2006年5月1日~3日 読売新聞群馬版より転載
国や旧公団の事業として周辺工事の着工後に全国で初めて、建設中止となった片品村の戸倉ダム。3月末で、事業主体の水資源機構の現地建設所が撤収した。地元支援事業で完成した一部施設は間もなく開業するなど、地域は新たな一歩を踏み出す。約300億円を投じたあげくストップした事業は何をもたらしたのか。
■ 戸倉ダム
主に埼玉県、東京都の利水と、利根川水系の治水のため、総貯水量9200万立方メートルの重力式コンクリートダムとして計画。1987年度に事業着手され、総事業費は1230億円が見込まれた。当初は2000年度の完成を目指していたが、周辺でクマタカの営巣が確認されたため、96年度から約5年間、工事を中断。工期を08年度まで延長して再開後、間もなく中止が決まった。
5月1日 【再出発】ー上
「観光に活用 自立正念場」
雪解けを待ちわびたように、青々とした人工芝のテニスコート6面と、真新しいフェンスに囲まれた野球場が姿を現し始めた。
片品村営スキー場だった高台は、ダム建設計画を経て、運動公園に生まれ変わった。5月上旬にはオープンし、合宿の学生らの歓声が響くはずだ。
「今まであった運動施設は老朽化が激しかった。観光で生きる戸倉は、この施設で大きく変わる」
地元住民による戸倉ダム対策委員長の萩原一志さん(49)は「春」を待つ住民の声を代弁する。
ダムは1982年に計画が浮上。水没地区に居住者はなかったが、地権者には先祖の土地を手放すことに抵抗もあった。だが、約45億円に上る地元支援事業が示されたこともあって打開に向かい、住民からの用地買収はほぼ終了。94年度に国道付け替えなど周辺工事が着工していた。村民も、ダム建設と支援事業を前提とした村づくりにカジを切った。
だが、5年間の工事中断を挟み、2003年12月、大口の事業費を負担する埼玉県が「水需要の縮小」を理由に撤退を表明。東京都なども追随し、同月中には最終的な中止が決まった。
地元支援事業は曲折もあったが、計約35億円分は実施が決定。間違えて掘った穴を埋め戻すかのような、「村の復旧」が始まった。
運動公園の一部もその一環。支援事業に基づく地域振興策は、尾瀬の観光情報発信拠点となる「尾瀬自然文化博遊館」(仮称)や森林公園、散策道の建設など観光が柱となり、尾瀬の玄関口へ追い風としたい考えだ。
村は4月から運動公園の運営を、指定管理者制度に基づき、行政区としての戸倉地区に委託した。支援事業で今後できる新設施設はすべて戸倉地区に委託し、「住民主導」で活用していく考えだ。実際の企画と運営は、行政区組織内に設ける施設運営委員会があたる。従来のダム対策委員会は、施設運営委員会に一部移行する形で、今夏までには解散する予定だ。
しかし、指定管理者となれば、施設を無償で貸与される代わりに、赤字を出した場合は住民側の負担となる。年間の総土木費が3億円余りの同村にあって施設建設は“特需”といえるが、「完成後、逆に重荷とならないか」という懸念も抱える。
「20年後、30年後、戸倉が自立して生きていけるよう、地域の仕組みを根本から見直す大事な時」。萩原さんは力を込める。
平成の大合併では、一線を画した村が、「ダム建設の村」から脱却し、本当の意味で自立できるか。遅い春を迎えた住民の吐く息は例年になく熱を帯びる。(田島大志)
5月2日 【宙浮く54ヘクタール】-中
「消えない『治水対策』論」
「観光施設などの地域支援事業もいいが、売り渡した土地は当面、何か作るという話はない。地元が協力して提供したのだが……」
尾瀬の玄関口・戸倉で「はぎわら旅館」を営む萩原和好さん(66)は表情を曇らす。
旅館から約2キロ離れた片品川上流。ダムの底に沈むはずだったかつての所有地には、「国有林」との立て札が立てられたままだ。
事業主体の水資源機構は建設中止前、水没予定地約209ヘクタールのうち、一帯の大地主である東京電力の所有地を除いた個人所有の54・3ヘクタールを地権者約30人から買収済みだった。萩原さんも1平方メートル当たり約1500円で提供した。広大な山林は、機構が保有したまま手つかずだ。
土地収用法では収用した土地が不要になった場合、地権者の買い戻し請求権を認めている。しかし、任意に売却した戸倉では、機構側が仮に働きかけても、住民側が買い戻しに応じる見込みは乏しい。
実際、もともと宅地などではなかったこともあって、「何年も前に売った土地。もう一度同じ値段で買ってくれと言われても無理。金も使ってしまっている」(ある地権者)との空気が強い。
事業中止は想定外で、買収した土地に関する明確な規定などもなく、このまま「塩漬け」の懸念もある。
県のある幹部は「まず活用策を検討するのが先」と指摘。「林野は環境面から見直されており、水源回復のために保全しながら使うといった方法もあり得る」と提案する。
しかし、機構側は「適正な処分方法を検討する」と話すにとどまり、具体的なプランは示されていない。
地元関係者らの間でくすぶるのが、「治水ダム」の再建設案だ。
03年12月の中止発表時、機構は「治水・利水共同事業としての建設を中止する」としながら、利根川上流ダム群の整備の遅れを挙げ、「治水対策は依然として必要」としていた。
今年2月に国土交通省がまとめた河川整備基本方針では、既存ダムでカバーできない治水流量はダム整備でまかなうと明記。同省関東地方整備局は「戸倉ダムも選択肢の一つではある」と認める。
「用地買収という最も困難な作業がない上、ボーリング調査も不要。こんな簡単な場所はない」(地元ダム対策委員)との見方がされ、「住民の99%が観光で食べている。観光にプラスになるものには反対しない」などと、地元住民に建設を期待する声もある。
用地問題について、法政大の五十嵐敬喜教授(公共事業論)は「事業中止後の法的措置の定めがないことが根本的な問題だ」と指摘し、治水ダム論には「結局は、治水に名を借りた公共事業が欲しいということもあるのではないか」と話す。
建設中止発表から2年半。機構側にも、住民にも、「ダム後」の地元支援事業は「ほぼうまくいった」との受け止め方が広がっている。そんな中で、買収済みの水没予定地という積み残された大きな課題は、国と地元の思惑が交錯するなか、合理的な着地点はまだ見えて来ない。(武田泰介)
5月3日 【連携のあり方課題に】-下
「お金がかかるからダムをやめるのに、従来の金額の支援事業はできない」
「地元に迷惑をかけたのだから続けるべきだ。下流の水源確保のため、群馬県は尽力している」
2003年12月。埼玉県の撤退表明に端を発した戸倉ダム建設中止で、焦点となったのは、下流都県の支出する基金で進めてきた建設に伴う地元支援事業だった。中止前に約15億円がつぎ込まれ、あと約30億円が投じられる予定だった。
大幅に減額か、継続か。平行線をたどった。
群馬県幹部の耳には、地元住民から怒りの声が届いていた。「下流都県がダムを造りたいと言っておいて一方的に中止。約束もほごにするとは何だ」。四半世紀前に計画が浮上した際に、抵抗感を示した住民を軟化させたのが約45億円の支援事業だった。それゆえの反発だった。
下流都県側は「ダム中止で水をもらう(利水の)話がなくなり、利益は何もない。支援事業の継続は疑問」(埼玉県の担当者)と、大幅な見直しを迫った。
結局、国が提案して設置された有識者による第三者委員会が、中止後も継続する支援事業を選定。「水没関係地域の信頼を裏切ることなく、円満な解決への努力を尽くす社会的責任がある」と提言した。
05年3月、中止後の支援事業は約20億円に圧縮して継続を決定。下流都県の負担を減らし、国が9億7600万円を支出することにした。地元住民は、配慮がなされたと受け入れた。
だが、両者のわだかまりは消えていない。
支援事業に含まれた下水道整備について、「住民のために地元自治体が本来行うべき事業」と下流都県の一部が抵抗した。
片品村の千明金造村長は「下水道は下流にきれいな水を流すため。受益者が費用負担するのは当然」と主張。「上流の自治体は税金を使って川の水質維持・管理をしている」とし、ダム問題を別として、下流域からの恒常的な財政支援となる税制度の創設を訴える。
水源に関する税は、03年に高知県が導入して以後、広がりを見せる。性格や使途には違いがあり、07年度に神奈川県が導入予定の新税は、上流域の下水道整備を含めた事業への支出も想定している。
両県は県内に水源と河口を抱え、県税として完結できるが、群馬は異なる。千明村長は今後、水源を抱える他の町村とも連携し、全国レベルの「水源税」の導入を求めていく意向だ。
これに対し、下流都県側は「お金だけ渡す関係ではうまくいかない。地域の実情に合った構想を上流の自治体がつくった上で、水資源の受益者としてどこまでサポートできるかを考えたい」(東京都の森田雅文・水資源担当課長)とする。
戸倉ダム支援事業の第三者委員会委員で元高崎経済大教授の横島庄治氏は、「『水源税』や『水源宝くじ』による直接支援も一つの方法だが、額の算定をはじめ難しい面がある」とし、「上流に下流都県向けの学習施設などをつくり、水源地域への理解を深めてもらいながら、お金を落としてもらうアイデアもある。間接的な財政支援策を含め、協議していく必要がある」と指摘する。
浮かび上がった「上流県」対「下流都県」の構図。戸倉ダムは「水源県」の未来に大きな宿題も課した。(田島大志)