八ッ場あしたの会は八ッ場ダムが抱える問題を伝えるNGOです

「八ッ場を知らない子どもたちへ ④前進 地元協議重ね 結実」(上毛新聞)

 八ッ場ダム計画当初、群馬県の神田坤六知事は、水没住民の多くが反対していた八ッ場ダムに消極的だったといわれます。八ッ場ダムに反対していた水没住民にとって、建設省の圧力に抵抗し、住民の意思を尊重する姿勢を見せる神田知事は頼りになる存在でした。

 1976年、神田知事に代わって自民党福田派の全面的な支援を受けた清水一郎氏が知事就任。当時の新聞は「八ッ場ダムのせいで(神田)知事の首が飛んだ」と書きたてました。建設省と自民党から地元説得を託された清水氏は、就任直後からダム予定地域への働きかけに乗り出します。
右=群馬県が1980年に提示した、ダム建設を前提とした「生活再建案」。県は地元での説明会開催を試みるが、水没住民の同意が得られず、翌81年、長野原町を通して各家庭に配布した。

 知事就任後、3ヶ月目に行われた清水知事と樋田町長との対談では、樋田氏が「(地元は)血で血を洗うような深刻な問題になっている。知事として職員になにか指示し、職員が指示によって動いているのか、地元として問題になっている」と発言したことが県の記録に残されています。すでにこの時点で、県による地元の切り崩しが水面下で進められていました。
 
 1980年の「生活再建案」は、群馬県と水没住民がダム建設を前提として交渉するきっかけとなり、5年後の1985年、県と長野原町は生活再建案についての覚書を締結。翌1986年、地元選出の中曽根首相の政権下で八ッ場ダムの基本計画が告示されました。この時、八ッ場ダムの完成予定は2000年度でした。

 群馬県の生活再建案は八ッ場ダム事業の大半を占める生活再建関連事業の原型となり、ダム事業費の肥大化やダム事業の長期化の原因となりましたが、生活再建案の根幹とされた代替地計画は予定より大幅に遅れ、住民の多くは現地再建をあきらめてダム予定地域から流出していきました。
 なお、清水知事は在職中の1991年に死去。1974年から1990年まで長野原町長だった樋田富治郎氏も2010年に亡くなっています。
 
右上=群馬県の生活再建案と「八ッ場ダムに係る生活再建の手引き」には、水没地の各集落の移転代替地の絵が示されている。この絵は川原湯地区の移転候補地とされた横壁地区・小倉。1985年時点では川原湯地区の移転地は、地区内で唯一水没しない上湯原とこの小倉が候補地とされ、地元の意向によりいずれかに決定するものとされたが、実際は地区内の打越に大規模な造成工事を行って代替地をつくった。
 
◆2020年3月21日 上毛新聞
ー八ッ場を知らない子どもたちへ ④前進 地元協議重ね 結実 宮下攻さん(77) 前橋市鶴が谷町 県職員として生活再建案作りに尽力ー

 地元と国の対立状態は続き、ダム建設は膠着状態に陥った。しかし、八ッ場ダム問題の解決に意欲的な清水一郎知事が就任し、事態が動き出した。

 ダム建設を前提としない「白紙の立場」で地元の話を聞くというのが県の立場でした。企業局、教育委員会、知事部局など、対策に関わる全ての部署から職員が集い、清水知事を本部長とする水源地域対策本部が設置されました。ダムができたのちの水没住民の生活ができるかどうか、国と地元との仲介役となり県独自の生活再建案作りが始まったのです。

 県水資源課内に発足した水源地域対策室が再建案作りの中核を担った。当時の長野原町はダム建設に慎重な立場で協力を得られず、作業は難航した。

 町から水没世帯数などの詳細なデータがもらえず、もちろん地元の方の意見を聞ける状態でもありませんでした。使える図面や地図も随分大ざっぱなものだったと思います。各部署で議論し、こうじゃないかと想定したものをまとめ、独自案を作りました。手探り状態で進め、町に提示するまで2年かかりました。

 こどもの国や観光会館などを新設するほか、川原湯温泉の移転候補地に2地区を示すなど、再建案は県が総力を挙げて完成させたものだった。一方、地元の受け止めは「生活再建にほど遠い」と冷淡だった。

 当初の再建案はまさに机上プラン。生活再建という言葉そのものが、なかなか実感として湧かない歯がゆさがありました。県庁の仕事が終わった後、係長だった私は水資源課長とともに各地区を回り再建案を説明しましたが、住民の方は聞き置くだけという感じで質問もありません。

 その後、県は現地での裏付け調査を実施。地元との度重なる協議を経て、当初案を修正し、5年後にようやく町と生活再建案に合意した。

 合意の前に私は他の部署に異動していました。最初は激しい船出だっただけに、地元に受け入れられて本当に良かったと安堵した記憶があります。再建案作りには多くの人が携わりました。県はダムを造る立場ではありませんが、「地元が絶対泣かないように」という職員一人一人の強い思いが結実した瞬間だったと思います。 

—転載終わり—

写真=川原湯温泉が移転した打越代替地。2020年3月21日撮影。

写真=川原湯地区の中でわずかに水没を免れた上湯原の「上の原」。