「時間と闘う住民 止まらぬダム事業を読み解く」(朝日新聞)

2006年10月22日 朝日新聞より転載

「補助線 時間と闘う住民 止まらぬダム事業を読み解く」
 「加藤登紀子となかま達が唄う八ッ場いのちの輝き」というコンサートに行った。今月9日、東京・神宮外苑の日本青年館ホールは約1300人の聴衆で満席だった。
 「八ッ場」とは群馬県長野原町の吾妻川(利根川の支流」に国が計画する八ッ場ダムのこと。首都圏の水を確保し、利根川の洪水を防ぐためだとして、約800年続く川原湯温泉や農村が水没する。
 最初に司会者が「八ッ場ダムは計画が発表されて54年になります」と言うと、会場からどよめきが起きた。多くがこのダムを知らなかった。
 八ッ場の紹介ビデオが舞台のスクリーンで上映される。加藤登紀子さんが現地で住民の苦渋の声を聞いている。水没予定地の周辺で生活をやり直そうと思ったのに、代替地の造成が遅れ、国が示した値段も高くて手が出ない。故郷を離れる人が相次いでいる。
 舞台に登場した登紀子さんは語った。「八ッ場のことを知らなかった私はショックでした。みんなが元気になれるように応援したい」
 環境派の登紀子さんも八ッ場を知ったのは昨年。現地の女性の詩集「ダムに沈む村」を読んだのがきっかけだ。市民団体「八ッ場ダムを考える会」と連絡をとり、首都圏で八ッ場問題を広く訴える初のコンサートが実現した。
              △
 八ッ場ダムは必要性を疑問視する声が強い。水問題評論家の嶋津暉之さんらによると、首都圏はすでに「水余り」。洪水防止効果も限定的だ。むしろ弊害が大きい。事業費は日本のダム史上最高の約4600億円。軟弱な地盤や強酸性の水質など支出増のリスクも抱える。美しい渓谷など豊かな自然が失われ、地域社会も壊れてしまう。
              △
 問題の多い八ッ場ダムがなぜ知られていないのか。ひとつは受益者が一都五県にまたがることだ。熊本県の川辺川ダムや徳島県の吉野川可動堰のような流域一体の運動が難しく、報道機関も全体像を伝えにくい。また、かつて「成田か八ッ場か」といわれた激しい現地の反対運動が担い手の高齢化で下火になり、発信力が弱まった事情もある。
 知らなければ世論の後押しもない。孤立した現地では親子3代が生活の見通しの立たない中で、01年の補償基準妥結など国に寄り切られた。ダムの本体工事はこれから。国は10年の完成をめざす。
 「官僚の最大の武器は時間。住民は自らのいのちと時間との闘いで負ける」。公共事業に詳しい五十嵐敬喜・法政大教授は指摘する。
 官僚をどう止めるのか。教授によれば、中止した場合の補償や地域再生の法制度を整え、政治決断に踏み切る。島根県の中海干拓事業は政治決断で止まった。それには強い世論の支持が欠かせない。
 「いのちと時間との闘い」をきちんと報じていきたい。(編集委員 辻 陽明)