八ッ場ダム事業が今年度に完了する予定であることから、ダム予定地を抱える群馬県長野原町では、ダムと共に歩んでいかなければならない今後の展望について、模索する動きが始まっているとされます。
長野原町には、吾妻川沿いの古くからの集落と、浅間山麓の高原地帯という、風土のまったく異なる二つの地域があります。このうち、以前は町の中心的な位置を占めていた吾妻川沿いの集落の多くがダムに沈むこととなりました。温泉街を抱えていたダム堤に最も近い川原湯地区では、背後の山を切り開いた造成地に集落が移転して新たな一歩を歩み始めましたが、多くの住民が地区外へ転出してしまい、人口減少と高齢化による衰退に直面しています。一方、浅間山麓の高原地帯では、この半世紀、酪農業や観光業が独自の発展を遂げ、首都圏からの移住者も少なくありません。
以下の記事でも触れているように、国交省が開催してきた八ッ場ダムの工事現場を見学する無料ツアーやダム予定地の道の駅は、草津温泉を訪れる観光客で賑わっているものの、川原湯温泉など周辺が潤っているとはいえません。
高原地帯の住民はこれまでダム事業とは距離を置いてきましたが、ダム事業で整備した多くの施設の維持管理など、ダム予定地の住民が抱える重荷を町全体が負わなければならなくなります。
◆2019年9月6日 朝日新聞群馬版
https://digital.asahi.com/articles/ASM944DF7M94UHNB00D.html?iref=pc_ss_date
ー八ツ場ダムの地元 南北問題克服への道ー
来春の完成を目前に控えた国直轄事業の八ツ場(やんば)ダム。地元の群馬県長野原町はダム受け入れの代わりに、ダム湖を生かした観光に地域再生の活路を見いだすが、町内でもダムとの距離感で温度差がある。町全体の魅力を高めようと、官民で模索が続いている。
長靴を逆さにしたような形の長野原町。北部は東西に吾妻川が流れ、谷あいに古い温泉街や集落が連なる。南部は浅間山北麓(ほくろく)に高原の開拓地が広がる。1889(明治22)年に町が誕生してから町域は変わっていないが、町の南北は景観だけでなく気質も異なるとされる。
吾妻川をせき止める八ツ場ダム計画が1952(昭和27)年に浮上すると、北部はダム問題が半世紀を超す懸案に。長期化を背景に住民が転出し、かつて20軒ほどの旅館があった川原湯地区で今も営業している旅館は5軒だけになった。ただ、関越道と草津温泉を結ぶメインルート上にあり、林地区の道の駅「八ツ場ふるさと館」には昨年約44万7千人が訪れた。
他方、南部の北軽井沢地区や応桑地区は、避暑地としての観光業や酪農業を中心に、特に戦後に中国東北部(旧満州)から引き揚げてきた人々らの手によって開拓が進んだ。観光資源も豊富で、浅間牧場やキャンプ場、ゴルフ場、スキー場などが点在。こちらも昨年は少なくとも計約51万6千人が来訪。別荘だけでなく、首都圏からの移住者も多い。長野県軽井沢町に隣接し、新幹線も比較的利用しやすい。
だが、北東端の川原湯地区と南西端の北軽井沢地区は約20キロ離れ、車で30分程度の距離がある。地元では南北の住民の心理的な距離感も指摘され、町には川原湯温泉、北軽井沢、長野原と観光協会が三つある。川原湯の湯かけまつりや北軽井沢の炎のまつりなどの行事でも、お互いの住民同士の協力はほぼないという。北軽井沢観光協会に勤める秋南澄江さん(61)は「何でかは分からないけど、不思議な温度差が昔からある」と首をかしげる。
こうした状況を背景に、それぞれの特徴を生かした相乗効果を生み出せていないとされる。長野原観光協会の小林弘さん(60)は「みんな協力したい気はあるだろう。ただ、ダム完成まで長く時が経ち、物事が複雑になってしまっている」と話す。共通のパンフレットや、ダムカードを使った飲食店のサービス協力などはあるが、町を一つの観光地として積極的にPRするような動きはまだ生まれていない。
ダム完成後の観光「工夫必要」
「上の段」と「下の段」。町にはこういった言葉がある。住民によると、標高の高い南部を「上」、吾妻川流域の北部を「下」と言うのだとか。萩原睦男町長(48)は、町内のこうしたよそよそしさを疑問視し、「変えたい」と話す。
南部の応桑地区が地元の萩原町長は、2014年に初当選。ほぼ戦後ずっとダム建設を重要課題としてきた町で、「上」からの町長は戦前の1937年以来だった。萩原町長は地域間の壁を越えた町の活性化をめざす「オールながのはら」を掲げ、「単に観光協会を一つにするとかではなく、八ツ場ダムだけではない町全体の新たなブランドをつくりたい」と訴える。
住民らから漏れ聞こえるのは、ダム単体での観光振興は難しいとの声だ。川原湯温泉の老舗旅館「山木館」の樋田勇人さん(25)は「今、ダムを多くの人が見に来てくれているが、ダム周辺は潤っておらず、今来てくれている人たちをリピーターにする手立てができていない」と言う。
国土交通省八ツ場ダム工事事務所は17年4月から本格的に見学ツアーを始め、18年度は約5万5千人が訪れた。だが、ダム完成後は管理要員の職員数人しか残らないため、9月末でツアーを終了する。10月からは長野原観光協会がツアーを担う。協会の小林さんは「今は珍しい建設中のダムとして見に来てくれる。ただ、ダム完成後はどうか。継続するには何か工夫が必要だ」と先行きを慎重にみる。
「色んな特徴あるのは魅力的」
八ツ場ダムを中心に町全体を結びつけようと、住民や役場職員の有志らで「チームやんば」が17年9月に結成された。
川原湯温泉の旅館「山木館」の樋田さんは、「ダムによってできたインフラなどの維持管理は町全体の問題になる。今は『上』と『下』で互いが何をしているのかさえよく知らないような状況だが、過去の歴史や立場を超えて情報や危機感をもっと共有し、一つの町としての魅力を生み出す必要がある」と訴える。
高齢化や若手の担い手不足により、住民同士の協力が難しいという声もある中、樋田さんは昨年から川原湯地区の若手数人と温泉街のブランド化を考え、今年6月には北軽井沢地区の若手らの集まりにも参加。連携の道を模索している。
道の駅「八ツ場ふるさと館」の篠原茂社長(68)は「まずはダム周辺も浅間周辺も、互いにしっかりとお客さんを呼び込めるようになるべきだ」と話しつつ、長期的に見て浅間山北麓のジオパークを中心とした町づくりには賛同している。
町は町全体での「おもてなし」を具体化しようと、来春をめどに町内をつなぎ観光振興を促進する組織の設立を目指す。町内全体を詳しく紹介するサイトの立ち上げなども検討。5月からは住民たちが町の一体化を考えるワークショップを実施し、今月6日には3回目が開かれる。
日本酒「秘幻」などで知られる浅間酒造の桜井武社長(40)は「みんな自分の仕事で手いっぱいではある。でも、訪れた人たちがどうやって観光を楽しんでお金を払ってくれるようになるか、どうやって町内に好循環を生み出せるかを町全体で考えることは非常に大事」と言う。
15年前に東京から北軽井沢へ移住し、町の広報誌やフリーペーパーの執筆を通じて町全体の歴史や文化を伝えている藤野麻子さん(45)も前向きに捉える。「一つの町なのに、色んな特徴があるのは本当に魅力的。すぐに一つになれなくても、浅間山の下で暮らす者同士。互いの良さや近さを分かりやすく、面白くPRするとか、簡単なことから始めてもいいかもしれません」(丹野宗丈)