水没予定地にあった川原湯温泉街の入口で土産屋お福を営んでいた樋田ふさ子さんは、川原湯温泉の移転代替地に建てた土産屋に今も通っています。誰にでも笑顔で接する樋田さんは、多くの観光客や報道関係者に親しまれ、これまでもたびたび紙面で取り上げられています。
樋田さんは川原湯温泉の老舗旅館に嫁がれました。1960~70年代、ダム反対闘争の中核であった川原湯温泉では、「条件付き賛成」の住民は少数派でした。1974年、八ッ場ダム反対期成同盟の委員長から長野原町長選に当選した樋田町長(当時、山木館当主)と町議会の樋田議長(当時、丸木屋当主)は、ダムをめぐって対立する立場のまま、群馬県との交渉の場に臨まなければなりませんでした。親戚であっても、ダム反対と賛成の家族は、お茶のみすらままならなかったといいます。
長年、ダムの早期完成を願ってきた樋田さんですが、ダム完成が間近になった今、「ダムができても川原湯がこの先どうなるかわからない。何の不安もない大輪の笑顔を描きたかったけど、心から喜んだ顔は描けないよ」と語っているとのことです。
◆2019年9月2日 朝日新聞群馬版
https://digital.asahi.com/articles/ASM915TZWM91UHNB008.html?iref=pc_ss_da
ーダムに翻弄、こけしに投影 長野原の樋田さんー
「今までで一番笑顔のこけしだけど、もっとうれしそうな顔は描けないよ」。来春完成予定の八ツ場(やんば)ダム(群馬県長野原町)に臨む川原湯温泉街で唯一の土産物店「お福」を営む樋田ふさ子さん(90)は、ダム建設に翻弄(ほんろう)された自身の人生を重ねたこけしを作ってきた。建設中止表明には驚きや怒り、建設再開には柔和な表情に……。体力の衰えから「このこけしが最後。締めくくりのつもりで描いてます」というふさ子さん。ダム完成を前にしても、こけしの笑顔にはふさ子さんの複雑な思いがにじんでいる。
自家製の川原湯名物「名勝もなか」などを販売する店内で、ふさ子さんはこけし型の白木に、絵筆で顔や着物を丁寧に描いていた。「ダムの完成間近にこうしてこけしを作れるなんて。これまで長かったよ。私の人生、全部ダムだった」
秋に予定されるダムに水をためるテスト「試験湛水(たんすい)」を前に、中断していたこけし作りを春ごろから再開した。今描いているこけしは3種類。それぞれ表情は異なるが、いずれも柔和な笑顔で「喜び」「祈り」「感謝」と書いた。「ようやくダムができる喜び、事故がないようにとの祈り、これまでダムに人生を左右されてきた私たちを支えてくれた人たちへの感謝の気持ちを込めたんです」
最初にこけしを作ったのは2010年秋。民主党(当時)政権がダム建設中止を表明し、地元に動揺が広がっていた。慣れ親しんだ里山を追われ、新たに高台の造成地へと移り住む覚悟を決めていただけに、「何を今更」とふさ子さんは怒りが募った。知人への贈り物や地元の名物にと作ったこけしは住民の不安や怒りを反映し、大きく目を開いたり泣いたりする表情になった。背中には何も描かず、未完成のダムを表した。
ふさ子さんが川原湯へ嫁いできたのは、ダム計画が浮上したのと同じ1952年。ダム建設の賛否をめぐって住民同士が対立し、住民の生活再建を条件に建設を最終的に受け入れた後も、工事の遅れや中断が相次いだ。その間に住民の転出が相次ぎ、最盛期に20軒ほどあった温泉街の旅館は数軒だけに。残った住民の高齢化も進む。
この数カ月で7体がほぼできあがった。今後もできる限り作り、店を訪れた知人に贈るつもりだ。ふさ子さんは「ダムができても川原湯がこの先どうなるかわからない。何の不安もない大輪の笑顔を描きたかったけど、心から喜んだ顔は描けないよ」とつぶやく。今は客や知人が店に来てくれるのが何よりの楽しみだ。「大変なことばかりだったけど、多くの人に支えられた」とほほえんだ。(丹野宗丈)
—転載終わり—
樋田さんのお店がある川原湯温泉の移転代替地(打越地区③)では、谷埋め盛り土が宅地造成等規制法の安全基準を満たさないため、試験湛水を前に押え盛り土工法による安全対策工事を行っている。樋田さんの店は、お祭り広場を挟んで共同湯・王湯会館の向かい側にある。2019年3月12日撮影。