2009年6月24日 朝日新聞群馬版より転載
http://mytown.asahi.com/gunma/news.php?k_id=10000000906240003
国営八ツ場ダムの水没予定地ではかつて、豊かな農村生活が営まれていた。長野原町川原畑の東宮(ひがし・みや)遺跡で、1783(天明3)年の浅間山の噴火によって引き起こされた泥流にのまれた集落跡が、前例のない規模で発掘されている。研究者は「貧しいとされる当時の山里の暮らしぶりの定説を覆すような発見」と驚いている。(菅野雄介)
県埋蔵文化財調査事業団によると、東宮遺跡は07年10月から本格的な調査を始めた。吾妻川の河岸段丘上の地表面から1メートル以上掘り下げると、14棟の建物跡が姿を現した。
特に研究者らの注目を集めたのが、東西20・2メートル、南北11・8メートルの大きな屋敷跡だった。近くをわき水が流れて泥に埋まった状態が保たれていたため、屋敷の半分以上の建築材やおけ、風呂が腐らず残っていた。当時の繭もみつかった。屋敷跡は「真空パック」のような状態になっていたという。
屋敷には広い座敷や板間、かまど、コタツ。囲炉裏も3カ所あった。さらに4~5頭分の馬屋跡も。道を挟んだところには蔵とみられる建物跡もあった。建物内に井戸が掘られ、たるに使う木栓も多数転がっていた。
「酒造りをやっていた家は、浅間押し(天明泥流)の時、馬5頭に大事な酒を背負わせて逃げた」。この地の伝承が裏付けられた。
付近で掘り出された刷毛(は・け)に墨で書かれていた「酒蔵用 天明二年 野口蔵」の文字や、土間から出てきた砥石(と・いし)に刻まれた屋号などからも、屋敷は名主などを務めた野口家のものだとみられている。
当時は幕府老中の田沼意次が権勢を振るった時代。商品・貨幣経済が発達し、商品作物の栽培が広がった。
東宮遺跡の埋蔵文化財は、当時の山村でも豪農が養蚕や酒造りを手がけ、交易が盛んだったことを推測させるという。
同遺跡は八ツ場ダムの水没予定地で、現在は一時調査を中断している。94年にダム建設を前提に始まった予定地周辺の発掘調査の対象は約137万平方メートルに及び、総額98億円と20年を超す歳月をかけて71カ所の遺跡を調べる。国土交通省などによると、費用は4600億円のダム建設事業費からまかなっている。
水没予定地のほか、JR吾妻線や道路の用地、住民らの移転代替地などで順次、発掘が進められている。豊かな自然や山の恵みなどを反映し、吾妻川を挟んだ長野原一本松遺跡と横壁中村遺跡からは、縄文時代の竪穴住居跡がそれぞれ200軒以上発掘された。ほかの遺跡からも、約1万年前の縄文時代から弥生、平安などの各時代の住居や土器などが出土している。
これらの遺跡はダム湖の底に沈むか、道路建設などで消えるため、調査員らが遺物を掘り出し、記録保存に精を出している。調査関係者の一人は「貴重な遺跡が出たとしても、ダムを止めるわけにもいかない。そのまま残せないのは仕方ない」と話している。
松島栄治・嬬恋郷土資料館名誉館長の話
天明泥流の遺跡は20カ所以上発掘されているが、他とは比べものにならないほど東宮遺跡は資料が豊富だ。年貢に苦しみ、食うや食わずの生活だったという江戸時代の農民の生活レベルを覆すような豊かな生活がうかがえる。交通の便に恵まれていたとは言い難い土地なのに、どうしてこんなに豊かだったのか。検討を加える必要がある。