「八ッ場を知らない子どもたちへ ②再燃 故郷守れ 必死の抵抗」(上毛新聞)

 ダム完成の節目に当たって地元紙に掲載中の連載記事第二回は、水没住民の反対闘争の核となった反対期成同盟のメンバーであった竹田博栄さんを紹介しています。

 竹田さんは1929年に群馬県高崎市に生れ、1948年に川原湯温泉に移住した方です。2006年に中之条町に転出するまで、川原湯温泉で旅館、川原湯館を営んでいました。
 水没地の川原湯温泉では、温泉の湧出地(共同湯・王湯の脇)を取り囲むように、地権者の旅館が並んでいました。戦後、国鉄(現在の吾妻線)の開通に伴い、川原湯温泉が鄙びた湯治場から観光地へと変貌していく中で、竹田さんのように外から多くの人々が流入し、温泉街の坂道沿いに旅館や店舗を開業していきました。
写真右=川原湯温泉の共同湯・笹湯周辺。往時は川原湯館をはじめ、借地借家の旅館や店舗、住宅が軒を連ねていた。2011年4月撮影。

 竹田さんのお名前は、八ッ場ダムに最初に反対を表明した1958年の住民大会の登壇者の中に見えます。「温泉代表」として、「調査隊の即時引揚げを要求す」と題する演説をした当時、竹田さんはまだ20代でした。
 1965年、一旦立ち消えになったダム計画がよみがえり、水没住民は1967年12月、雪の降りしきる中、長野原町の中心部にある雲林寺で八ッ場ダム建設絶対反対総決起大会を開きました。483名が参加したというこの大会は、登壇者の演説がすべて記録されていますが、記録のあとがきによれば、竹田さんご夫妻がテープレコーダーの書き取りなど、編集に大きく貢献したということです。

 上毛新聞の記事では、竹田さんは「元八ッ場ダム反対期成同盟委員長」として紹介されていますが、ご本人が書かれた「八ッ場が沈む日」によれば、八ッ場ダム対策川原湯期成同盟の委員長を務められたとのことです。
 対策期成同盟は水没住民がダム反対の旗を降ろした1992年、「反対期成同盟」の解散に伴って新たに立ち上げられた団体です。竹田さんら反対期成同盟の運動を引き継いだ世代は、地元がダムを受け入れた1992年以降、ダムによる精神的な犠牲の補償を求めるなどの運動を行いましたが、建設省がこうした要望を受け入れることはありませんでした。
 地元の反対闘争が最も激しかった1960~70年代、川原湯のダム反対運動を主導した樋田富治郎さん(山木館、元・長野原町長)や豊田香さん(元長野原町会議員)、豊田嘉雄さん(やまた旅館、元長野原町会議員)はすでに亡くなって久しい歳月が過ぎています。

◆2020年3月19日 上毛新聞
連載「八ッ場を知らない子どもたちへ ②再燃 故郷守れ 必死の抵抗 竹田博栄さん 中之条町西中之条 元八ッ場ダム反対期成同盟委員長」

 火山由来の成分が流れ込む吾妻川は「死の川」と言われコンクリートを劣化させるほどの酸性だったことから、ダム計画は立ち消えとなった。しかし、10年ほどして草津町に水質を改善する中和工場が完成してから問題が再燃した。

 素朴で平和な暮らしが10年ほど続きました。しかし、住民の知らぬ間に吾妻川の酸性を中和する工場が建設され、再度のダム計画が告げられたのです。当時は高度成長期。川原湯温泉はちょうど大火から復興し、旅館や飲食店が立ち並びパチンコ店や芸妓置屋もある全盛時代でした。「こんな良い所を湖底に沈められちゃ困る」という思いから、多くの人は反対運動に加わりました。

 ダム建設反対を掲げて住民は「八ッ場ダム連合対策委員会」を結成したが、複雑な人間関係や実力者への反発もあって約半年後に解散。その後、ダムを巡って立場の異なる団体ができた。

 ダム建設に断固として反対、国に対抗しきれないので条件を付けた方が良い、補償をもらって移住したいなど、「絶対反対」「条件付き賛成」「中立」に住民が色分けされました。川原湯温泉では同じ日の夜、反対と賛成で異なる旅館に集まったこともありました。堂々と旅館に入る人、人目を忍ぶ人など、みんな将来のことについて真剣に悩み、個々の意思で会場へと向かいました。

 最大勢力の反対期成同盟は強固な運動を展開した。同盟の委員長だった樋田富治郎氏が町長に当選し、反対運動の盛り上がりは頂点に達した。

 当時の建設省は岩盤の爆破作業や水準基標の打ち込みを通告なく行うなど、実力行使的な行動を取りました。これが地元住民の感情を害し、反対の団結を固くさせました。反対派は「ダム反対の家」のステッカーを家に貼り、家の屋根の上に「ダム反対」と書く人もいるなど、激しい運動は全国的にも有名でした。

 商店街で反対派と賛成派が取引をしないなど日常生活にも影響が及び、地元は泥沼のような混沌とした時代を迎えた。

 ダムを巡って住民は立場が分かれましたが、いずれも自分たちの生活を最優先で考えていた点では同じだったと思います。「ダムを早く造った方が良い」、「造っても良くならない」という、それだけの違いでした。助け合いの精神があった地域で、人々はいがみ合い、立場が違えば立ち話もできなくなるなど大きな亀裂が生れたのは辛いことでした。
 
1964年 県が中和工場(草津町)の操業開始
 65年 ダム計画が再び発表され問題が再燃。反対派住民675人が反対期成同盟を結成
 67年 雲林寺でダム建設反対の総決起大会

—転載終わり—

竹田博栄さんの著書「八ッ場が沈む日 ダム建設反対運動の記録」(1996年)より

ーふつうダムを造るのに30年といわれているそうです。それが60年以上もかかるということは、どうしてなのでしょうか。
 まず、考えられることは、ダムには期限がないということです。
 成田空港にしても関西空港にしても西暦なん年使用開始という目標があったはずです。
 しかし、ダムには明確な期限がないのです。 
 ・・・(中略)・・・
 最初のころ
 「国は造ると言ったら何年かかっても必ず造る。だから反対してもだめなんだ!」
 「どこのダムも最初は反対しているが最後は賛成になり、はやく造ってくれとあべこべに陳情するようになる。住民をくたくたになるまで疲れさせ、やすい補償でダムを造る。これが国の常套手段なんだ!」と、昔のダムの先輩は言っていました。
 こんなことは信じたくもなかったし、そんなことは絶対にさせないと頑張ってきたのですが、やはり国家権力にはかなわなかったのです。

写真=ダム湖に沈んだ旧温泉街跡地。2020年3月21日撮影。