2005年9月22日 上毛新聞9/9~22連載記事を転載
●「八ツ場に沈む」
(1) 不安抱えた船出
半世紀にわたる八ツ場ダム問題は、地元の生活再建に向け大きな節目を迎えた。九月七日午前、二〇〇一年六月の補償交渉妥結から四年を経て、住民の懸案だった代替地分譲基準案の調印が長野原町の若人の館で行われた。
調印を終えた連合交渉委員会の萩原昭朗委員長と国交省関東地方整備局の門松武局長は、関係者を前に協定書を交換。立会人の水没各地区代表者、小寺弘之知事、田村守町長らと手を取り合い歴史的瞬間を祝った。
○計画が浮上
同ダムは、治水、利水などの多目的ダムとして一九五二(昭和二七)年に計画が浮上した。住民は反対運動や条件闘争を行ったが、八五年の生活再建案受け入れで建設に前進。その後、九二年の基本協定締結など、ダム建設と住民の生活再建のための交渉が進められてきた。
「分譲基準案がきょう調印の運びとなった。結果は満足できるものではないが、合意はやむをえないという結論に至った。本当にダムに明け暮れた半世紀だった。これからは、みんなで協力し子孫に誇れる故郷をつくっていこう」
関係者約二百人を前に行ったあいさつで、萩原委員長はまちづくりへ前向きな姿勢を強調した。二〇〇三年十二月の国交省による基準案提示から一年八カ月の長い交渉を終えた達成感が、和やかな表情ににじむ。
○再生に20年
一方、立会人として調印式に参加しながらも、苦渋の表情を浮かべる人もいた。基準案合意に最後まで難色を示した川原湯地区の豊田治明ダム対策委員長は「あの分譲価格では土地のない人は代替地に行けない。川原湯温泉は数軒の旅館からスタートしなければならない。再生に最低二十年はかかる」と調印式会場で苦しい現状を訴えた。
林地区の篠原憲一ダム対策委員長は「代替地をもっと早く整備できれば、移転してしまった人に提供できたのに、残念でならない」と合意の遅れを悔やんだ。
それでも水没五地区は代替地移転に向け、まちづくりに動き出した。川原湯地区は若手旅館経営者が中心となり、代替地のまちづくりプランをまとめた。長野原地区は地域活性化のためのJR長野原草津口駅周辺整備事業の協議を始めた。川原畑地区では神社、観音堂など施設の移転先を決めた。
本年度中に予定される分譲開始に向け、各地区の代替地造成が急ピッチで進む。住民は期待と不安を抱えながら、国交省配布の意向調査票に記された代替地の地図を見て、どの区画に住むかを考え、新たな故郷となる代替地の生活を思い描いている
【吾妻渓谷(国指定名勝)】吾妻町松谷から長野原町にかけ吾妻川上流の約四キロにわたる渓谷。安山岩を主とした火山岩が吾妻川の浸食によって作られた絶景が有名。両岸に広がる新緑と紅葉の景色は見事で、シーズンには多くの観光客が訪れる。八ツ場ダム建設で長野原町側約四分の一が沈む。
(2) 消える旅館
崖(がけ)にへばりつくように旅館が立ち並ぶ川原湯温泉。昨年十一月、また一つ老舗旅館が消えた。水没五地区の連合交渉委員会事務局長の高山欣也さん(62)が経営する創業約五十年の「高山旅館」。イノシシの肉を使ったボタン鍋が売り物だった。営業権を残し、一年間休業の形を取ってはいるが、代替地移転後に営業を再開することはない。
旅館をやめるにはさまざまな理由がある。まずは後継者問題。町内に住む息子はいるが現在は教員、旅館を継ぐ気持ちはないという。
景気の問題もある。昭和三十年代には、芸者を呼んだ宴会が主流になるほど温泉街全体が繁盛したが、その後は衰退の一途をたどった。
ダム問題も旅館経営を難しくした。設備投資をしようと考えた時には、旅館仲間から決まって「そのうちダムに沈むから」という話になった。だが、いつの間にか長い時間が経過していた。
○青写真
「施設があるので続けてきたが、後継ぎがいなくなった。ダムを契機にやめるしかないと思った」と語る。「高山旅館」が営業をやめたことで、かつて二十あった旅館は十二軒になった。
旅館数減少で、若手経営者が中心になってまとめた「まちづくりプラン」を基本とする川原湯温泉の再生が危ぶまれている。
まちづくりプランは、地元、町、県、国による検討会で昨年六月から協議を進め今年二月に出来上がった。「水」「自然」「人」をテーマに掲げ、温泉街が移転する打越代替地の温泉街ゾーン付近に、川原湯の顔とされる玉おうゆ湯公民館と伝統の湯かけ祭りを行う広場を配置する、まちづくりの青写真を描いた。
だが、旅館には廃業や他地域への移転を計画しているところもある。代替地に行く旅館は多くて七、八軒、少なければ四、五軒といわれる。さらに、温泉街再生区域として設定した温泉街ゾーン以外に建物を建設する旅館もあり、描いたまちづくりの実現を疑問視する声が出ている。
○スタート
さまざまな不安を抱えながらも、川原湯温泉は代替地移転に向けスタートを切った。十年ほど使った「ようこそダムに沈む川原湯温泉」に変わる新しいキャッチフレーズの募集も始まった。
「川原湯はダムに沈むだけでなく、新しい温泉街に生まれ変わる。新しい街も今のように素朴で自然あふれたものにしたい。再生する姿を多くの人に見守ってほしい」。川原湯温泉観光協会の樋田洋二会長は自分にも言い聞かせるように、しみじみと語った。
◎川原湯岩脈(国指定天然記念物)
長野原町林地区の久森トンネルの西にある。吾妻川に沿って走る国道145号を横切り、川辺にそそり立つ断だん崖がいにのびる輝石安山岩の柱状節理の露岩。地層の割れ目にマグマが噴出し固まったもので、一九三四(昭和九)年に国の天然記念物に指定された。ダム建設で水没する。
3) 飲食店組合
八ツ場ダム代替地交渉の分譲価格了承から一カ月が経過した六月八日夕、川原湯温泉のすし店に川原湯飲食店組合の組合員ら五人が顔をそろえた。
「国交省はダムを建設しても地域を再建できると言っていたのに、いつの間にかこんな状態になってしまった」
年に一回開催される同組合の総会。川原湯温泉駅前で食堂を経営する茂木安定さん(70)は、出席者の少なさを嘆いた。三十年以上の歴史を持つ組合だが、組合員はわずか四軒だけになっている。
「組合はいらないという人もいる。でも、一度なくなったものを再び立ち上げるのは難しい。今の組合員だけで続けなければ、この温泉街から飲食店がなくなってしまう」。約二十年間、温泉街で食堂を経営する水出耕一会長(51)は組合を続けてきた理由を語る。
ハイキングコースとしても知られる吾妻渓谷の玄関口、川原湯温泉駅を下りると、寂れた雰囲気が漂う。駅から吾妻渓谷の間にある飲食店は二軒。温泉街の飲食店もわずかで、飲食店の数の少なさに驚く観光客も多いという。
飲食店は温泉街とともに歩んできた。温泉の景気に合わせ、昭和四十年代には三十軒以上の飲食店が組合に加盟。しかし、景気とダム問題の影響で閉める店が増え、温泉街に空き地が目立つようになった。
○多い借地人
借地人が多い飲食店経営者は、温泉街の分譲価格が住宅街の三割増となった、分譲基準交渉の結果を重く受け止めている。水出会長は「借地人はダム交渉で土地を売るわけではないので、高額な代替地を購入するのは難しい。代替地に移るため、生活費を切り崩す必要が出てくる人もいる」と現実を語る。
水出会長は七月、川原湯地区ダム対策委員会を通し、草津と川原湯を結ぶバスルート作りを柱とした「地域活性化に関する考察」を県に提出した。
考察は「分譲地を取り巻く環境」「活性化について」など五項目からなり、地域再構築のための計画がつづられている。提出から一カ月余りが経過したが、満足できる回答はない。水出会長は「新しい温泉街がどうなるか分からないので、川原湯の魅力をなくさないよう考えなければならない。じっとしているわけにはいかない」と言葉に力を込めた。
◎【JR吾妻線】
渋川―大前間、十八の駅を結ぶ全長五十五キロの路線で、一九四五(昭和二十)年に営業が始まった、吾妻地区住民にとって重要な交通機関。八ツ場ダム建設で長野原町川原畑から同町長野原の区間が水没するため、吾妻町松谷から長野原草津口駅間約十キロを新設工事中。
(4) 転出飲食店
「いらっしゃいませ」。JR中之条駅前の国道145号沿いに新春早々の一月三日にオープンした和風造りの料理店「かよう亭」。暖簾(のれん)をくぐると店の代表、栗原ふさ子さん(56)が、忙しい仕事の手を休めて、元気な声で迎える。
店の自慢はヨモギがつなぎの二八そば。この味は、栗原さんが昨年十一月まで川原湯温泉で経営していた「すし徳」で、母から受け継いだ。
「すし徳」は祖父が大正時代に始めた川原湯で一番古いと言われた食堂。川原湯のシンボル的な存在の共同浴場「玉湯(おうゆ)」の真下にあったため、入浴後に立ち寄る多くの観光客や地元の人に親しまれた。栗原さんは六年前に店を引き継いだ。
○高い代替地
「あと何年ここにいられるのだろう」。明確な答えが出ない問いを、ずっと胸に抱えてきた。「あと十年かかる」「いや、あと十五年だ」。近所の人の何気ない言葉に心が揺れた。それでも、常連客が増え仕事が軌道に乗ると、商売を続ける自信は深まった。
だが、建物の老朽化が深刻になった。築百年を超える店舗兼住宅は雨漏りが激しくなり、寝る場所がないほど床が水浸しになることもあった。
国土交通省は二〇〇三年十二月、代替地の分譲価格を提示した。「高くて手が出ない」。価格表を見た正直な感想だった。「すし徳」の店舗は老朽化が激しい上に、土地は借地。店を続けるには、決して良い条件ではなかった。
中之条の土地を紹介されたのは、そんな時だった。軌道に乗った商売をやめ、生まれ育った土地を離れることに不安はあった。だが、新天地での再出発を選択した。
○苦渋の選択
決心すると後は早かった。移転手続きや工事契約などを済ませて、川原湯の店舗を閉めた。その後、休んだのは一カ月だけ。年明けには「かよう亭」のオープンにこぎ着けた。
「(代替地ができるまで)あと何年、あと何年と言われてここまで来た。私も年を重ねてしまった」と転出が苦渋の選択だったことを明かす。
あれから八カ月。新天地での生活に慣れ、時々川原湯のことを思い出す。吹き抜ける涼しい風、羽を休めに立ち寄るかわいい小鳥。川原湯のほうが良かったと思うことがしばしばだ。
「もし、ダム建設がなかったら、ほそぼそと川原湯で営業を続けられたのかもしれない。ダムは私たちにとって良かったのだろうか。答えは、そんなに簡単には出ない。出したくもない」
(5) 移転住民
今年も一月二十日に行われた、川原湯温泉の伝統行事「湯かけ祭り」翌日の二十一日。長野原町川原畑で生まれ育った篠原正作さん(69)方は日柄が良いことから、この日を引っ越しの日に決めていた。県北部は、山沿いを中心に大雪に見舞われた。
「今年の正月は、故郷で」。篠原さんは複雑な思いにかられながら、年末からずっと自宅で過ごしていた。周辺も二五センチの積雪。自宅から国道145号まで二百メートルほど続く下り坂は、雪かきをしなければ車を運転できる状態ではなかった。
「無事に引っ越せるだろうか」。傍らには九十四歳と高齢の母、病弱の妻―。その日に新居に到着できるかどうか、不安に感じた。しかし、早朝からの雪かきで車が通行できるようになり、夕方には新居にたどり着くことができた。
○同じ境遇
篠原さんは、川原湯郵便局に三十年以上勤めた。八ツ場ダム建設反対期成同盟の川原畑地区委員として、運動にかかわった。ダム問題では賛成派、反対派と二分された地元を目の当たりにして「ダムは恐ろしい」と心の底から思った。
郵便局退職後は農作業に精を出したが、ダムの工事が本格化するにつれて、ダンプによるほこりや音がひどくなったという。「地元住民がないがしろにされている。もう住めない」。そう思って移住を決めた。
新居は中之条町伊勢町の住宅地にある敷地約三百平方メートルの二階建て。昨年六月に着工し、同年末に完成した。周囲の新築五軒はすべて八ツ場ダム水没住民が住む。
新居の世話をしてくれたのは、先に川原湯から中之条に転出した義兄だった。大工をしている義兄は土地の手配をしてくれ、住宅の建設も請け負ってくれた。
同じ境遇の人が近くにいるため、「新しい土地になじめないのでは」という不安はなかった。近くにスーパー、図書館、イベント施設もあり、川原湯の時と比べると生活は便利になった。
○地元への約束
だが、計画浮上から半世紀の末、生まれ育った土地を離れなければならなかったことに対する複雑な感情は消えない。川原畑に残した畑に今も農作業に通うが、行くたびに家はなくなり、空き地には雑草が生い茂るようになった。
中之条に引っ越した後も大切にしている紙がある。「補償基準妥結と同時に代替地造成を実施する」。一九九二年、当時の建設省と県が地元への約束を記したものだ。
「補償基準妥結から四年も経過しているのに代替地ができていない。私も来年は七十歳。ダムに翻弄(ほんろう)されてきた半世紀だった。もう待てない」。篠原さんは、ずっと故郷の未来を見守っていくつもりだ。
【川原湯温泉駅】JR吾妻線の駅で、一九四六(昭和二十一)年に「川原湯駅」として新設された。川原湯温泉の玄関口として利用され、名称も九一年十二月に「川原湯温泉駅」に変更された。八ツ場ダム建設で水没するため、同線の新設に伴い、川原湯地区の上湯原代替地内に建設される予定。
(6) 地区内移転
車がやっとすれ違えるほどの細いカーブを上りきると、道の両脇に二軒の住宅建設が同時に進む工事現場が目に入る。さらに進むと、真新しい家屋が立ち並ぶ地域になる。約百世帯のうち四十六世帯が水没する長野原町林地区では二年ほど前から水没住民による新築ラッシュが続いている。
二〇〇一年六月に補償基準が妥結したが、代替地造成は先送りされた。このため、補償金を手にしながらも、地元で生活再建を目指す住民は行き場のない状態となった。
○3者契約
地域がすべて水没する長野原町川原湯、川原畑と異なり、半数以上の世帯が水没対象外の林地区住民は代替地造成を待たずに、自分の土地や知人から購入した土地に住宅を建設する「自主的生活再建」を選んだ。
この方式では、土地を売買する二者の間に国土交通省が入る三者契約という制度が活用され、税金が一部控除された。
新築住宅は当初、数軒程度だったが、この制度の活用もあり十軒以上になった。現在も工事が進められている住宅もあり、最終的には二十軒近くになるといわれる。
四十年以上林地区に住む星河由紀子さん(62)は、十年ほど前に夫を亡くしたのを契機に地区内に所有する土地に住宅を新築した。
子供が独り立ちしていたため、それからの独り暮らしを考えると急に心細くなった。手続きを一人で行うようになると体力の限界も感じた。
「体が動くうちに移転しないと大変と思った。いろいろな人に相談したが、代替地がいつできるか分からないので決断した」と理由を語る。
設計はできる限り自分の理想にこだわった。庭は、九州への旅行で印象深かった庭園をイメージして約六百平方メートルの敷地に芝生、石塔、池を持つ純和風にした。車庫には囲炉裏やカラオケスペースをそろえ、友人との憩いの場にした。
○次世代も
星河さんの自宅から約百メートル。同地区に生まれ育ち、所有していたすべての土地と家屋が水没する会社員の中里守さん(47)は、購入した土地約三百平方メートルに二階建て住宅を建設。隣の約一千平方メートルの敷地は家庭菜園とし使っている。
「二十代のころからダムが頭から離れたことはない。ダムのため仕事もかえたし、交渉に必要なことも勉強した。やっと満足できる生活を手に入れた。次の世代にも今の生活を続けさせたい」。中里さんの心からの思いだ。
【川原畑諏訪神社】川原畑地区の信仰の中心となる神社で信州諏訪神社の分社。江戸末期から明治ごろの火事で焼失したが、一九二八(昭和三)年に現在の社殿が完成した。八ツ場ダム建設で水没するため、地元はすでに水没対象外の場所への移転を決めている。
(8) 伝統行事
ともされた百八本のろうそくの炎が、山を切り開いたような絶壁を背に揺れる。長野原町川原畑地区の信仰の中心「三ツ堂」観音堂。毎年八月十六日の夜、ろうそくの炎が、辺りを幻想的な雰囲気に包む。集まった住民は山の斜面から夜空に向けてロケット花火を次々と打ち上げて、その夜を締めくくる。
「三ツ堂の 百八灯(ひゃくはちとう)」と呼ばれる二百年以上続く送り盆の伝統行事。起源は明らかではないが、地元住民の無病息災を願って始まったとされる。以前は子供による行事だったが、少子化のため現在は地区を東西二班に分けて当番制で行っている。
○人口減少
今年の「百八灯」の準備は午後六時すぎから始まった。集まった人たちが雑草で覆われた通路に竹を立て、その上に一本一本ろうそくを立てた。
「三十年ぶりに地元に戻ったら大人の行事になっていた。以前は子供の行事だったから、また、やることになるとは夢にも思わなかった」。公務員を退職後、地元に帰った野口良平さん(66)は作業の手を休めずに話した。
一緒に作業をしていた中島藤次さん(63)は「行事は二百年続いたが、この地区は世帯数も人口も減ってしまった。本当に寂しい。この場所で、できるのはあと何回だろうか」と力なく話した。
八ツ場ダム建設で全世帯が水没する同地区は転出が相次ぎ、地域の機能が維持できるか、五地区の中で一番危ぶまれている。
同地区ダム対策委員会によると、八十軒以上あった世帯数が四年前の補償基準妥結後に次々と転出、今は二十六軒になった。代替地移転後の意向調査が進行中だが、転出者はまだ出てくるとされ、最終的に残るのは二十軒を下回るとされる。
世帯数と人口の減少が続く中でも住民は何とか住み慣れた土地を守ろうとする。その気持ちは伝統行事を続けることにも表れる。野口さんは「人口が減ると大変だが、伝統行事は続けなければいけない」と語る。中島さんも「ここまで続いた伝統を人口が減ったからと簡単にやめるのは忍びない」と住民の気持ちを代弁する。
○まちの青写真
七月の分譲基準案妥結了承を受け、同地区ダム対策委員会は八月定例会からまちづくりの協議を始めた。地域にとって重要な神社や観音堂などの移転先を決め、土地所有者と交渉を始めた。来年夏までに、まちづくり全体の青写真を決める。
百八灯の会場では、子供が父親や母親に促され、花火で遊ぶ光景が見られた。年々参加者が減る祭り。故郷がダムに沈んだ後も代替地で続けられるかどうか心配されている。それでも百八灯をダムに沈んだ故郷を後の世代に語り継ぐよすがにしたい。残る住民も移転する住民も託す思いは同じだ。(おわり)
【三ツ堂】川原畑地区の代表的史跡。かつて産泰堂、閻魔堂(えんまどう)、毘沙門堂(びしゃもんどう)の三つが並んでいたことからこの名が付いたという。周辺には約七十体の石仏や五輪塔が並ぶ。八ツ場ダム建設で水没するため地元が移転準備を進めている。
この連載は中之条支局・新井正人が担当しました。