2005年5月1日
4月30日、代替地交渉において、水没予定地の最大集落、川原湯地区が合意の方針を決めました。半世紀にわたる国と地元との交渉が、これですべて終了したとのニュースが今朝の全国紙各社の社会面で取り上げられています。
紙上では、成田空港地権者と国土交通省との交渉の記事が並んで掲載されています。”成田”と”八ッ場”ーかつて大きな社会問題として首都圏を揺るがした両者の計画発表は、今から40年前の1965(昭和40)年のこと。計画の最初に、犠牲になる地元住民の存在が全く無視されたという意味で、二つの計画は共通した問題を抱えてきました。
”成田”は開港し、一定の社会的役割を果たしていますが、”八ッ場”は付帯工事さえ進んでいません。地元民は「ダム計画は期限がないのが一番辛い」と言います。
地元との交渉終了により、八ッ場ダム計画は歴史的な節目を迎えましたが、問題は何一つ解決されていません。
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讀賣新聞記事(2005.5.1)より
「八ッ場ダム代替地価格に住民合意へ、交渉が完了」
首都圏最後の水がめとされる群馬県長野原町の八ッ場(やんば)ダム建設で、水没温泉街を含む同町川原湯地区ダム対策委員会は30日、国土交通省が提示した移転代替地の分譲価格に合意する方針を決めた。
住民側と国との交渉はすべて終結し、移転は今年度末にも始まる。国交省は2010年度のダム完成を目指す。
同ダムは1952年に計画が浮上。反対する住民に対し、国は90年、水没5地区計約340世帯分の移転代替地を、ダム湖畔予定地に造成・分譲する再建計画を提示。この結果、住民は92年、ダム計画受け入れへ協定を締結した。水没する宅地や農地などの補償は2001年、総額964億円の支払いで決着し、代替地の造成などの関連工事が進んでいる。
代替地の分譲価格をめぐって、水没5地区のうち、代替地での温泉街再建を目指す川原湯地区だけが拒否し、価格の引き下げを要望してきた。同地区の30日の総会では、長引く交渉に区切りをつけ、生活再建に進むべきだとして、多数決の結果、受け入れを決めた。