「その日を前に 八ッ場ダム水没地区住民の今」-毎日新聞連載記事

 毎日新聞が水没住民を四回にわたって取り上げました。
 記事タイトルとなっている「その日」とは、国交省が八ッ場ダム完成を目指している日のことです。
 マスコミが取り上げる地元住民は、たいていは地域の代表者です。その発言はダム事業のマイナス面にはほとんど触れないのが通例なのですが、この連載では、表に出にくい声を取り上げています。
 取材対象はかつては水没地の核であった川原湯温泉の関係者です。川原湯温泉の厳しい状況と住民の苦悩が伝わってきます。

毎日新聞群馬版連載「その日を前に 八ッ場ダム水没地区住民の今」

◆2019年4月26日
https://mainichi.jp/articles/20190426/ddl/k10/040/055000c
ー器あるが中身ない レストラン店主・水出耕一さん-

今年度完成へ 移転先、高齢者ばかり
 「その日」まで1年を切った。長野原町に八ッ場ダムの建設計画が浮上してから67年。反対闘争、町の分断、民主党政権による建設中止ー。紆余(うよ)曲折を経て今年度に完成する見通しだ。立ち退きを強いられた水没地区の住民の多くは住宅を再建し、新しい生活を始めている。ふるさとを離れた人、残る選択をした人。それぞれの今を追った。【西銘研志郎】

 八ッ場ダムの本体から南西に約500メートル。山を切り開いた造成地には、新築の家が建ち並び、所々で道路の工事が進む。一見、売り出し中のニュータウンのようにもみえるが、ここは、水没する旧川原湯地区の住民の移転先として整備された。

 造成地の一番端の最もダムに近いところに、赤い煙突の店がある。レストラン「赤いえんとつ」の大きな窓からは、名勝・吾妻渓谷とダム本体が一望できる。

 「建物に邪魔されないで山々が見える風景を気に入ってここに決めました」。オーナーの水出耕一さん(64)はかつて川原湯温泉街で食堂を経営していた。店は湯治客や地元の常連客でにぎわっていたという。だが、今はー。

 「お客さんは減ったよね、特に夜、飲みに来るお客さんは」。そう語る声には力がない。客足は当初の想定の半分程度。その半数がダム工事を見に来た観光客だ。時には「安く土地をもらえて良かったね」などと心ない言葉をかけられることもある。

 水出さんは1954年生まれ。ダム建設に翻弄(ほんろう)された町の歴史は、自身の半生と重なる。
   ◇  ◇
 「ここにダムを造ります」。長野原町にやって来た建設省幹部が突然、住民たちにこう宣言したのは52(昭和27)年5月16日のことだった。47年の�カスリーン台風(関東1都5県で死者1100人)を受け、治水・利水のために吾妻川をせき止めてダムを造る計画だった。

 水没地区の住民たちの反対闘争はやがて「絶対反対」と「条件付き賛成」に分かれるなど町の分断を生んだ。80年、県が町に対し、代替地で同じような街づくりを行う「生活再建案」を示し、5年後、町は案を受け入れダムの建設が決まった。

 しかし、住民の土地や建物の補償交渉は難航した。86年に発表された基本計画ではダムの完成は2000年度とされたが、延長され、代替地の整備にも遅れが出た。

 09年、住民をさらに不安に駆り立てる事態が起きる。政権交代だ。「コンクリートから人へ」というスローガンを掲げた民主党政権で国土交通相に就任した前原誠司氏が突然、八ッ場ダムの建設中止を表明し、工事はストップされた。
  ◇  ◇
 このとき、水出さんの気持ちは大きく揺れ動いた。その前年の08年に移転先の土地を決めていたが、引っ越しをやめようかとも思った。だが、もうすでに周りに残っている人はいない。先の見えない将来に疲れ切っていた住民は、1人、また1人と地元から出て行った。商売をしている身。「人がいなくなった後、この地域で生きていけるのか不安だった」。結局、14年、現在の造成地に移った。

 しかし、「大誤算」だったのは、多くの温泉宿が看板を下ろし、温泉街が縮小してしまったことだ。「飲食店も土産店もこんなに減るとは思わなかった。旅館があるからこそやってこられたからね……」。それでも店を閉じるつもりはない。「川原湯に来ようとしたお客さんに『ご飯を食べられる所がないんじゃ嫌だ』と言われたくないから」

 だが先は見通せない。造成地には若い世代は少なく、残った住民の多くは高齢者。「再建計画は、人がいることが前提だったが、若者はダムの下流に行ってしまった。ここは器(造成地)はあるけども中身(人)がいない」。水出さんはそう言ってため息をついた。=つづく

■ことば 八ッ場ダム
 長野原町の吾妻川で国が建設を進めている多目的ダム。旧建設省が1952年に現地調査に着手。地元住民が反対運動を繰り広げたが、生活再建を前提に85年、建設を受け入れた。今年度中に完成予定。堤頂長約290メートル、堤体積は約100万立方メートル。

写真上=店のカウンターに手をつき、移転後の暮らしについて話す水出さん。下=赤い煙突が目印のレストラン「赤いえんとつ」=いずれも長野原町川原湯で
写真=完成が近づいた八ッ場ダム。右手に見えるのが川原湯地区の移転地。手前がダム湖予定地。中央付近にはかつてJR川原湯温泉駅があった=長野原町の八ッ場大橋で

八ッ場ダムを巡る経緯
1952年 建設省(現国土交通省)が現地調査に着手
  80年 県が長野原町と町議会に「生活再建案」を提示
2001年
   6月 住民と国が「利根川水系八ッ場ダム建設事業の
      施行に伴う補償基準」を調印
   9月 八ッ場ダム建設の基本計画(第1回変更)告示
   (工期は10年度に延期。以降工期変更が3度)
  05年 住民と国が「利根川水系八ッ場ダム建設事業の
      施行に伴う代替地分譲基準」を調印
  09年 民主党に政権交代。ダム計画中止を発表
  11年 国交省が建設継続を決定
  15年 八ッ場ダム本体建設工事の起工式
  19年度 ダム完成予定

八ッ場ダム
 長野原町の吾妻川で国が建設を進めている多目的ダム。旧建設省が1952年に現地調査に着手。地元住民が反対運動を繰り広げたが、生活再建を前提に85年、建設を受け入れた。今年度中に完成予定。堤長約290㍍、堤体積約100万立方メートル。

◆2019年4月27日
https://mainichi.jp/articles/20190427/ddl/k10/040/056000c
ーまちの維持も困難 老舗旅館「山木館」樋田洋二さんー

温泉街の宿 代替地で営業5軒のみ
 長野原町の川原湯温泉は今から800年前、源頼朝が発見したと伝えられている。最盛期には民宿を含め20軒弱の宿が建ち並び、行楽シーズンになると町は一晩で700~800人ほどの宿泊客であふれた。八ッ場ダムで水没するのに伴い造られた代替地で営業中の旅館は5軒しかない。

 「後継ぎがいなくて廃業した宿もたくさんあるんだよ」。川原湯温泉の旅館で老舗中の老舗の「山木館」の14代目、樋田洋二さん(72)は、2013年に新築した宿のストーブにまきをくべながら、ぽつりぽつりと川原湯温泉の今を話し始めた。
   ◇  ◇
 山木館は江戸時代開業とされる。民主党政権下で止まった八ッ場ダム建設の再開決定直前の11年11月に、先陣を切って代替地で新しい旅館の棟上げ式を行った。「待っていたらいつ再建できるか分からなかった」。だが後に続く旅館は少なかった。想定外だった。「10軒ぐらいは再建すると思っていたけれども……。それぞれに家庭の事情があるから仕方がないのだが」

 樋田さんは川原湯温泉が今後も温泉地として生き残っていくためには、ダムを観光資源にすることが必要だと思っている。移転前は旅館の組合などで、温泉街のあり方について宿の経営者同士が話し合う機会もあった。だが、今は「どの宿も再建したばかりで自分たちのことで精いっぱい」。宿同士が協力して温泉街を盛り上げていこうという雰囲気はあまりない。

 樋田さん自身、5年前に脳梗塞(こうそく)を患って以来、「体力的にも精神的にも落ち込んでいる」状態が続く。「もう少し元気ならもっと勉強して、『自分でどうにかしなきゃ』と思っていた」が、病気になり、これで「引き際」と思うようになった。「宿の再建まではやったから、この後は若い世代が責任を持って観光を頑張ってもらいたい」
   ◇  ◇
 だが、今、まちを維持するのも難しい状況に陥っている。川原湯地区で移転代替地に移った住民は3分の1程度。代替地の造成が遅れた影響で、まるで「歯が抜けるよう」に、家が一つ、また一つと減っていき、「気がついたら、まちからほとんどの建物がなくなっていた」。人口の減少は、残る選択をした人たちの暮らしを直撃している。草刈りなど地域の作業の人手が足りない。川原湯伝統の湯かけ祭りの運営も、地元の住民が1人何役も掛け持ちしてやっている。かつては定員いっぱいで、空きを待たなければ入団できなかった消防団も、ダム湖の対岸の川原畑地区の住人と共同で運営することでようやく維持している。

 「人が減り“まち”を存続するのが難しくなっている」。そう語る樋田さんの顔には苦労の色がにじむ。【西銘研志郎】

写真=川原湯温泉の現状を話す山木館14代目の樋田洋二さん
写真=移転し新築した山木館の門。代替地で営業を続けているのは山木館を含め5軒のみという=いずれも長野原町川原湯の「山木館」で

◆2019年4月29日 
https://mainichi.jp/articles/20190429/ddl/k10/040/031000c
ー「担い手」呼び再起を 「山木館」15代目・樋田勇人さんー

町の知名度アップ 来年までが勝負
 「15代目です」。胸に付けたネームプレートには、手書きで、名前とともにプロフィル代わりのメッセージが添えられている。樋田勇人さん(24)は4年前、川原湯温泉の中でおよそ360年の歴史を持つ老舗旅館「山木館」の跡取りになるため養子に入った。

 父方の祖母の実家が山木館だった。昔から親戚で用事があれば、みんなで集まる場所は山木館と決まっていた。

14代目の樋田洋二さん(72)、文子さん(70)夫婦には子がいなかった。高校生のころから、文子さんから「後継ぎがいないから社長にならない?」と声をかけられていた。 

当時は「社長かあ」とぼんやりと自分の将来を思い浮かべていたぐらいだったが、大学生になり経営学を専攻し、商売のおもしろさに目覚めた。

何より山木館に存続の危機が迫っていた。「大好きな山木館がなくなるのは嫌だった」と大学3年生のころ、養子の話を受け入れた。大学を卒業すると同時に働き始め、常連客と接するうちに、みな自分と同じ思いを持っているのだと知った。
   ◇  ◇
 勇人さんは今、地元や長野原町役場の職員らと八ッ場ダムを生かした地域活性化を目指す「チームやんば」の一員として活動している。国土交通省の認定を受け、ダムのガイドである「コンシェルジュ」として、訪れる観光客にダムを案内している。

 国交省が企画した「八ッ場ダムファン倶楽部(くらぶ)」の会員を集め、川原湯の高齢者にダム完成までの経緯や建設反対運動の歴史、かつての川原湯の暮らしなどを語ってもらうツアーの運営にも関わるなど精力的に動いている。
   ◇  ◇
 「でも楽観はできない」。勇人さんは表情を引き締める。新たに住民を呼び込むのは簡単ではない。

今、目指しているのは「関係人口」を増やすことだ。

関係人口とは、移住した「定住人口」でも、観光に来た「交流人口」でもなく、さまざまな分野で、その地域に関わる人々のことを指す。実際に暮らしていなくても、地域の担い手として貢献できる存在という意味だ。

 勇人さんは「過疎や高齢化で減る地域の担い手を、地元以外に住む人から集められるようにしたい」と語る。

そのためには、川原湯温泉や八ッ場ダムを含めた長野原町全体の魅力と知名度を高めなければならない。

建設工事を巡り世間の耳目を集めた八ッ場ダムだが、「完成してしまえば、注目される機会もなくなってしまう」とも思っている。

「今やらなきゃこの町は忘れ去られてしまう。来年までにこの町の命運が決まってしまうくらいで考えている」【西銘研志郎】=つづく

写真=ダムの建設工事を見学する人たち=長野原町川原湯で

◆2019年5月1日
https://mainichi.jp/articles/20190501/ddl/k10/040/025000c
ー離れても心は故郷に 中之条・カフェ店主 竹田朋子さんー

代替地整備進まず移住

 八ッ場ダムの建設地から10キロほど離れた中之条町の国道沿いにあるカフェ「ビスケット」は、手作りのケーキとおいしいコーヒーが楽しめるとインターネットの口コミサイトで評判の店だ。店内には重厚感のある木製のテーブルや椅子が並ぶ。その椅子に彫られた「川原湯館」という文字に気づく客は多くはない。

 店を営む竹田朋子さん(64)の実家は、八ッ場ダムの底に沈んでしまう川原湯温泉の旅館「川原湯館」だった。終戦直後、「傷ついた人たちを温泉で癒やしたい」と朋子さんの祖父が湯治目的で社団法人をつくり、それを引き継ぐ形で、朋子さんの両親が1958年に旅館を開業した。

 “3代目”にあたる朋子さんはお菓子作りが得意だったこともあり、旅館をたたみ、代替地で喫茶店を開く夢を持っていた。だが、いつまでたっても代替地の整備が進まない。「蛇の生殺し状態だった」。先が見通せない生活に疲れ果て、2006年、故郷を離れ、中之条に移り住んだ。家族の中で移住することに反対はなかった。同時期、周りの住民も一人、また一人地元から出て行った。

   ◇  ◇

 「『早く移転してよかった』とみんな言っていたよ」。かつてダム建設の反対期成同盟の委員長を務めた朋子さんの父、博栄(ひろえ)さん(89)は町を出た頃のことを振り返る。その頃、八ッ場から移転した人たち同士で「八ッ場会」というサークルを作り、一緒に何度か旅に行ったことがある。新しい町での暮らしや愚痴を言い合ったが、一致したのは「早く移転してよかった」ということだった。

 だが、ふるさとを離れた人たちの中には複雑な思いを抱えている人も少なくない。心の中にあるのは地元に残ることを決めた人たちの暮らしだった。

 09年の政権交代で突然降ってわいたダム工事中止宣言。残る選択をした住民たちは、これまで以上に先が見えない不安にさらされた。そんなかつての隣人たちを、博栄さんは「みじめな思いをしただろう」とおもんぱかる。

   ◇  ◇

 朋子さんは、ある時、知人から冗談まじりに「いい所に逃げてこられてよかったね」と言われたことが今も忘れられない。本人に悪気がないのは分かっている。でも、「逃げた」という言葉が胸に深く刺さった。大好きな故郷。逃げたわけではないのに……。

 それでも、川原湯を離れる時、親しい近所の人からかけられた言葉に支えられてきた。「これでよかったんだと思いなさいよ」。その人は今、代替地で暮らしている。新天地でも「これでよかったんだ」と呪文のように唱え続けて生きてきた。

 ふるさとを離れて10年以上がたった。自分たちの暮らしはようやく落ち着いてきた。しかし、再建途中の旅館があるなど、川原湯の現状を思うと、心が落ち着かない。「新しい川原湯が完成した時に、やっと自分たちも落ち着けるんだと思う。どこに行ったとしても出て行った人はみんな川原湯が気になるから」。離れてもなお、心は故郷を思い続けている。【西銘研志郎】=おわり

写真上=中之条町で営業するカフェの店内で「これでよかった」と語り合う竹田朋子さん(左)と母、父博栄さん。だが故郷の今を思うと心が落ち着かないという=中之条町西中之条のカフェ「ビスケット」で
写真下=造成地区に移転した川原湯温泉街。現在6軒目の旅館の再建工事が進んでいる(写真)=長野原町川原湯で