八ッ場あしたの会は八ッ場ダムが抱える問題を伝えるNGOです

現地見学会「吾妻川源流・鳥居峠を訪ねる」のレポートと資料

 5月12日に開いた現地見学会のレポートと資料の一部を掲載します。

 八ッ場ダムによって流れを遮られることになる利根川支流の吾妻川は、群馬県と長野県の県境にある鳥居峠に源を発します。鳥居峠は上信国境に聳える四阿山(あずまやさん)の登山口でもあります。
 ダムは川の上流にあると思われがちですが、八ッ場ダム予定地は吾妻川の中流域にあります。
写真=四阿山。2019年2月22日撮影

 今回の見学会では、高崎から出発するバスで八ッ場ダム建設地を訪ねた後、鳥居峠にまでさかのぼりました。吾妻川はカラマツ林におおわれた鳥居峠から流れ下る途中で、草津白根山麓、浅間山麓から流れ込む支流を集めて、ダム予定地に流れ下ります。標高1300メートルを超える鳥居峠では、5月のこの日、ちょうどコブシの白い花が満開でした。 

【吾妻川】・・・ 利根川支流、流長76㎞。 
 水源の鳥居峠は標高1362㍍、上信国境に聳える四阿山(あずまやさん)の登山口。四阿山は標高2354㍍の成層火山で、わが国有数の活火山である浅間山(標高2568㍍)と草津白根山(標高2160㍍)が両側にあります。鳥居峠から関東地方へ流れ下る吾妻川は、浅間高原と草津高原の間の低地を西から東に流れています。

★群馬県埋蔵文化財調査事業団HP 「授業のためのヒント集」より)
「(吾妻川流域には)渋川の(利根川との)合流点と(水源の鳥居峠と)の比高1150mを利用した水路式発電所が支流もあわせると30カ所もあり、関東有数の電源地帯となっています。
 長野原町と東吾妻町の境界にある「吾妻渓谷」は“関東の耶馬渓”と呼ばれ、昭和10年、国の名勝に指定されています。
 吾妻川は、現在の浅間山や白根山が形成される前には、現在とは全く逆の長野県の上田・小諸方面へ流れていたと考えられています(古吾妻川)。その後、浅間火山の活動により、せき止められて「古嬬恋湖」と呼ばれる幻の湖が形成され、その後、湖水は東側の吾妻渓谷付近から流れ出すようになり、現在の流路になったと考えられています。
 酸性河川である吾妻川では、上流の湯川に中和工場が設けられて、石灰が常時注入されています。」

1. 酸性河川と中和事業
 草津白根山麓から吾妻川に注ぐ支流の万座川、今井川、赤川、遅沢川、白砂川は、いずれも酸性河川です。このため、吾妻川は万座川との合流地点から下流は酸性河川となります。
写真右=吾妻川と万座川(手前)との合流地点。

 八ッ場ダムは1952年に計画が発表されましたが、ダム予定地の吾妻川の水質が酸性であったことから、一旦は計画が立ち消えとなりました。八ッ場ダム計画が蘇ったのは、強酸性河川である白砂川の中和事業が成功し、中和生成物を貯める品木ダムが完成した1965年です。中和事業は1968年に群馬県から国に移管され、現在に至っています。八ッ場ダムは中和事業なしには成り立ちません。
(参照➡国交省関東地方整備局品木ダム水質管理所ホームページ

 しかし国交省は、吾妻川の酸負荷量のうち6割は未対策であり、新たな中和事業が必要であるとして、1992年、「吾妻川上流総合開発事業」の実施計画調査に着手しました。
「吾妻川総合開発事業」(国交省関東地方整備局 事業評価監視委員会 平成23年7月21日)

 この事業の目的は、次の二つでした。
〇万座川に万座ダムを建設し、「ダム方式」の中和処理を行う。
〇白砂川上流の品木ダム(1965年竣工)を嵩上げし、遅沢川の酸性水を導水して中和処理。

 しかし、国交省は2011年、地質条件が悪く、事業の遂行が困難であることを理由に、「事業中止」を報告し、ダム方式ではなく、プラント方式による中和対策を検討するとしました。しかしその後、プラント方式も行き詰り、検討を中止し、今に至っています。

【2.浅間山噴火と吾妻川】    
 浅間火山は,黒斑(くろふ)火山・仏岩(ほとけいわ)火山と前掛(まえかけ)火山と呼ばれる三つの火山体からなるからなる複合火山です。

約2万4000年前 黒斑山が山体崩壊 
 多量の土砂が吾妻川に流入した(応桑泥流)。ダム予定地の吾妻川の河岸段丘には、応桑層と呼ばれるこの時の堆積物が各所にあり、地すべりの要因となっている。
 吾妻川が利根川に合流した後、前橋で関東平野に入ったこの岩なだれは,緩やかな河床勾配のために流速が衰え,厚さ十数mの堆積物を残し、前橋台地をつくった。南へ向かった流れは佐久市塚原に達した.

約1万5000年前 仏岩が噴火
 浅間山火山形成史上、最大規模の噴火。平原火砕流が発生。
 吾妻川右岸には、平原火砕流台地を吾妻川が侵食してつくった高い崖が連続する。火砕流噴火の後、大量の軽石(嬬恋軽石)と火山灰が広い地域を覆った。ダム予定地の両岸に層となって見える嬬恋軽石は、上越の山々を覆い、日本海の海底でも見つかるという。

1108年(平安時代末期) 前掛山が噴火
 前掛山の噴火の中で最大規模。平原火砕流台地を切り込んだ谷を追分火砕流が埋めた。嬬恋村の大笹、大前の集落のある段丘は、追分火砕流堆積物から成っている。この噴火によって、大量の軽石が降り、上野国内の田畠は壊滅したとされる。
 
1783(江戸時代・天明3)年8月5日、前掛山が噴火  「天明三年浅間焼け」
 死者の総計は約1500人と推定される。高速の土石なだれが北麓の鎌原村を埋め尽くした。土石なだれは三筋に別れ、吾妻川右岸の断崖を滝のように流れ下った。
・西窪(嬬恋村、万座川と吾妻川に挟まれた集落)を押し抜け、大前へ逆水。
・羽根尾(長野原町、吾妻川左岸)へ押しかけた。
・小宿(嬬恋村、吾妻川右岸)を押し抜き、芦生田を抜く。(万座鹿沢口駅と袋倉駅の間)

〇、吾妻渓谷上流の集落の死者数(「浅間山焼荒一件」より) 1183人
鎌原466、長野原200、小宿141、芦生田136、西窪58、今井47(半出来村40人)、羽根尾・大前27、林・袋倉17、川原湯・古森・赤羽根14、中居10、川原畑・坪井・与喜屋4

内閣府報告書「1783 天明浅間山噴火より第二章「よみがえった天明三年」

 「天明泥流」は吾妻川を約50キロ下り、利根川本流に到達。前橋付近では昼時、空堀となっていた虎ヶ淵(現・中央児童公園ルナパーク)に押し込み、玉村五料付近では一時、利根川の水が枯れたので流域住民が魚を素手で捕っていたところ、泥流に押し流されとの記録がある
 昼八つ時(午後2時)、埼玉県熊谷市中瀬村へ押し出し、「田畑村里泥海の如し」、
 関宿(千葉県野田市)で利根川本流と江戸川に別れ、
「江戸にても硫黄の香のある川水、中川より行徳へ通じ、伊豆の海辺までことごとく濁る。よって芝浦、築地、鉄砲洲の辺にては、今にも津波起こるとて大いに騒動し・・・」(「武江年表」)
「利根川河口の銚子付近では河口が真っ黒になった。」
「江戸川河口付近では多くの死者が打ち上げられた。」など記録されている。

*鎌原村 
戸数100戸、500人余りの大型集落で、宿場的な機能があった。93軒の家屋のすべて、耕作地の95%を泥流で失った。
 1979年に始まった発掘調査は近世考古学の幕開けとされる。6㍍以上の堆積物の下に埋もれていた遺跡は、被災の状況を把握するのに役立っただけでなく、ビードロ鏡、茶器など数々の優品の出土により、標高900メートルの村に江戸や上方の都市文化が伝播していたことがわかった。

鎌原観音堂
 被災後、信仰の対象としてだけでなく、村復興の拠り所として象徴的な場所となった。
 当時、吾妻は幕府の直轄領であったが、役人らが駆けつける前、被災直後から周辺の村々の有力者が炊き出しなどを行い、被災民の救済を行ったという。
写真右=高台にあった観音堂に駆け上った93人のみが助かったという。50段の石段のうち、15段のみが地上に残された。発掘調査では、埋もれた石段に倒れ伏していた二人の女性の遺骨が出土。若い女性が年老いた女性を背負って石段を上る途中で、泥流に呑み込まれたことがわかった。赤い橋の下をのぞくと、石段が土に埋もれているのが見える。

その他の被災地
〇雲林寺(長野原村、吾妻川左岸)
 長野原村は跡形もなく押し流され、200人もの死者が出たという。雲林寺は鐘堂が残ったので長野原村の跡がここにあったとわかったという記録がある。

〇長野原町立中央小学校(旧坪井村、吾妻川左岸、小林家屋敷跡)
 酒造を営む豪農、助右衛門の屋敷跡。被災21軒、廃村。杉田玄白が『後見草』の中で、助右衛門は慈悲深い人で、家族と雇人90余人が残らず裏山に逃れて助かったとの見聞を記録している。坪井村は廃村となった。火口からの流下距離約18キロ。
写真=被災地には現在、長野原中央小学校が建っている。2002年、屋内体育館・プール建設に伴い発掘調査が行われた。

〇長野原町総合運動場  (新井村跡)
6戸の集落が泥流に埋もれた。泥流はこの地点で、吾妻川の支流である熊川を500メートル以上逆流。

〇八ッ場ダム湖予定地
 浅間山より流下距離23~28キロメートル、火口からの直線距離では約20キロ。水没予定地の各所で天明泥流に覆われた遺跡の発掘調査が行われてきた。
写真右=水没予定地を走っていたJR吾妻線の線路跡でも発掘調査が行われている。川原湯地区、千歳橋付近、下湯原遺跡。2019年5月22日、八ッ場大橋より撮影。

参照:内閣府HP、報告書「1783天明浅間山噴火」、「浅間山大噴火の爪痕 天明三年浅間災害遺跡」(関俊明、新泉社)、「自然災害と考古学」(群馬県埋蔵文化財調査事業団、上毛新聞社)、「浅間火山北麓の電子地質図」(群馬大学・早川由紀夫研究室HP)、「1783天明泥流の記録」(みやま文庫)

【3.鳥居峠と真田三代の上野支配】
 ダム予定地を含む吾妻地方は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、約100年間、真田氏の支配下にあった。真田氏が上州支配の足掛かりとしたのが、上信国境の鳥居峠であり、鎌原氏であった。

1541年 真田幸綱(初代)、海野平の合戦で武田・村上・諏訪連合軍に敗退。上野へ亡命。
      羽根尾氏(六文銭)、長野氏(関東管領・上杉家家臣、箕輪城主)などの庇護。
1546年 幸綱、武田信玄に臣従。
1551年 幸綱、信玄が攻めあぐねた砥石城を調略で乗っ取り、本領を回復。
1562年 幸綱、四阿山の白山社殿を造営。武田軍の先鋒として上野へ侵攻。
  鎌原氏が岩下城(吾妻渓谷下流)の斎藤氏から圧迫を受け信濃に亡命、武田進軍を要請。
1563年 幸綱ら、上杉方の斎藤氏を岩櫃城から追放。吾妻郡の軍事指揮権、真田氏へ。
1575年 長篠の合戦で武田軍大敗。幸綱の長男と次男戦死。三男の昌幸が家督を継ぐ。
1580年 昌幸、北条側の沼田城を攻略。
1581年 昌幸、海野兄弟(羽根尾氏)を誅殺→ 吾妻郡の支配強化。
1582年 浅間山噴火。武田氏滅亡。本能寺の変。昌幸は真田郷―沼田城へ至るライン確保。
1583年 昌幸、上田城を築城。信濃国小県郡の制圧へ。
1585年 昌幸、上田城で徳川軍を迎え撃ち、撃破。
1600年 昌幸父子、徳川の上杉討伐の途上、“犬伏の別れ”で昌幸、次男信繁は信濃帰還。
      上田城で3万8000余の徳川秀忠軍を撃破。関ヶ原の合戦後、高野山に配流。
      真田家(徳川に従った昌幸の長男、信之)は沼田領も合わせ上田藩主へ。
1615年 大坂夏の陣。信繁戦死。
1622年 信之、信濃・松代へ移封。
1681年 沼田藩、取り潰し→ 吾妻における真田氏支配終わる。吾妻は天領へ。


写真=名勝・吾妻峡に完成しつつあるダム堤と水没予定地。両岸には水没住民の移転代替地が造成されており、安全を確保する目的で押さえ盛り土による対策工事が行われている。

写真=ダム堤の左岸側につくられた管理棟。背後の壁面が酸性熱水変質帯により、ところどころ赤茶けている。

写真=ダム建設中、吾妻川の水は仮排水トンネルを利用して下流に流されていたが、コンクリート打設がほとんど終了した現在は、ダム堤の上流側の仮締切の小ダムの壁に穴があけられ、吾妻川の水が下流に流れるようになっている。写真に見える四角いコンクリート構造物は、仮排水トンネルの吞み口。その手前に吾妻渓谷の瀧見橋が残されている。

写真=JR川原湯温泉の周辺で進められている地域振興施設の整備工事と町道工事。

写真=天明泥流で埋もれた雲林寺の脇にたつ長野原町の旧庁舎。昨年12月に新庁舎での業務が始まり、昭和4年に建設された旧庁舎は解体されることになっているが、中央のバルコニーの部分は、新たにダム事業で建設される地域振興施設に活用されるという。

写真=約1万5000年前の浅間山(仏岩)の噴火によってできた平原火砕流台地を吾妻川が侵食してつくった高い崖の上には、1562年に真田氏が上州侵攻の拠点とした鎌原城があった。真田幸綱は四阿山の白山社殿を造営して上州侵攻に臨んだという。

写真=吾妻川源流。2019年4月24日撮影。