利根川水系の渡良瀬川で明治時代に起きた足尾鉱毒事件は、わが国における「公害の原点」といわれます。
栃木県の足尾(現在の日光市足尾地区)では、明治初期より古河市兵衛による銅山開発が行われ、煙害と製錬用薪炭材の乱伐が渡良瀬川の洪水を引き起こし、さらに有毒な廃棄物(主に硫酸銅)によって、足尾山地を水源とする渡良瀬川が汚染され、下流域の耕地が荒廃しました。
鉱山の閉山を求める農民や、栃木県選出の国会議員であった田中正造の訴えは、政府によって抑え込まれ、渡良瀬川と利根川の合流点に近い谷中村(現。栃木県藤岡町)は強制廃村の悲劇にみまわれました。谷中村の跡には、現在では利根川上流8ダムの一つに数えられる渡良瀬遊水地がつくられています。
(右上図=NPO法人足尾鉱毒事件田中正造記念館HPより)
1972年、群馬県太田市毛里田地区の住民らが明治以降の累積した鉱毒被害補償の調停を公害等調整委員会に申請し、同委員会が提示した15億5000万円の補償を古河鉱業が受け入れ、鉱山も閉山されたことで、表面的には問題は解決したことになっていますが、8月15日の上毛新聞紙面でNPO法人足尾鉱毒事件田中正造記念館の島野薫さんが、実際には問題は依然として続いているとして、鉱毒問題の現在を解説しておられます。
渡良瀬川には利根川水系の巨大ダムの一つである草木ダムがあります。草木ダムは八ッ場ダムと同様、1950年代に計画されました。230戸の住民は当初、ダム計画に激しく反対しましたが、1976年にダムが完成しました。草木ダムでは、足尾銅山跡から流下する重金属類の調査をしているとのことで、鉱毒事件と闘った田中正造の歴史と思想を学ぶことを目的に設立された田中正造大学では、草木ダムを「巨大な鉱毒溜め」と呼んでいます。(右写真=草木ダム公式HPより、草木ダムとダム湖)
◆2018年8月15日 上毛新聞オピニオン
https://www.jomo-news.co.jp/feature/shiten/72628
ー鉱毒問題の今 足尾は終わっていないー
足尾銅山は1973(昭和48)年に採鉱を停止し、閉山した。閉山に伴い、鉱毒問題は収束したものと一般的には捉えられている。
しかし今なお、鉱毒問題が尾を引いて被害に直面している実態があることは、あまり知られていない。したがって鉱毒事件は、まだ終わっていないという認識を持っている。
そこで、三つの事例を示して理解を深めていただきたいと思っている。
一つ目は、足尾銅山は閉山後、製錬所などが解体されたため昔の面影は残っていないが、足尾の山には今でも多量の廃鉱石などを野積みしている堆積場が残っていることだ。
60年前の58(昭和33)年5月30日、足尾銅山の堆積場の一つで、渡良瀬川沿いに位置した源五郎沢堆積場が決壊した。この決壊で大量の鉱泥が渡良瀬川に流入し下流域の太田市毛里田地区を最激甚地として、農民たちは深刻な被害を受けた。五十余年を経た7年前にも同じ場所が決壊し、渡良瀬川を汚染させる問題が発生した。
2011(平成23)年3月13日付の上毛新聞に、源五郎沢堆積場が東日本大震災の地震の影響とみられる地滑りで崩れ、渡良瀬川に有害物質が流入した記事が掲載されている。
約2キロ下流で実施した水質検査では、国の基準値を2倍近く上回る鉛が検出された。
二つ目は、堆積場や1200キロに及ぶ廃坑の坑道から有害物質である重金属類を含んだ水が流れ続けていることだ。黄銅鉱を採掘するために掘ったこの坑道を埋めることは現実的にできず、坑道からの水は今も流出が続いている。
1897(明治30)年に政府から発令された鉱毒防止工事命令により、坑内廃水は石灰で中和させ、無害とすることが義務づけられた。そのために設けられた中才浄水場が今も稼働しており、今後も半永久的に稼働せざるを得ない状況にある。
三つ目はさらに深刻だ。今でも鉱毒被害の爪痕が残り、影響が出ている稲作農地がある。旧渡良瀬川の流路を埋め立てて稲作農地となっている場所があるが、ここでは稲の生育が悪いという鉱毒被害が続いている。このような農地では田植えの後、中和剤を散布して農地の改良に努めざるを得ない状況だ。鉱毒に汚染された農地を元通りに再生させるには、非常に厳しく今後の見通しも困難であり、容易ではない。
足尾銅山の鉱毒問題は、何世代も前の時代に起きたことなのに、現代社会においても、さまざまな面で引きずっている。まだ終わっていない。県民生活に密着した問題として多くの人に受け止めてほしい。
NPO法人足尾鉱毒事件田中正造記念館事務局長 島野薫 館林市上三林町
【略歴】民間企業を定年退職した後、2007年にNPO法人足尾鉱毒事件田中正造記念館理事に就任。08年からはNPO法人足尾に緑を育てる会理事も務めている。
2018/08/15掲載