「戦後60年 家族 ふるさとが沈む 上」(朝日新聞)

2005年8月10日 朝日新聞より転載

「ダムと生きる重み、詩に-生活しながら闘う。それが川原湯」

 JR川原湯温泉駅から300㍍。すぐ下を吾妻川が流れる国道沿いで、豊田政子さん(69)は一軒の小さな民宿を営む女将だ。かつてこの玄関で、祖父がつぶやいた。1952年5月、真夏のような昼下がり。

 十七歳の 暑い夏の日/学校から帰ると 上がり框で
 お祖父さんから「ダム」という言葉を/初めて聞いた/
 ダムって家もすべてのものが沈んでしまう/恐ろしい
 ことだと/ぼんやり わかった
 (詩集「ダムに沈む村」・『暑い夏の日』から)

 川原湯地区を含む群馬県長野原町の人々に、「八ッ場ダム」建設計画が初めて伝えられたのは53年前。ダムができると温泉街は水没する。全住民は猛反発。高校生の豊田さんも集会に出かけた。計画は大きな動きを見せず、まもなく話題にもならなくなった。
 ふるさとの温泉街は戦前、急峻な山の斜面に旅館と民家がへばりつく小さな湯治場だった。戦後、国鉄が開通、にぎやかな観光地になった。
 54年、高校を卒業した豊田さんは、両親が営む小さな土産物屋を手伝い始めた。祖父が「隠居用に」と建てた家の軒先で、タオルやせんべいを並べると、飛ぶように売れた。24歳で結婚。2女を育てながら、店を切り盛りした。
 そんな時、ダム計画が再び浮上した。65年2月。13年前と違うのは「条件付き賛成」の声が出たこと。もちろん断固拒絶が多く、すぐに「反対期成同盟」が結成。675人に町議の父や叔父らが名を連ねた。翌年暮れ、町役場周辺で、同盟初の総決起集会が開かれた。父が言った。「政子、今日は出てくれ」

 吹雪の日/次女を背負って長女の手を引き/ダム反対のデモに 参加した日/
 なぜか涙がボタリボタリ落ちたことだけ/はっきり覚えている  (同『吹雪の日』から)

 3人目の娘が生まれ、母や祖父母を看取った。ダム問題で揺れる温泉場の男は、毎晩のように会議に出かける。反対期成同盟書記長の父は徹夜で陳情書を書いた。「お父さん、無理はしないで。」熱いお茶と梅干しで励ました。
 74年。父たちが、町長選に仲間の旅館主を担ぎ出した。豊田さんらは町中を回り、支持を求めた。当選。「これでダムは消える」と喜んだが、計画は中止にならない。
 80年代、転機が訪れる。団体客が減り、家族連れや少人数のグループが目立ち始めた。旅館内に売店がつくられ、土産物屋には一人も客が来ない日も出てきた。
 「なんとかしないと」。豊田さんの脳裏に、改築中の生家がよぎった。温泉街を下った木造3階建ての元養蚕農家。長く空き家だった。庭を通り抜け、野の花が茂る雑木林を下れば渓谷に出る。
 大好きなふるさと。ここに泊まってもらえれば、田舎の素朴な暮らしが味わえる。民宿を始めることにした。ダムに沈むことは、立ち止まる理由にはならなかった。
 生活しながら闘う。「それが川原湯のやり方だから。」名前は、可愛がってくれた祖父にちなんで「雷五郎」。47歳の再出発だった。
 都会がバブル経済に踊るころ、父にアルツハイマーの症状が現れた。民宿を経営しながら、子どものように無邪気になった”元闘士”の介護に追われた。戦争へ行き、シベリアに抑留され、引き揚げ5年後にはダム問題。国策に左右され続けた父の生涯に、「人間って何だろう」と思う。
 ダム闘争が収束を迎えるころ、詩を書き始めた。未来図を描けぬ土地で生きる苦しみ、ふるさとが沈む人間のせつなさ、都会の人に知ってほしくて、作品を「こけしのペンネームで新聞に投稿した。
 いま、ともに暮らした人々が、次々とこの地を去っていく。代替地で新たなふるさとづくりに懸命な人は、工事のスピードの遅さにいらだつ。

 ダムに沈む村の家は/今日は一軒/明日は二軒と/解体されて
 基礎石だけが/無言で/すべてを物語っている
 (同『ダムに沈む村』から)
               ■
 手つかずの自然が息づく関東地方の渓谷に、ダム計画が持ち上がって半世紀が過ぎた。都会の水を補うために「もうすぐ沈む」といわれ、国の施策に翻弄され続けてきた川原湯温泉の家族を追った。

【川原湯温泉と八ッ場ダム計画】 温泉は1193年い源頼朝が発見したと言い伝えられ「草津のあがり湯と言われる。ダム計画は首都圏など一都五県の生活用水確保と洪水調整が目的。川原湯地区を含む長野原町の5地区計340戸が水没対象。同地区住民の代替地を山の上に造成中だ、同地区の世帯数は7月末現在、86世帯。ピーク時の3分の1に減った。
(文・高橋美佐子、写真・小宮路 勝が担当します)