2005年8月12日 朝日新聞より転載
-温かな「湯の街」再び 僕たちは犠牲者になる気はないー
《ようこそ・ダムに沈む川原湯温泉》。温泉街横の国道に、巨大な看板がある。
「逆に面白い、と思う。俺は」。群馬県長野原町の川原湯温泉で老舗「やまきぼし旅館」を営む樋田省三さん(40)は言い放つ。
52年、国は「八ッ場ダム」建設計画を発表した。川の水質が強い酸性とわかって中断したが、しばらくして上流に中和工場が完成。65年、計画は再び動き始めた。
その前年、樋田さんは生まれた。当時、水没地区のなかでも、温泉街を含む川原湯一帯は全戸約200戸が対象。猛反発する住民の姿はおぼろげだが、幼い日、温泉街に「ダム反対」と描かれたドラム缶があったのを覚えている。
子どもだったから、不安や怒りはない。それよりも、のどかで素朴で人情味あふれる懐かしい時間が、胸に焼き付いている。
小学生。夏休みの朝、ラジオ体操を終えて自宅裏の雑木林へ直行する。クヌギの木を思い切りけ飛ばすと、カブトムシがポトポト落ちてきた。
初めての「湯かけ祭り」。毎年1月20日未明。ふんどし姿の住民が紅白にわかれ、共同浴場の湯をかけ合う。ぬれて凍えて滑って。「声が小さい!」と大人たちに頭から湯をかけられ、仲間と認められた気がした。
栃木での高校生活。寮から帰省した時、父は「好きなようにしていい。継がなければ俺の代で終わらせる」と言った。胸が詰まった。
東京の旅行会社に就職した頃はバブル絶頂期。入社直後、「人手が足りない」と頼まれ、5月の連休に家業を手伝った。マキクロバスで、客を送迎する。体を動かして客をもてなす旅館業に触れた。
会社の営業回りの先輩は終日、喫茶店などで時間つぶし。もはや都会で働く理由がなかった。23歳で戻った。
帰るとすぐに父の音頭で酒宴が催された。「せがれが帰ってきました」。懐かしい人々の温かな笑みが、遠い日の「湯かけ祭り」と重なる。
でも、時代から取り残されたような温泉街の現実は厳しかった。多くの旅館は「ダムに沈む」との理由で大規模な改修は見送り、雨漏りの修繕程度でしのいでいた。
ふと「大勢の客を泊めるのは、その数だけの命を預かるのと同じ」と思った。階段がきしむ音が気になって眠れない夜もあった。
ダム闘争は収束しつつあり、温泉街の水没は避けられなくなっていた。「これからは、お前がダムをやれ」。旦那衆は最も若く家業を担い始めた樋田さんに言った。
何をしたらいいのか? とりあえず同じ年代の商店主や旅館の跡取りと「青年フォーラム」を結成。「新川原湯」の未来を考え始めた。
山の斜面にへばりつく温泉街は、ダムができると、約30㍍上の平らな代替地へ移る。00年、国が示した将来像は、温泉街に車道が突き抜ける無味乾燥なものだった。
前年、父が急逝した。「もしダムができなかったら・・・」という考えは捨て、前に進むことにした。「僕にやらせてくれ。川原湯地区の住民で作る「ダム対策委員会に04年に「まちづくり専門部会」が発足。部会長に就任し、青写真作成に打ち込んだ。
共同浴場「王湯は最も眺望がいいダム湖へ突き出す半島へ移す。温泉街のメーン通りは蛇行させ、客にゆっくり歩いてもらえるようにした。
でも絵を描くだけでは、街は生まれない。造成中の代替地の工事は遅れ気味。ライフラインも通っていない現場にたたずみ、「30代の情熱は薄れたのかと自信を失いかけることもある。
最盛期に20軒あった旅館は13軒に減った。それでも母貞子さん(65)と妻ゆみ子さん(39)と切り盛りし、3人の子どもたちもすくすくと成長している。
「ダム」と向き合って生きている川原湯の人たち。親子のいさかい、夫婦げんかの火の種になる。去らざるを得なかった人たちの後ろ姿。「ダム」という言葉を口にするのもはばかられるもつれた人間関係。「悪いものは全部水の底に」と思う。
旅館のすぐ前の斜面に「標高586㍍」という水没ラインの立て札が建つ。ふるさとはいま、ダムに沈もうとしている。あの時間を取り戻し、子どもたちに託さなければ。
ダム闘争を担った上の世代は「自分たちは国の犠牲者」と言い続けてきた。「俺たちは犠牲者になる気はない」。未来を見据え、つぶやいた。