八ッ場あしたの会は八ッ場ダムが抱える問題を伝えるNGOです

衆院国交委員会(3/16)の議事録

2010年3月26日

 3月16日に衆議院国土交通委員会で開かれた八ッ場ダムに関する参考人質疑の議事録が衆議院のホームページに掲載されました

http://www.shugiin.go.jp/index.nsf/html/index_kaigiroku.htm
 上記のページで国土交通委員会をクリックし、次に平成22年3月16日の「第6号」という青字の箇所 をクリックすると、議事録が出てきます。

 議事録を全文転載します(一部省略)。

平成二十二年三月十六日(火曜日)

 午前九時一分開議

 出席委員 省略

   
   参考人

   (川原湯温泉旅館組合長)豊田 明美君

   (水源開発問題全国連絡会共同代表)嶋津 暉之君

   (東京大学名誉教授)

   (法政大学客員教授)虫明 功臣君

   (東洋大学国際地域学部教授)松浦 茂樹君

   (京都大学名誉教授)奥西 一夫君

   国土交通委員会専門員 石澤 和範君

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 国土交通行政の基本施策に関する件(八ッ場ダム問題等)

     ――――◇―――――

○川内委員長 これより会議を開きます。

 国土交通行政の基本施策に関する件、特に八ツ場ダム問題等について調査を進めます。

 本日は、参考人として、川原湯温泉旅館組合長豊田明美君、水源開発問題全国連絡会共同代表嶋津暉之君、東京大学名誉教授・法政大学客員教授虫明功臣君、東洋大学国際地域学部教授松浦茂樹君及び京都大学名誉教授奥西一夫君、以上五名の方々に御出席をいただいております。

 この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げさせていただきます。

 本日は、御多用中のところ本委員会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人各位におかれましては、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただきたいと存じます。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 まず、豊田参考人、嶋津参考人、虫明参考人、松浦参考人、奥西参考人の順で、それぞれ十五分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。

 なお、念のため参考人の方々に申し上げますが、御発言の際にはその都度委員長の許可を得て御発言くださるようにお願いを申し上げます。また、参考人は委員に対し質疑をすることができないことになっておりますので、あらかじめ御承知おきを願いたいと存じます。

 それでは、まず豊田参考人にお願いいたします。

○豊田参考人 皆さん、こんにちは。私は、群馬県の八ツ場ダムの水没地にございます川原湯温泉の旅館組合長をしております豊田と申します。よろしくお願い申し上げます。

 少しでも地元の声を国に届けたいと思いまして、本日参りました。ふなれなものですから、失礼がありましたらお許しをいただきたいと思います。どうかよろしくお願い申し上げます。

 さて、昨年の九月に政権が交代をして以来、今日までの経過は皆様の御承知のことと思いますので、私は、江戸時代から続く温泉街の現状となぜこのような事態になってしまったのかということを、そして最後に生活再建についてお話をさせていただきます。

 まず、川原湯温泉の現状でございますが、平成十年とその十年後の平成二十年の十年間の変化についてお話をさせていただきます。

 平成十年の旅館の軒数は十八軒、飲食店は十一軒、川原湯温泉の人口は百八十四世帯五百三十五人が生活をしておりました。年間の観光客は二十二万人でございました。しかし、十年後の平成二十年には、旅館の軒数は七軒、飲食店の軒数は二軒となり、川原湯の人口は五十三世帯百七十四人まで急減をしてしまいました。観光客の入り込み数は十一万人と半減しております。

 ダムの工事が進むにつれて、観光地の魅力も減少をしていきました。それは、不動の滝の閉鎖や、萩の小道や吾妻渓谷の遊歩道、御存じの方もいらっしゃると思いますが、それらの道路のつけかえや通行どめなど、お客様に楽しんでいただくための観光名所が一つ、また一つと失われていくからでございます。それでも、あと数年の辛抱と気持ちを切りかえて、仕事の合間を縫って、日々再建計画を二十年以上もの間積み上げてきたわけでございます。

 しかし、前述のように、温泉街の魅力も失われ、我々の生活再建も見えぬまま、いわばゴールのないダム建設の長期化は、今月にも新緑を前にして一軒の旅館を閉鎖に追い込んでしまいました。現在では、営業している旅館は六軒でございます。しかし、この六軒も昨今の騒動で心身ともに疲れ果て、気力で店をあけているといった状態でございます。我々地元の事業者に再建の時間的猶予はもうないのです。どうか、生活再建が完了するまでの予測可能な時間軸を我々にぜひ示してほしいと切にお願い申し上げます。

 以上のように、一刻も早く再建をしなければならない、こういった環境の中で、なぜこのような状況になってしまったんだろうということについてお話をさせていただきます。

 私どもは、平成二十年八月十八日、当時の民主党の鳩山幹事長、現総理が視察に訪れまして、ダム中止という方向性が大きくうたわれました。そのとき、長野原町では、ダムの完成と住民生活の早期再建を要望させていただいております。また、同年十一月二十六日ですが、旅館組合、私どもでも、当時の民主党の小沢先生に、ダムをとめては困るという内容の手紙を出させていただいております。

 この時点で、すなわち八ツ場ダム中止をマニフェストに掲載する前に、なぜ地元と協議をしていただけなかったのでしょうか。昨年の選挙のときになぜ群馬五区に住民の窓口をつくらず、一方的にダムを中止されたのでしょうか。我々地元住民は、ダム中止の理由や中止した後の再建の行方すら聞く機会を得られず、完全にシャットアウト状態の中で一方的に中止の方向へ持っていかれてしまいました。

 つまり、住民不在の中でのトップダウンの独裁的な進め方により国と地方の信頼関係が失われ、その結果、お互いの距離がますます広がり、今日の膠着状態となってしまったと思われます。その渦中の中で、我々の生活は、現状、置き去り状態となってしまっております。

 次に、このような状況を踏まえ、ダムの今後と生活再建についてお話をさせていただきます。

 我々の生活再建は、一言で申しますと、もう待っていられないのです。我々が望むのは、ダムに影響されない生活再建です。もうこれ以上ダムに翻弄されたくないというのが地元の切実な思いでございます。ダムが中止になりますと、また再建をゼロベースで考え直さなければなりません。我々には、そのような時間もなければ、経済的に余裕も、精神的にゆとりも、もう持っていないわけでございます。

 現在の地元の惨状については、失礼ながら、中止の方向性を打ち出された方々にも大きな責任があると感じております。すなわち、ダム建設では、建設の是非とそれにかかわる生活再建案は常にセットであるべきと考えております。今でしたら、ダム完成に準じる生活再建案で、継続して考えていくことが早期再建に最良と考えております。しかし、ダム中止と言われても、それに準じた地元住民同意の上での生活再建案が全くありません。

 それどころか、湖面一号橋につきましては、必要ないという声まで上がっておるわけでございます。私たちにしてみれば、湖面一号橋は命の橋です。ダムで人口が減少した現地の人々が、村社会の枠を超えて、川原畑という隣の地区がございますが、その地区と一体となりまして地元を支えていく、本当に命の橋でございます。

 現に、川原湯と川原畑の両地区では、消防団の統合や子供育成会の合同の活動とか、その他さまざま、既に一緒に行っている事業がたくさんございます。さらに、高齢者の多いこの地域では、将来お年寄りの交流も一号橋なしには考えられません。先んじて、この一号橋は、将来の利便性の向上により、ダムで失われたこの地域の生活者の人口増加の可能性を大いに今後引き出してくれるものと期待をしております。このように、地元の我々には一号橋は必要な橋なのです。

 皆さんの中では、なぜダムが必要なのか、すなわち観光地が水没することをそんなに容認するのかとおっしゃる方もいらっしゃいます。しかし、ここまで進んでしまった工事環境の中で、その質問は余りにも地元住民の気持ちがわかっていない質問なのです。

 私たちは、下流の住民の皆さんの水害や渇水をニュースで聞くたびに、ダムの受け入れを決心してまいりました。さらに、二十年以上の間まちづくりに費やしてきた時間を無駄にしたくはないのです。皆さんから見れば、不十分な生活再建だと笑われるかもしれません。しかし、ダム湖観光のよい部分は伸ばしていただき、悪い、いや、心配される部分は修正していけば、我々のダムに費やした時間も無駄にせず、生きてくるのではないでしょうか。

 この八ツ場の再建は、政府主導による地域再生の成功事例として今後やっていくよい機会にすべきではありませんか。地元住民合意の上の国策として実行に移せるよいチャンスではありませんか。地方の理想の将来像を形にするという作業は、地方分権、地域主権、ひいては将来の国益にもつながると思います。本問題は、ダム問題としてとらえるのではなく、国が地方の民意を取り入れて、二十二世紀の地方をいかに再生し、活気づけていくかという、今後の日本のモデル地区の創出としてのとらえ方をしていただけるとありがたいと思っております。

 私たちは、ダム建設の中で、また河川法の制限された中で、施設の改装もできず、我慢をし、国の言う計画を信じて、五十七年も新しい施設の再建を夢見て今日まで協力をしてまいりましたことを、最後に御理解いただきますようよろしくお願いを申し上げまして、私の意見陳述を終わります。

 どうもありがとうございました。(拍手)

○川内委員長 豊田参考人、ありがとうございました。

 次に、嶋津参考人にお願いいたします。

○嶋津参考人 水源開発問題全国連絡会の嶋津と申します。きょうは、意見を述べる機会をいただき、ありがとうございます。

 私の方からは、利水と治水の両面から見た八ツ場ダムに関する意見を述べさせていただきます。

 お手元の資料でこういうものが、これに沿ってお話を進めますので、この資料をごらんいただきたいと思います。

 まず、利水の方から話を進めます。

 首都圏の水事情、水需給の状況は、数十年前とはもうさま変わりしております。かつては、水需要は増加して、水不足という時代があったわけでありますが、現在は、水需要は減る一方で、水余りの時代になっております。

 資料の二ページ目をごらんください。これは首都圏の水道用水の動向を見たものですが、首都圏の水道用水は、一九九〇年代後半から減少の一途をたどっております。

 この首都圏のうちの東京都を見たのが次の三ページ目でございます。東京といいますと、最近は人口はふえております。年間約十万人ぐらいということで、結構ふえているんですが、水道給水量は全く別であります。東京都の水道給水量は、九二年から坂を転がり落ちるように減ってきております。

 一方、利根川、荒川では、ダム等のたくさんの水源開発が行われてきました。その結果として、東京都水道もたくさんの水源を持つようになりました。東京都の水道で今の保有水源と一日最大給水量の差は、一日約二百万トンにもなっております。これは、人口に換算しますと四百万人相当です。それだけの余裕水源を東京都は持っているわけであります。ほかの県もやはり余裕水源をたくさん抱えておりまして、今、首都圏全体としては、大変な水余りの時代になっているということであります。

 なぜこのように水需要は減ってきたかということですけれども、次の四ページ目をごらんください。水需要が減ってきた要因は幾つかありますけれども、その最も大きな要因は、節水型機器の普及であります。最近、水使用機器は、節水型であることが重要なセールスポイントでありまして、より節水型のものが開発されてきております。

 この図は、あるトイレメーカーのトイレの一回当たりの使用水量、これが販売年によってどう変わってきたかを見たものですけれども、かつてこのメーカーが出したものは、一回流すと十六リッターの水が流れておりました。今や四リッターから五リッターということで、三分の一以下まで減っているわけですね。このような節水型機器が普及してきたということ、それから、この節水型機器はこれからも普及していくということです。

 一方、人口はどうかということで、五ページ目をごらんください。首都圏の人口は今はふえておりますが、間もなく、二〇一五年以降は減るという予測を国立社会保障・人口問題研究所が出しております。ということで、首都圏の人口も近い将来は減っていくということ。

 次の六ページ目ですけれども、そういう今の二つのことを踏まえると、今後首都圏の水道用水はどうなっていくかというと、九〇年代後半から減ってきているということは申し上げました。今後は、節水型機器のさらなる普及と、それから人口の減少によって、首都圏の水道はこれからますます減っていく、水余りの状況がますます顕著になっていく。そういう時代でありますから、八ツ場ダム等の新たな水源開発は基本的にもう必要がなくなっていることは明白だということであります。

 ただ、八ツ場ダムに関しては、暫定水利権という問題があります。次の七ページ目をごらんください。この暫定水利権のほとんどは、埼玉県水道、群馬県水道等の農業用水転用水利権であります。農業用水を転用した水利権だということで、非かんがい期、冬場の分が権利がないということで、冬場の権利を得るために埼玉県水道等は八ツ場ダムに参加して冬期の水利権を得ようとしているわけです。八ツ場ダムができるまでは、暫定水利権という扱いを受けているものであります。

 次に、八ページ目をごらんください。ところが、冬場、暫定水利権とはいえ、実際には埼玉県の水道等は、冬場もこの農業用水転用水利権によってずっと長い間使い続けております。古いものは三十七年間も取水実績があります。今まで、冬場の取水で支障を来したことはほとんどありません。

 なぜこの権利が安定水利権でないにもかかわらず取水することができるかという理由ですけれども、次の九ページ目をごらんください。冬場といいますと、かんがい用水の取水量がぐっと減る結果、取水量全体が大きく落ち込みます。夏場に比べれば三割ぐらいまで落ちてしまうということで、冬場というのは水利用の面では十分に余裕がある。だから、埼玉県水道等の農業用水転用水利権による冬期の取水が可能だということであります。

 ということを踏まえますと、次の十ページですけれども、農業用水転用水利権、冬場の取水は暫定水利権という扱いを受けておりますが、実際には、八ツ場ダムがなくても何ら取水に支障を来すことなく、安定水利権に変わらないものですね。ということは、実態に合わせて安定水利権に変えれば解消されることであって、これは国土交通省の水利権許可制度の問題です。その許可制度を変えれば、この問題は一挙に解消されるということであります。

 あと、八ツ場ダムがないと、大渇水が来たらどうするのかという話がよく出ます。しかし、八ツ場ダムというのはそれほど大きなダムではありません。次の十一ページ目をごらんください。夏場、渇水が来るのはほとんど夏場ですけれども、これはちょうど洪水調節期に当たりますので、八ツ場ダムは水位をぐんと落として、夏場の利水容量が二千五百万立方メートルしかありません。

 次の十二ページをごらんください。利根川水系においては、国の関係で十一のダムがあります。その夏期の利水容量を合計しますと、約四億四千万トン強あります。ですから、仮に八ツ場ダムができても、夏期の利水容量は全体でどれくらいふえるかというと、約五%ふえるだけなんですね。ということで、八ツ場ダムがあろうがなかろうが、渇水に対する利根川水系ダムの状況はさほど変わらないということです。

 以上のように、利水面で八ツ場ダムの必要性はもうなくなっているということであります。

 では、治水の方ではどうでしょうか。治水についても、八ツ場ダムは利根川の治水対策上非常に重要な役割を果たすんだということがよく言われておりますが、実際はそうではありません。八ツ場ダムの治水効果は小さなものであります。

 十三ページ目をごらんください。利根川治水計画のベースになっているのは、昭和二十二年のカスリーン台風洪水であります。このカスリーン台風洪水のときにもし八ツ場ダムがあればどれくらい効果があったのかということを、国土交通省みずから計算をしております。その結果は、何とゼロであります。利根川に対する効果はゼロだということです。カスリーン台風のときは、八ツ場ダムの予定地上流域は雨が少なく、それから降雨の時間帯がずれたということで、利根川に対する治水効果はゼロなんですけれども、これは別にカスリーン台風だけの特異現象ではなくて、八ツ場ダムの治水効果は小さいものだということです。

 具体的な例をお話しします。十四ページ目をごらんください。最近五十年間で最大の洪水は、平成十年九月洪水であります。そのときにもし八ツ場ダムがあったらどれくらい効果があるのか、利根川に対してどれくらい効果を発揮するのかということを、国交省の開示資料に基づいて計算をしてみました。その結果、八斗島、これは群馬県の伊勢崎市、ここが利根川の治水基準点ですけれども、そこでの効果は、最大で見て十三センチメートルの水位低下であります。

 これが大きいか小さいかということですけれども、このときの最高水位は、堤防の一番てっぺんから四メーター以上下を流れておりました。ということで、仮に十三センチの水位低下効果があったとしても、それは利根川の治水対策上何の意味もなかったということです。

 十五ページをごらんいただきたいんですが、国交省の利根川の治水計画でも、八ツ場ダムの効果は小さいものです。計画上出ている数字は、八斗島地点で毎秒六百トンの削減だと。これは、水位に換算しますと、八斗島地点で十数センチです。国交省の計画でもその程度にとどまっているということです。

 さらに重要なことは、十六ページをごらんください。今お話ししたのは八斗島地点の話です。それより下流に対して八ツ場ダムはどれくらいの効果を発揮するかというと、下流に行くほど八ツ場ダムの効果、ダムの効果というのは小さくなってきます。この十六ページは国交省の計算結果ですけれども、八斗島地点で削減効果を一〇〇%とした場合、江戸川と利根川下流においてはその二〇から四〇%まで落ち込んでしまうということです。ですから、八斗島地点での効果は小さいということは先ほど申し上げました。下流に行くとその効果がさらに小さくなっていくということで、八ツ場ダムの利根川に対する治水効果は非常にわずかなものだということであります。

 では、一方、利根川の洪水に対する河道の状況はどうなっているかということですけれども、十七ページをごらんください。利根川は、カスリーン台風の後、河川改修、河道整備が長年行われてきました。これは国交省、建設省の努力の成果ですけれども、大きな洪水が来ても十分な余裕を持って流下できるようになっております。この図は、先ほど申し上げた平成十年九月洪水の最高水位を、利根川中流部右岸について例にとって見たものですけれども、堤防のてっぺんから四メーター以上下を流れております。利根川の堤防の余裕高として必要なのは二メーターですから、十分に余裕があるわけですね。

 このように、河川改修の努力の成果として、利根川は大きな洪水に対して十分対応できる、そういう能力を既に有しているということであります。ということで、八ツ場ダムのわずかな治水効果は、今は意味を持たなくなっているということです。

 では、この利根川の治水対策、これでもういいのかというと、決してそうではありません。次の十八ページをごらんください。堤防の安全性の問題が残されております。

 堤防といいますのは、何度もかさ上げが行われておりまして、脆弱なところが各所にあります。この図は、同じく利根川中流右岸堤防について、洪水のときに水位が上がった場合、破堤の危険性がどれくらいあるかを国交省が調べたものを整理したものです。安全度一以上であればいいんですけれども、一を下回っていると、基準に不適合ということで、破堤の危険性があるということです。そういう場所が各所にあることがわかります。ほかの区間も同様であります。この堤防の強化対策を急いで進めなければなりません。

 十九ページをごらんください。この堤防の安全性の問題は、実際に堤防の漏水という問題を引き起こしております。この点を六都県知事の八ツ場ダムに関する共同声明でも問題視しております。漏水の発生していることは、これはすぐにでも対策を講じなきゃならぬ非常に重要な問題であります。しかしながら、この堤防の漏水防止対策を八ツ場ダムに求めるのは全く筋違いであります。これは堤防の強化によってしか防ぐことはできません。

 では、この堤防の強化対策はどうなっているかということですけれども、二十ページです。これは利根川水系での河川予算の使い方を見たものです。左側の図ですね。八ツ場ダム等のダム建設費がどんどんふえておりますが、一方で、堤防の強化対策等の河川改修の予算が急速に減っております。要するに、ダム予算に巨額の金をつぎ込んだ結果として、そのしわ寄せを受けて、本来優先して進めなきゃならない堤防の強化対策がなおざりにされているということです。

 そういう状況にありますので、今ここで利根川の河川行政を根本から変える必要があります。効果が希薄な、そういうダム建設にお金をつぎ込むんじゃなくて、流域の住民の安全を守る上で非常に切実な堤防の強化、ここに河川予算をつぎ込む、そのように利根川の河川行政を変えることが求められ、今急がれているわけであります。

 以上で私の陳述を終わります。どうもありがとうございました。(拍手)

○川内委員長 嶋津参考人、ありがとうございました。

 次に、虫明参考人にお願いいたします。

○虫明参考人 虫明です。発言の機会を与えていただきまして、どうもありがとうございます。

 私は、このカラーコピーをもって説明いたします。

 私は、ここ十数年、社会資本整備審議会とか国土審議会で、現在の利根川の基本方針あるいは利根荒プランにかかわってきた者でして、そういう立場からきょうはお話しいたしますけれども、前に断っておかなきゃいかぬと思うのは、私はダム推進派でも反対派でもありません。八ツ場ダムに限って、利根川における八ツ場ダムの治水と利水の効果について、科学技術的な立場からお話ししたいと思います。

 一枚はぐっていただきまして、話の内容ですが、まず、利根川流域の治水における八ツ場ダムの意義と効果、次に、首都圏の水供給における八ツ場ダムの役割、それらをまとめたものとしてやりたいと思います。

 最初に、治水上の効果について、これはやはり利根川治水の難しさ、これは人工河川でして、今まで大変な改造が行われ、治水に努力が行われてきたという背景を御理解いただかなきゃいかぬと思いますので、その辺からお話しいたします。

 五、六となっていますところをはぐっていただきますと、江戸時代以前の利根川というのが五ページに出ておりますけれども、これを簡略化してみると、下の六ページの図のようになります。

 利根川は、江戸時代以前は渡良瀬川とともに東京湾へ直接流下していた。鬼怒川、小貝川、さらに小河川で常陸川というのが銚子の方へ流れていたということがあります。それを、徳川家康が江戸幕府を構えてすぐにやった大事業、六十年間にわたった大事業ですけれども、これを東へ東へ移して銚子へつなぐと同時に、江戸川も開削して現在のような形ができたんです。

 これは何のためかというと、諸説がありますけれども、今最も有力な説と考えられているのが、幕府の交通運輸体系の確立、特に、東北の米を江戸へ運ぶのに房総半島の沖から東京湾へ入るというのは非常に難所だったので、内陸にそれを持ってきた。さらに、関東地方の米を集めるということで、八番のスライドにありますような形をつくったわけです。

 河川は、明治に入っても実はこの交通体系としての整備が中心でして、例えば、利根川では明治二十三年には利根運河というのをつくって、江戸川と利根川を短絡するということをやられておりました。

 当時どのような治水体系をとっていたかというのが九ページでございますけれども、洪水は流域の各所で散って流れている。重要なところを守るために、輪中、あるいは堤防から垂直に出るような堤防、横堤、控え堤といいますが、そういうものをつくっていたわけです。

 ここでは中条堤というのに着目してほしいんですが、当時、埼玉平野を守るために、埼玉平野の上流部、妻沼とか深谷というところ、最上流部に中条堤というのをつくって、そこへ遊水させて下流を守るという、重点的な守るところを守るために地先堤防をつくるというようなことがやられていたわけです。十ページの写真が、これは現在でも中条堤というのは残っておりまして、こういう形であるんです。

 これは、十一ページの図で見ていただくように、面積は、今の渡良瀬遊水地が約二十三平方キロなんですが、それよりも倍以上の面積を持っていて、人工的に下流に狭窄部をつくって、そこを閉めて、洪水が出ると水位を上げて上流ではんらんさせるということがやられていたわけです。

 そういう前提で、明治になって新田開発も江戸時代から随分進んで、開発が進んで水害が顕在化してくるという中で、明治二十九年に治水工事をやることを目的とした高水工事へと移るわけです。

 その後、明治に最初に河川改修計画が立てられたのは、明治三十三年、これは栗橋という地点、江戸川が分派する少し上流ですが、そこを基準点として計画が立てられ、なおかつ、計画対象となっている洪水は二、三年に一度起こるような中小洪水だったわけです。つまり、この時点では、先ほど申しました中条堤上流のはんらんを許容する形での治水計画が立てられていたわけです。

 そういうことで進んでいたわけですが、十三ページに移ります。これは、全国的に大きな被害が出た明治四十三年洪水というのがあるんですが、このときに、この中条堤が、遊水した水が、そこが破堤して、東京まで達するような大水害が起こります。このときに、この中条堤という堤防を強化するのか、あるいは廃止するのかという議論が起こりますが、結局、遊水地上流の人たちの反対の要望が受け入れられて、ここは締め切ると。つまり、この時点で、遊水を許さないような連続堤防で治水をやるということになったわけです。

 それが十四ページの明治四十四年の改修計画ですけれども、そのときに、基準点を栗橋から八斗島へ、上流の埼玉平野の出口に移しますと同時に、明治四十三年の洪水というのは一万トン級の洪水だったんですけれども、それを対象にはできなくて、その半分ぐらいな流量で計画し、それでも、なおかつ、渡良瀬遊水地という平地で水をはんらんさせることが必要だという計画です。

 このように見てきますと、利根川治水を最も難しくしているのは、今のような東遷事業によって、低平地を流れる河道が江戸川、利根川下流も含めて大変な距離を持ったということです。そこに、なおかつ、川を一本化し、渡良瀬川、鬼怒川、小貝川、さらに利根川上流のような支川をいっぱい集めて洪水を集中させるということをやったというのが、これが利根川治水を難しくしている条件であります。

 十六ページを見ていただきたいんですが、全国の川で見て、大河川で、それぞれの地域で特有な治水方式をとっているわけです。北上川というのは、北上川放水路というのを掘って、仙台平野を守るということができます。放水路が決め手になる。信濃川は、大河津分水というのを掘って、これは信濃平野、新潟平野を守ると言うことができます。木曽川については、木曽三川。あるいは、淀川については、琵琶湖、これは非常に大きな貯留能力を持っておりますし、それと下流の大阪を迂回する新淀川という放水路という決め手があるんですけれども、利根川は、低平地の長い堤防を強化、整備すると同時に、それだけではもたないので、中下流部の遊水地、さらに上流のダム群調節という、決め手がない中で三つを適切に組み合わせた治水が必要だということでございます。

 時間がありませんので治水の経過を簡単にお話ししますけれども、利根川では、その後も洪水、水害を受けてから流量を改定するという経過が進むわけです。明治四十三年の改修計画後に、昭和十年、十三年、十三年は六月と八月にあるんですが、水害を受けて、また計画を改定します。そのときには、一応、明治四十三年洪水の一万トンというのを八斗島地点での計画流量にし、渡良瀬遊水地に加えて、下流部で、菅生遊水地、田中遊水地という遊水地をさらに加えます。

 それでも、下流は、今まで非常に小さな洪水しか流せないような川だったものですから、佐原とか銚子とかという下流部は守れないというので、放水路というのを計画します。これは実はまだ実現しておりませんけれども、こういう計画をせざるを得ないというところがあります。

 十九ページに参りますが、カスリーン台風を迎えて大被害を受けるわけですが、この辺は御存じのとおりなので。

 二十二ページ、カスリーン台風のときに、初めて上流ダム群による洪水調節を導入したわけです。これも申しましたように、平地での調節が非常に難しいというので、これで八ツ場ダムも位置づけられるわけです。

 次の二十三ページに参りますけれども、それが、カスリーン台風後の計画の後で三十年を経過して、流域も変化し、なお、一番重要なのは、このカスリーン台風から三十年後に、関東平野に人口と資産が大変集中したということもあって、計画の見直しが行われるわけです。そのときに、流量が一万七千から二万二千に大幅に増加されます。これは、河川局の説明では、上流の河川整備、流出形態変化となっておりますけれども、私はこれは、利根川の人口、資産がふえたことに対して安全度を上げるという意図があったと推定しております。と同時に、当時、水資源開発が非常に重要になってきた中で、多目的ダムとして治水も乗って、上流での調節力をふやそうという意図があったと思います。

 二十五ページに参りますけれども、利根川の最も重要なことは、下流に非常に資産と人口が集積しておって、治水担当者、私も含めてですけれども、二度と利根川を、東京がつかるようなはんらんをさせないというのが非常に強い意図としてあるということを御認識いただきたいと思います。

 二十六ページですが、整備計画で見直しが行われます。ここでもほぼ五十五年計画を踏襲しておりますけれども、上流ダム群については、これからダムが余りできるような状況ではないということで少し低下させていると同時に、既設ダムを有効に使う、あるいは、かさ上げとか再編ですけれども、容量を変えるというようなことで対応するということで、新規のダム計画は少なくともこのときには議論になっていません。

 これに対しては、計画が過大だという批判があります。これは後で議論になると思いますけれども、私はやはり、利根川については、基本高水を下げて治水計画を縮小するというのではなくて、重要な首都圏を控えているのですから、むしろ一万年に一回あるいは千年に一回ぐらいな計画を立てて、これはダムで対処するということではありませんけれども、そういう目標のもとに治水計画を進めるべきだと思っております。

 ちょっと時間がありませんので、堤防について先ほどお話がありましたが、三十一ページです。堤防というのは土でできておって、特に利根川は、そこに地盤が出ておりますけれども、いろいろな旧河道とか堆積物でできたところへつくるというわけで、それに、古い堤防に盛り上げてつくるというので、洪水が来なければ弱点がわからないという事情があります。先ほど嶋津先生のお話にもあったように、水防活動の中で行われているわけです。

 三十三ページです。やはりダムは、全川にわたって水位を下げるということが非常に重要な役割を持っているわけで、できれば、全川にわたって効果があるということ。

 三十四ページですけれども、上流のダム群によって洪水調節するというのは、利根川にとっては重要だというお話は先ほどしましたけれども、利根川の上流では、その地図にありますように、大きく分ければ、奥利根、吾妻流域、それから、烏、神流という、ほぼ同じような流域が三つあるわけですけれども、奥利根については矢木沢初め幾つかのダム群があります。それから、烏、神流川については下久保ダムというダムがあります。実は、吾妻川にはこれがない。

 カスリーンのときにここに雨が降らなかったからというお話がありましたけれども、台風というのはどこをヒットするかわかりません。八斗島をホームベースとして見ますと、ライトには奥利根、それからレフトには下久保がありますが、センターに守備がないわけです。ここにダムをつくるということは非常に治水上重要でありますし、先ほど効果がないというお話ですけれども、実は、この八ツ場ダムの流域に大きな洪水があれば、数十センチ、三十センチから四十センチの水位を下げることができます。

 ちょっと利水についてお話しする時間がほとんどなくなりましたので、簡単にざっと見ます。

 三十六ページを見ていただきたいと思いますけれども、やはり高度成長、急激な都市集中によって、特に身近な地下水を利用するということが行われて、地盤沈下が起こるわけです。東京の地盤沈下はある程度鎮静化しておりますけれども、まだ埼玉では地盤沈下が進行中であります。今度の水資源計画でも、そのあたりの埼玉の地下水を用水に転用するというのが含まれております。

 三十九ページを見ていただきたいと思いますが、水資源開発促進法に基づいて、数年おきに、利根荒、全国の主要水系のフルプラン、いわゆる基本計画が改定されるわけですけれども、直近の改定というのは平成二十年七月に行われました。これは、平成二十七年度を目途として、それまでは平成十二年度を目途として計画されているものでしたけれども、それをかなり大幅に下方修正しております。これは、一都五県の水道利用者の需要見込みをまとめたものを、国土省の水資源部で、それを別の方法でチェックして積み上げたものですけれども、とにかく下方修正をしてきた。

 このフルプランができれば、四十ページにあるグラフのように、一応、先ほどお話しの不安定取水も解消されて、水需給がバランスするという見通しでやられているわけです。

 四十二ページから、北関東ではいまだに地盤沈下が進んでいるというその経過を示してありますけれども、四十七ページを見てください。四十七ページに、埼玉県の観測点での地盤沈下の進行状況ですけれども、栗橋あるいは越谷というところでは、いまだに地盤沈下が進行している。累積で一メートル四十以上ということで、いまだに一センチ以上の地盤沈下が進行しているところがあります。これは非常に治水上にも好ましくない影響を及ぼしているということ。

 あとは、もう時間がありませんので飛ばしますが、首都圏の水余りということがありましたけれども、実際に取水制限を三、四年に一回は行われているというようなこと、五十ページですね。それから、たまたま大雨が降って大渇水を逃れたというのが平成六年、平成八年ですけれども、五十一ページのような状況。決して首都圏の水は安定した状態にあるとは言えないと私は思っています。五十二ページにありますように、首都圏の利根川の水の安全度は五年に一回、あるいは三年に一回というようなことで、他の水系に比べても安全度は非常に低い状態にある。その中で、首都圏の水がそういう不安定な状態でいいのかということでございます。

 最後、まとめに参ります。

 五十五ページですが、一般論として、都市用水の需要が減少した現在は、多目的ダム計画は当然見直すべきだというふうに私も考えています。現に、水需要が減ったために多目的ダムをやめた例は幾つもあるわけです。

 それから、八ツ場ダムそのものの必要性については、治水上も利水上も、一都五県の議会で議決されて、その手続によって行われているということ。

 それから、発案から五十七年着工できなかったというのは、これはいろいろないきさつがあって、非常に地元には申しわけないことだと思いますけれども、やはり水没地の生活再建をどうするかという合意を得ることが時間がかかったということだと思います。

 その合意も一応得られたという段階で、都市の需要もあり、洪水の調節の効果もあり、水没地域の合意が得られたというような条件の中では、八ツ場ダムはやめる理由が見当たらないのではないかというふうに私は思っています。

 以上です。どうもありがとうございました。(拍手)

○川内委員長 虫明参考人、ありがとうございました。

 次に、松浦参考人にお願いいたします。

○松浦参考人 東洋大学におります松浦でございます。まず、本日、このような意見を述べる場をいただきましたことを深く感謝いたします。

 私の資料に基づいて述べてまいります。ちょっと講学的な話になるかもしれませんけれども、ひとつよろしくお願いいたします。

 まず最初、一ページ目、ここに、私の八ツ場ダムに対します基本的な考え方を述べております。

 どんなことかといいますと、八ツ場ダムの治水効果、さらに現在の利根川治水計画、現在の河川整備基本方針ですけれども、これに対しましては、少なからず疑問を持っております。一方、利水には八ツ場ダムは間違いなく効果を持ちます。それゆえ、利水安全度の向上、そして二十一世紀の新たな水利用として各地域の環境用水の確保を目的に、利水専用ダムにすべきだというぐあいに考えています。これが私の意見でございます。

 続きまして、では、どうしてそういうぐあいに考えているのかということにつきまして、説明をしていきたいと思います。

 まず、二ページ目を開いていただきたいと思います。二ページ目ですけれども、これは、図が六つほどございますけれども、利根川の近代治水計画を述べております。

 最初は、一九〇〇年、明治三十三年から事業がございました。それから今日に至るまで、五回ほど改定がございました。このうち、明治四十三年の改修計画、それから昭和十四年の改修計画、それから昭和二十四年の改修計画改定は、大出水により大水害を受けた後に改定されたものでございます。そして、昭和二十四年の改修計画で八ツ場ダムというのが登場してまいりました。すなわち、一九四九年の改修において初めて上流ダム群による治水計画というのが登場してきた、そういう経緯がございます。

 続きまして、一九八〇年でございます。昭和五十五年の改修計画改定がございました。これは、実はそれまでとは全く異なっております。どういうことかといいましたら、大出水による大水害というのはございませんでした。では、どうして変えたかということでございますけれども、それまでの治水計画の考え方に変更があった、変更といいますか、計画手法に大きな変化がございました。それに基づいて、新たな計画がつくられています。私は、これは高度経済成長時代の発想、高度経済成長時代の治水計画の考え方である、そういうぐあいに考えております。

 まずそれを言いまして、あとはこの資料に基づいて、ちょっと簡単に説明していきます。

 三ページ目に、先ほど言いましたけれども、その辺のところの経緯が書いてございます。

 それから、3でございますけれども、築堤による治水と上流山間部のダムによる治水との違いといいますか、実は、これは根本的に違いがございます。どんなことかといいますと、ダムなんですけれども、ダム地点で洪水調節をしても、実際に下流にどれほど効果があるのかというのは、実は洪水ごとに異なっております。極端な話、ダム上流で降雨がなくて他の流域で大豪雨があったら、そのダムというのは全く役に立ちません。流域のどの地点にダムを設置するのかが非常に大事です。そういう意味で、ダムは築堤より不確実な施設、そういうぐあいに考えております。

 続きまして、四ページ目でございます。では、現在の考え方といいますか、利根川治水計画の考え方は一体どんなものか、それについて説明していきます。四ページの5です。

 実は、上流山間部のダム築造が完成しないうちに、先ほども言ったんですけれども、計画が変更されました。昭和五十五年計画でございます。さらに、それに基づきまして、二〇〇六年にわずかに変更され、現在の計画となってございます。その背景には、先ほども言ったんですけれども、治水計画の考え方、手法に大きな変更がございました。

 それが具体的にどういうことかといいますと、それまでは、実際に生じた洪水をベースに計画が定められてまいりました。これは、我々は既往最大主義というぐあいに呼んでおりますが、新たな計画手法は超過確率洪水といいまして、確率的に、長い期間を見たら平均的にという意味ですけれども、二百年とか百五十年とかに一回生じる可能性のある洪水を対象に計画しようというものでございます。実はこの方法は、昭和四十六年、一九七一年に改定されました淀川から始まっております。昭和四十六年で象徴されますように、まさに高度経済成長時代の考え方というぐあいに評価してよいと思います。

 では、淀川ではどういうことになったのか。基準地点枚方で、それまで五三年に生じた毎秒八千六百五十トンを基本高水流量としておりましたが、それを、確率的に二百年に一回生じる洪水として、それまでの約二倍に当たる毎秒一万七千トンというのが対象になりました。この新計画に基づきまして、大規模プロジェクト、琵琶湖総合開発などが行われました。

 そして、昨年、地元知事の反対によって建設が凍結となりました大戸川ダムも、実はこの計画で登場したものでございます。

 そういう意味で、治水計画では、高度経済成長時代に大きな飛躍があったというのが今後の治水計画を考える場合非常に重要なことだ、そういうぐあいに考えております。

 では、具体的に超過確率洪水はどうやって求めるのか。五ページから六ページに書いていってございます。

 例えば、二百年超過確率洪水で見ますと、日本には、二百年にわたり観測された流量とか雨量の資料はございません。長くても百年ぐらいの雨量があるのみです。これを、統計数学的手法により、二百年に一回生じる総降雨量を求めます。これを、降雨から流量に転換する流出モデル、この流出モデルというのは数式でつくられておりますけれども、この流出モデルで計算して求めていきます。

 これには、実はいろいろな問題がございます。例えば、統計数学的に求めた総降雨量が正しいかどうか、それから、流出モデルが適当かどうか、代表降雨パターンが気象学的に妥当かどうかなどの、そういうような基本的な問題がございます。

 利根川も、確率的に二百年に一回生じるような洪水を求め、それでもって計画を策定しております。それはどんなことかといいますと、キャサリン台風時の降雨に基づいて流出モデルで計算した流量を基本高水流量というぐあいにしております。これをベースにしまして、このうち毎秒一万六千トンを河道で負担する計画高水流量、残りの毎秒六千トンを上流山間部でダムで調節しようとする、そういう計画ができました。これが五十五年計画ですけれども、現在の整備基本方針では、基本高水流量は同様に毎秒二万二千トン、しかし、計画高水流量は毎秒一万六千五百トンとなっております。

 では、ここで非常に大きな問題がございます。キャサリン台風の直後で毎秒一万七千トンと評価されながら、なぜ五十五年計画で二万二千トンと約三割も増大したのかという問題でございます。

 一般的な話でいいますと、洪水をある地点で観測したとしましても、その上流ではんらんしましたら、はんらんしない場合に比べて流量は小さく観測されます。その後の河川改修ではんらんしなくなったら、当然、下流にそのまま流れてきますから、洪水のピーク流量というものは大きくなります。

 だが、利根川なんですけれども、キャサリン台風時に観測された地点より上流を見ましても、平地部はそんなに広くない、それほどはんらんしていないというぐあいに考えております。なぜ三割もふえたのか、私は非常に疑問を持っております。

 こんなに大きくなったのは、実は、流出モデルに問題があったのではないかというぐあいに考えております。適用した流出モデルは、キャサリン台風時の洪水、これに基づいて作成されたものではございません。このときの洪水に比べましたら、かなり小さい洪水を対象にしてつくられたものでございます。小さな洪水に基づき作成された流出モデルに大降雨を与えますと、実際よりも大きくなる可能性は十分ございます。

 そういうことから、高度経済成長時代の計画手法から脱却して、やはり治水計画では実際に生じた洪水をベースに考えるべきだ、そういうぐあいに判断していってございます。昭和二十二年洪水をベースに、八斗島で毎秒一万七千トンの計画で行うべきだ、そういうぐあいに考えております。

 としましたら、今の計画で河道が負担する計画高水流量を、毎秒一万六千五百トンでございますから、現在完成しているダムのみで残りの毎秒五百トンの洪水調節は十分行える、そういうぐあいに判断しております。

 それから、実は、ことしは二〇一〇年でございます。その百年前、これは一九一〇年ですけれども、関東平野は、利根川、荒川の大出水によって席巻され、大きな被害を受けております。明治四十三年大水害ですけれども、近世以来の三大出水の一つと評価しております。このときの総降雨量は、キャサリン台風のときよりも大きい。ただし、一週間にわたる大豪雨であったため、八斗島地点でのピーク流量はさほど大きくないと思われます。しかし、洪水の継続時間は非常に長かった。そういうふうな洪水であったというふうに考えております。としますと、現在の利根川堤防はこれに耐えられるかどうか、非常に実は心配しております。

 次に、利水面からの評価でございます。ダムによる利水効果とは、ダム貯水池にため込んで水を渇水時に流し、渇水時の流量を増大することでございます。先ほどの治水と違いまして、貯水池に水をため込んでおりますから、絶対効果があります。それはもうちゃんと保険として水をため込んでおります。そういう意味で、治水に対しての効果とは基本的に違ってございます。

 では、利水計画によってどれほどの規模の渇水を対象にするのかが非常に重要でございます。原則的に十年に一回生じる渇水を対象として計画が行われてきております。ところが、残念ながら、水需給が逼迫してきた河川では、実質的に五年に一回の渇水を対象として計画が行われてきたという現実がございます。

 済みません、今、利水のところに来ました。ちょっと時間がなくて慌てていきまして、ページのことを申すのをうっかりしておりました。十ページから十一ページ、十二ページあたりを述べております。

 原則的に十年に一回の渇水で行ってきたんですけれども、利根川水系では、高度経済成長時代、急激な水需要の増大に対応するため、確率的に五年に一回発生する渇水を対象に利水計画を作成し、水利権を与えてきたというぐあいに聞いております。それ以前、最初の利水計画が昭和十年ごろ策定されましたが、そのときにも、実は五年に一回の渇水を対象としております。利水の安全度でございますけれども、どれほどがよいのかというのはなかなか判断が難しいんですけれども、私はやはり、安全度として十年に一回の渇水を対象にするとの方針は妥当だ、そういうぐあいに考えております。

 今日でございます、明らかに高度経済成長時代の水需給計画が過大であったということは間違いございません。現在、水需給を的確に評価した上で、余裕となった貯水量で利水の安全度を上げるべき、そういうぐあいに考えております。それに加え、埼玉平野などでの環境用水の確保によって、河川環境向上にこの八ツ場ダムを役立たせるべきだというのが私の意見でございます。

 もう一回整理しますと、効果が期待できない治水、効果が期待できないといいますか、はっきり期待できるかどうかわからない治水よりも、間違いなく効果のある利水専用ダムとすべきだ、そういうぐあいに考えております。

 非常に雑駁でしたけれども、以上で私の陳述を終えます。ありがとうございました。(拍手)

○川内委員長 松浦参考人、ありがとうございました。

 次に、奥西参考人にお願いいたします。

○奥西参考人 奥西です。私は、ダム湛水域の地すべりの危険度に特化して意見を述べたいと思います。

 私は、このダムの建設差しとめに関する訴訟で、地すべり問題に関する鑑定意見書というのを提出しておりますけれども、おおむねそれに基づきまして、また、その後の資料をつけ加えた形で意見を述べたいと思います。

 私のプリントの第一ページの第一図に、湛水域の地図が示されておりますが、その中で薄い赤で示されたのが予備的な調査ともいうべきところで、検討すべき地すべりの可能性のある斜面というのを挙げてあります。結果的にこの部分の多くは地すべり地であることは間違いないと思うわけですが、対策工事が計画されておりますのは、そのうちの、上から矢印を示しておりますけれども、地点で四つ、地域で三つ、そのうち一番左端の小倉地すべりに関しては県施行でありまして、事業者の施行のは三カ所にとどまっております。ここから主要な問題が生じるわけです。

 なお、この図には、太い波線で二つの箇所を示しておりますけれども、これは過去に実質的な地すべりが起こったと考えておるものです。そのうち、川原湯地区についてはだれが見ても間違いないと思いますが、林地区については、実際にこういう波線に沿って過去に地すべりが起こったかどうか、私も完全に確信が持てないところがあります。

 マスコミの取材に応じまして、私は、この地域は地すべりのデパートのようなものだというぐあいに申し上げましたが、その意味するところは、いろいろな種類の地すべりがあって、また、数が多いということです。

 その第一原因は地質にありまして、三の地質概要にありますが、いろいろな時期の火山活動の影響を受けているために、場所によっていろいろな地すべりの態様があらわれているということです。きょうは時間が限られておりますので、主な類型の地すべりについて、それぞれから一つずつ選んで述べたいと思います。

 二ページ目の第二図は、二社平地区の地すべりの地質断面図を示したものです。ここの地すべりは小規模なものではありますけれども、地すべりが起こりますと大きな岩塊がダム湖に転落する、そのために貯水池で津波が起こるという心配がありますので、非常に重要視されているものです。

 この図でピンク色の部分がこれまで地すべりとされてきたものであるけれども、ちょっとわかりにくいですが、真ん中や左側に青色で直線の斜線が示されておりますが、そこまで含めて考えるべきだというのが平成十九年度の調査による結果です。実際に対策が検討されているのは、ピンク色の中のまた多少限られた部分にすぎません。この調査の報告書では、この青い線で区切られた部分を絶対に対策しないといけないとまでは言っておりません。

 次に、その下の第三図、林地区の地すべり危険度です。対策が予定されておりますのは、この図で赤で示した範囲、これは地すべりのすべり面の深さをあらわす線ですけれども、それに限られておりますが、平成十九年度の調査で、この青い線で示された部分も検討の対象にすべきだと言っております。

 その根拠の一つは、次のページに、長野原町で出されております資料で、過去に地すべりが起こったところの滑落崖が生じているというわけです。ですから、もうここは地すべり地であるということは間違いないわけですね。しかし、いろいろ理由をつけて対策工事の対象にしなかった。この報告書では、この時点において、これから調査をする必要があるというぐあいに述べております。この時点ではダムの着工が既に決まっておって、もう着々と工事が進められていた段階のことな