「戦後60年 家族 ふるさとが沈む 中」(朝日新聞)

2005年8月11日 朝日新聞より転載

 68年9月。群馬・川原湯温泉のテニスコートに、「八ッ場ダム建設絶対反対!」のプラカードを掲げた住民たちが集まった。その一部始終を記録するため、当時39歳だった、旅館「川原湯館」の経営者竹田博栄さん(75)は8㍉カメラを構えていた。水没対象となる人々の熱気が最高潮に達した時、ファインダー越しにヘルメット姿の一団が現れた。「過激派だ!」

 自ら参加する「反対期成同盟」の幹部が、リーダー格の前に歩み出た。カメラを支える手が汗ばむ。しばらくして一団はジグザグにデモ行進しながら駅方面へ引き返した。
 当時の映像は、いまもあの日の緊張をほうふつさせる。「成田(闘争)のような流血の惨事にしない。これが反対同盟の信条だった」

 群馬県高崎市出身。終戦後の48年、両親と川原湯温泉へ移り住んだ。少年時代は体が弱く、各地の湯治場を巡った。山の中腹からわき出す軟らかな湯が一番効いた。
 戦前の旅館はたった7軒で、地主が経営する老舗ばかり。戦後、一般客やヤミ米で潤った農民が押し寄せるなか、竹田さんは53年、8軒目を開業した。若く新参の経営者に旦那衆は厳しかった。口を開けば「よそ者は黙ってろ!」。押し黙るしかなかった。
 新婚の妻が接客、栄養士の資格を持つ竹田さんが厨房に立った。このころ、ダム計画を風の噂に聞くが「困ったな」と思った程度。商売を軌道に乗せるので必死だった。
 高度成長期に入ると、射的場、バー、芸者の置屋が次々とできた。2子が誕生。ここでは珍しく「パパ」と呼ばせたことが芸者衆の話題になり、竹田さんに「川原湯のパパ」との愛称が定着した。

 忘れかけたダム計画が13年ぶりに持ち上がったのが65年。建設阻止を求める住民が結成した「反対期成同盟」で、会議部長に抜擢された。30代半ば。年長幹部の調整役を任されるほど、旦那衆の信頼を得ていた。
 そんな中、「外部の支援団体とは共闘しない。交渉のテーブルにはつかない」という闘争方針が固まっていく。政党や政治家の思惑に利用された揚げ句、世論が離れていった事例を知った。反対同盟の仲間で県内外のダム予定地を視察した。あるダムでは、膨大な補償金を手にした人が無計画に浪費し、家を建てられなかった悲劇もあった。
 住民が一丸となり「断固阻止」で跳ね返さねばー。70年代。抵抗運動は激化する。屋根にペンキで「ダム反対!」と描く家が現れた。温泉街にぶら下げた一斗缶は、建設省の役人を見かけたら鳴らして追い出すため。

 闘争の疲れを吹き飛ばすのは、子どもたちの成長ぶりだった。中学生の長男はテニスとバイオリンが趣味。長い休みには「お父さん、少しは楽が出来るだろ?」と車の助手席に乗り込み、買い出しを手伝ってくれた。
 だが、過酷な未来が待ち受けていた。75年5月、東京の私大に入学したての息子がひょっこり帰省した。「背中が痛いんだ」。脊髄のがん。その後、わずか3ヶ月の闘病の末、天国へ旅立った。
 後を継がせようと大事に育ててきた。亡父が戦時中にひ弱な自分の手を引き、やっとたどりついた温泉地。この「ふるさと」に根づこうと頑張ったのは、自分と家族の幸せにつながると信じたから。
「神に見放されるようなことをしたのか?」。空を仰いだ。
 国は譲歩の姿勢を見せず、「議論のテーブルにつかない」がモットーの闘争も、なだらかに下降線をたどる。「ダム反対」で当選した町長に、「条件闘争を」「町全体を考えて」と訴える川原湯以外の地区の住民たち。反対同盟は、国の意向をたずさえた県や県議との協議を拒めなくなった。
 闘争は収束へ向かったが、竹田さんはカメラを回し続けた。87年、立ち入り調査を受け入れる協定の調印式。「水没住民が『造って良かった』と思えるダムを」という県知事の演説に涙がにじんだ。
 同盟委員長だった92年、名称を「対策期成同盟」に変えた。01年に正式解散。その直前、ともに闘った仲間の息子が、わざわざ竹田さんに退会届を手渡しに来た。「ショックでなかったと言えばうそになる」。時代は流れていた。
 最近、旅館の後を継いだ娘(50)が「もう限界」とつぶやいた。これから、どうすべきか。造成中の代替地をビデオに収めながら、竹田さんは考える。