、吾妻川に流入して泥流となり、噴火時刻の午前10時頃から1時間以内には、浅間山から約23キロの距離にある川原畑に到達したと考えられています。
川原畑地区は川原湯温泉の対岸、吾妻川の左岸側にあり、吾妻川の最狭窄部を形成している吾妻渓谷に隣接(渓谷の上流側)する集落です。ダムの名称となった「八ッ場」は、川原畑地区の東端の字(あざ)の名です。
(写真右=川原畑地区の水没地。2005年5月4日撮影)
東宮遺跡は吾妻川の中位河岸段丘に位置します。標高約530~540メートルのこの土地は、吾妻川との比高差が約30~50メートルもあるのですが、天明泥流は吾妻川が流れる深い谷を埋め、東宮の集落を平均約1メートルの厚さで覆いました。
大噴火当時、近隣(吾妻川下流にある原町)の名主であった富沢久兵衛は『浅間記』において、川原畑村の損害を「二十一軒流、四人死」と記しました。これまでに東宮遺跡からは十一棟の屋敷跡が出土しています。
急峻な吾妻渓谷と久森(くもり)峠に挟まれた川原畑は、背後にも山が迫る小規模な集落でしたが、南向きで農耕に適した、長野原町では最も温暖な、暮らしやすい土地でした。真田家が所有した信濃国の上田城と吾妻渓谷下流の岩櫃城、越後に近い沼田城を結ぶ信州街道は「真田道」とも呼ばれます。川原畑はこの真田道の「馬継」の役目を担っており、交通の要衝でもありました。八ッ場ダム事業による発掘調査では、「真田道」の調査も行われています。
(写真下=右手の大岩の溝には10年ほど前まで石仏群が並び、水没予定地を見下ろしていた。大岩の隣には観音堂があり、天明の浅間山大噴火の際、泥流は観音堂には達せず、山を駆け上った村人は助かったと言われる。青いシャベルカーが見えるあたりには、観音堂の前を横切るように”真田道”が残されていた。)
歴史ドラマではヒーローとされる真田家ですが、川原畑村の住民にとって、戦国末期(1563年)に武田氏の先鋒として信濃国から鳥居峠を越えてやってきた真田家は、外部からの侵入者でした。当地は1590年より真田信幸を当主とする沼田藩の領地となりますが、5代目藩主、信利の苛政の後、1681年、真田氏改易、幕府領となりました。
川原畑地区の東宮遺跡では2007年11月~2009年12月にかけて第一次~第三次発掘調査が行われましたが、2009年9月に発足した民主党政権が八ッ場ダム事業の見直しを掲げたため、翌年から水没予定地の発掘調査は休止されました。第三次調査までの調査結果は、この休止期間に「東宮遺跡(1)」(2011年刊)、「東宮遺跡(2)」(2012年刊)として報告書が刊行されています。(写真右)
東宮遺跡の発掘調査が第四次調査として再開されたのは、2013年7月のことです。今年(2017)年3月に刊行された東宮遺跡の三冊目の調査報告書は、2014年度の調査結果の成果を整理したものです。
2007年から2009年に実施された発掘調査の結果、「浅間山大噴火に伴う泥流で被災した村が、これまでに例のないほど極めて良好な遺存状態で出土し」、「これまでに発掘調査例のない、近世集落主体部(当時の川原畑村)に関わる調査となることが予想され」、「調査原因がダム水没予定地の発掘調査であることから、以降、調査範囲が、遺跡全体或いは新発見の遺跡をも含めて、川原畑地区全体へ広範囲に拡大していくことも予想できた」ことなどから、調査方針は、「集落の構成要素である遺構(屋敷・畑・水田・道など)を精査し、記録保存を実施するとともに、集落の全体像(景観)を明らかにすること」とされました。
(写真右=東宮遺跡の発掘調査。2014年9月23日撮影)
すでに刊行されている報告書を読むと、展示されている絵図面や古文書など(写真下)と発掘調査による遺構や遺物を照合し、詳細な分析により集落の全体像を探る地道な作業が行われていることが伺えます。
現在、事業団は、境沢を挟んで上流側にある西宮遺跡の発掘調査を進めていますが、東宮遺跡の中でも、これまでの発掘調査区域の東側や国道、JR吾妻線の線路部分など、本体工事の骨材運搬などに利用されている広い地域はまだ調査が行われていません。今回展示されている絵図面等の資料から、まだ調査が行われていない地域に、さらに多くの屋敷や畑跡が埋もれていると考えられるということです。
八ッ場ダムの水没予定地はその全域が遺跡であることから、ダム建設が中止になった場合は、自然と歴史のエコパークとして整備するという代替案が提唱されました。しかし、マスコミや行政が積極的に取り上げないせいか、いまだに遺跡の存在自体が殆ど知られていません。水没予定地では今年3月までに住民全てが移転を余儀なくされ、吾妻渓谷では昼夜兼行、急ピッチでダム建設が進められています。
〈参考〉
◆「科学者の会」、文化庁長官と国交大臣に八ッ場ダム予定地の遺跡保存を要望
https://yamba-net.org/wp/?p=2323
◆文化関係者らアピール、八ッ場ダム予定地の遺跡保存もとめる科学者の会に呼応
https://yamba-net.org/wp/?p=2326
写真右=吾妻線は2014年9月まで、東宮を走っていた。背後の扇形の山は、川原湯地区に聳える金鶏山(川原湯地区)。
写真下=吾妻線の線路跡に、金鶏山の裏手を削ってつくった骨材を運搬するベルトコンベヤーが設置されている。ベルトコンベヤーに平行して、左手に廃線となった旧国道。旧国道とベルトコンベヤーの間で発掘調査が行われている。2016年撮影。
写真右=川原畑地区の西宮踏切付近。西宮には明治17年、川原畑村と近隣の川原湯村、林村、横壁村の連合戸長役場が設置された。小さな川原畑村が当時は地域の中心であったのだろうか。その前年、川原畑出身の野口茂四郎は群馬県議会議員に初当選。県議を6期つとめ、長野原町長にもなっている。長野原町誌によれば、茂四郎は慶応義塾で福沢諭吉に学んだ後、明治13年、「川原畑生産会社」(産業組合と銀行を兼ねたもの)を設立。県費によって吾妻渓谷を開削した野口新道(旧国道)を私財を投じて完成させたことで知られる。2016年撮影。
写真下=東宮の観音堂と西宮の諏訪神社を結んだ古道。吾妻渓谷と久森峠を往来する人が多かった頃には、茶店が繁盛したという。2016年撮影。