「八ッ場を知らない子どもたちへ ③葛藤 住民反発 職員も苦悩」(上毛新聞)

 八ッ場ダム事業は1967年に最初の予算が計上され(8000万円)、実施計画調査に着手することになりました。その拠点となったのが、以下の記事で紹介されている高沢さんが配属された調査出張所です。
 ダム事業が間もなく終了しようとしている現時点では、半世紀以上現地に大きな影響力を及ぼしてきた国交省八ッ場ダム工事事務所が撤退することに、長野原町も地元住民の多くも不安を抱いているとのことですが、住民の大半がダムに反対していた当時は、出先機関の開設自体が地元の神経を逆なですることでした。

 危機感を募らせた水没住民483名は、この年12月、町内の中心部にある雲林寺で「ダム建設絶対反対総決起大会」を開催しました。大会終了後、住民らはプラカードやムシロ旗を押し立てて建設省八ッ場ダム調査所へ押しかけ、職員に大会決議文を手渡しました。
(右=1967年12月16日付サンケイ新聞)

 この大会は反対期成同盟による運動の中で最大の抗議行動で、大会における住民らの演説はすべて冊子にまとめて記録されていますが、反対住民の訴えは葬り去られ、事業者側の苦労のみがクローズアップされる昨今です。「費用や効果で八ッ場ほど(ダム建設に)適した場所はありませんでした」とのダム事業者の主張は、いつまで無批判に流されるのでしょう。

 参考までに、当時の新聞記事も併せて転載します。ダムを推進する行政の立場とは違う視点からの報道で、水没住民の苦悩する姿が伝わってくるようです。

◆2020年3月20日 上毛新聞
ー住民反発 職員も苦悩 高沢準次さん(71) 桐生市黒保根町水沼 元建設省八ッ場ダム工事事務所事務副所長ー

 当時の建設省(元国土交通省)が調査出張所を現地に開設した。翌日から反対派住民が押し掛けて抗議し、国と地元が対立した。

 調査出張所が設けられ、18歳だった私が配属されました。8畳一間の畳敷き。黒電話が乗った小さなテーブルがあるだけの簡素なものでした。商店は何も売ってくれず、食料や燃料の確保もままなりません。内緒で売ってくれる店が見つかり、人目につかぬよう神社の境内で毎晩食材を受け取るのが私の役目でした。

 職員は国の方針を説明するために地元を回ったが、相手にされなかった。住民は一斗缶をたたいて立ち入りを知らせ、バケツで水を掛けて追い払った。

 仕事納めの12月28日の夜、不意打ちのように上司と地元入りしました。話を聞いてくれた方の家を出て歩いていると「建設省はくそくらえ」と言われ、ふん尿をかけられました。臭くて車に乗れないので、白く凍った氷を割って吾妻川に入り全身を洗いました。職員は全国のダム経験者が集まっていて、「どこのダムでも最初は厳しいんだ」と教えられていたので、怒るのは当然だと思ってました。

 出張所は調査事務所、工事事務所と格上げされ、ダム建設に向けた準備が進められた。激しい反対を目のあたりにし、葛藤を抱える職員もいた。

 必要なダムなんだというのは頭で理解していましたが、住民の必死の抵抗に「これだけ無理して造らなきゃいけないのか」と思ったこともあります。嬬恋村や旧六合村、旧吾妻町の吾妻川流域に複数のダムを建設することも内々に検討されましたが、費用や効果で八ッ場ほど適した場所はありませんでした。税金を使う以上、最も効率の良い所で進めざるを得ない事情がありました。

 職員が地域住民と交流する機会はあった。地元の野球大会に建設省チームとして参加し、住民参加の囲碁将棋大会を開いた。

 長くなると地元の人と顔見知りになり、反対、賛成関係なく腹を割って話せる人もできました。ちょうど工業社会へと移る時代だったので、「農業では食っていけない」と言う若者もいました。先祖伝来の土地を手放すことに抵抗感の強い上の世代、時代の変化を感じ取る若い世代の間にギャップを感じました。

1967年 建設省が調査出張所を開設。
 68年 調査出張所が調査事務所に昇格
 69年 川原湯駅前に生活再建相談所を開設
 70年 調査事務所を工事事務所に改称



◆1967年9月2日 読売新聞群馬版
ー現地に調査所開設 「八ッ場ダム」で建設省ー

 建設省は1日、吾妻郡長野原町川原湯に八ッ場ダム建設のための「吾妻川総合開発調査所」(梅津光五郎所長)を開設、賛否両論に二分された地元に拠点を設けて建設への地固めをはじめた。同省利根川ダム統合管理事務所佐野稔所長の説明によると、この調査所は二、三か月間の仮事務所で、その後は本調査事務所を開設し県などの了解を得てから早急に立ち入り測量の告示を行いたいという。梅津所長以下五人の職員が泊まり込みで①地元住民との”静かな対話” ②調査本事務所前測量 ③群大とタイアップして吾妻川支流の万座川、遅沢川の水質、ペーハー調査 ④立ち入り測量のためのクイの準備などを行う。

 地元との対話について建設省側は当初”来る者は拒まず”という態度で臨むが、五人の職員が土地の事情に通じれば出向いて積極的に説得工作をするという。この調査所は国鉄長野原線川原湯駅前の国道沿いで、これまで条件付き賛成の八ッ場ダム連合対策協議会と同川原湯地区対策委員会が事務所として使っていたところ。

 午後二時三十分ごろ、佐野所長ら十数人が車で乗りつけ、連合対策協や川原湯委の看板の隣に大きな木製看板を打ちつけただけで引っ越しを終わった。部屋は畳敷きにテーブルと電話だけという殺風景なもので、反対派を刺激しないよう配慮されていた。樋田富次郎川原湯地区反対期成同盟委員長は「調査所前にすわり込んだり、建て物をこわすようなことはできないし、いまさらしかたがない。賛成派のやっていることだからこちらには関係がない」と静観の態度。

◆1967年12月16日 群馬読売
    (右下の画像=八ッ場ダム建設絶対反対総決起大会記録 反対期成同盟発行 より)

ー八ッ場ダム反対派が決起大会 絶対阻止を決議 進む計画に巻き返し図るー

 建設省の八ッ場ダム建設計画をめぐって、緊張が高まっている地元吾妻郡長野原町で、十五日午前九時三十分から、反対派地元住民約三百人が集まって初のダム反対総決起大会を開いた。同ダムは現在、同省調査事務所の建設が進み、立ち入り測量も時間の問題とみられているが、こうした建設への足固めに対して、水没地域住民のダム反対の機運を盛り上げようというねらいが大会開催の原動力となったもので、こんご両者の”対決”はきびしさを増す情勢となった。

 測量は時間の問題?
 決起大会は同省の積極的な”建設攻勢”に対して反対派住民の追いつめられた気持ちを町内外に訴え団結を固めようというもので、川原湯、川原畑、横壁、林四地区の反対派住民約三百人のほとんど全員が参加したほか、社会党県本部の山口鶴男委員長をはじめ日共県本部ダム対策委員会正副委員長、沼田ダム反対共闘会議代表らが応援に駆けつけた。

 大会は野口正人実行委員長のあいさつ、来賓の激励の言葉、四地区代表の報告のあと、地元民十数人がつぎつぎに立って「ダム建設は絶対に阻止する」と決意を表明、建設省の誠意のないやり方を避難し、自分たちの故郷が奪われる悲しみを訴えた。また、沼田ダム反対派の代表は「八ッ場ダムで反対運動がつぶされれば、沼田ダムも押し切られてしまう。われわれは八ッ場ダム反対闘争を全面的に支援するからともに戦おう」と激励、拍手をあびた。

 最後に「全住民が結集してダム建設を阻止する」の大会宣言「建設省は直ちにダム建設を中止し、事務所を取りこわし、職員を引き揚げることを要求する」という大会決議「建設省の甘言にまどわされず、団結と統一行動をとる」という誓いの言葉を採択した。

 会場に充てられた同町役場裏の雲林寺にはダム建設絶対反対のスローガンが張られ、参加者全員がダム反対と赤く染めぬいたはち巻きをして「八ッ場ダム反対の歌」などを合唱、ふだん静かな境内も熱気がいっぱい。大会終了後デモ行進に移り、ちょうど激しく降り出した雪の中を「建設省は出ていけ」「われわれの土地を守ろう」などと書いたムシロ旗やプラカードを持って同省調査事務所におしかけた。

 これに対して同事務所では、ダム反対のシュプレヒコールの中で飯塚順一所長補佐が決議文を受け取り「よく上司に伝えます」と一言いうと、一行の中から「声が小さい」「もっと何か言え」とどなるものも現われ、一時は険悪な空気が流れたが、午後二時すぎ国鉄長野原駅前で解散した。