八ッ場あしたの会は八ッ場ダムが抱える問題を伝えるNGOです

連載「八ッ場を知らない子どもたちへ ①通知 地域分断 後世に教訓」(上毛新聞)

 八ッ場ダムが68年を経て3月末に完成するという節目の時を迎え、地元紙・上毛新聞がこれまでの歴史を振り返る連載を開始しました。
 第一回は八ッ場ダム計画が地元住民に知らされた当初、ダム計画に激しく反発した住民が開催した大会に登壇した篠原都さんを紹介しています。

 八ッ場ダム計画は1952年5月16日、建設省から長野原町長宛ての通知で、初めて地元に知らされました。翌1953年2月15日、水没地の小学校の校庭に800人余りの住民が集まり、ダム反対を訴える住民大会を開催しました。翌月発行された長野原町報には、住民大会で演説した篠原都さんのお名前が旧姓(高山)で掲載されており、演題は「最小の犠牲で最大の効果を挙げよ」となっています。都さんはこの大会で川原畑地区の住民代表として登壇した高山雅一郎さんの娘さんです。

 住民大会の後、ダムの話は一旦は立ち消えとなりました。しかし、ダム計画が中断したのは、住民が反対したからではなく、ダム予定地を流れる吾妻川が鉄やコンクリートも溶かすほどの強酸性河川で、そのままでは技術的にダム建設が不可能であったからでした。
 1965年、吾妻川の中和事業が成功したことで、八ッ場ダム計画は再び動き出します。最初にダム計画を知らされた時には、ダム反対で一致していた水没住民でしたが、1965年の時点では、建設省の根回しが功を奏したか、有力者の中に条件付き賛成を標榜する住民が出てきました。町会議員を務めていた高山雅一郎さんもそのお一人でした。
 川原湯温泉を抱える川原湯地区では、ダム反対の住民が多数を占めていましたが、吾妻川を挟んで川原湯の対岸にある川原畑地区では、一番の有力者に従って条件付き賛成になる住民が多かったといわれます。

 上毛新聞の記事と1953年当時の長野原町報を転載します。

◆2020年3月18日 上毛新聞
「八ッ場を知らない子どもたちへ ①通知 地域分断 後世に教訓 篠原都さん(83) 長野原町川原畑」

 ダム計画が通知された後、先祖伝来の土地や家屋を失う住民の怒りが噴出した。山あいの小学校に800人もの老若男女が集い、八ッ場ダム反対住民大会が開催された。

 大きなぼたん雪が舞う寒い日でした。川原湯、川原畑、林、横壁の4地区の子どもからお年寄りまでが長野原第一小学校第一分校(現第一小)の校庭に集まりました。まるで百姓一揆のように「反対」と書かれた大きなむしろ旗があったのを覚えています。当時の住民は反対一色でまとまっていました。

 ダムができると、歴史のある川原湯温泉、風光明媚なあがつま警告も水没することから、反対を訴える住民たちの熱気はすさまじかった。高校1年生だった篠原さんは、学生代表として演壇に立った。

 「原子爆弾の洗礼を受けた広島や長崎でさえ、月日がたてば草木が生え人も住めるようになるが、湖底に沈んだ故郷は永久に戻ってこない」と訴えました。今も昨日のことのように覚えています。当時はとにかく故郷を守りたい一心で、これから半世紀以上もダムに翻弄されることになるのを知る由もありませんでした。

 ダム計画が浮上したきっかけは、利根川決壊などで1100人余りの犠牲者を出したカスリーン台風。多くの人口を抱える下流地域を水害から守るため、住民の犠牲を伴うダム事業が進められた。

 かつての川原畑地区は、川の近くに畑が広がる穏やかな場所でした。しかし、賛成や反対というダムに対する立場で地域に溝が生れ、助け合ってきた人たちが談笑しなくなったほどです。町議選もそれぞれの立場から候補者を出しました。あの頃は一番大変な時代でしたが、今思うと人々の意識の変化に恐ろしさを感じます。

 水没住民の多くは人生の大半をダム問題に費やし、神経をすり減らす日々を送った。ダム完成の日を待ちわびながら亡くなった人も少なくない。

 ダム完成を控えた今、故郷が水の下に沈んだ寂しさ、先祖代々暮らしてきた生家に近い代替地で生活できるうれしさの両方が入り混じっています。物心ついた頃からダム問題があり、多くの人が悩み苦しんできました。先人たちの苦労を繰り返さぬよう歴史を教訓にしてほしいと思うと同時に、人々の生活に役立つダムであってほしいと願っています。

1947年 カスリーン台風により利根川流域で大洪水
 49年 利根川上流ダム群の建設計画
 52年 建設省が長野原町に計画を通知し、調査着手
 53年 長野原小第一分校でダム反対住民大会

  ◇   ◇
 計画発表から68年の歳月を経て、八ッ場ダム(長野原町)が今月末に完成する。激しい反対闘争、住民同士の対立、人口流出による過疎化ー。生活用水の確保や河川の氾濫防止など下流地域が受ける恩恵と引き換えに、水没住民は多大な犠牲を強いられてきた。忘れてはならない八ッ場ダムの記憶と教訓を語り継ぐため、ダムと共に歩んだ人たちが歴史を振り返る。

==========
昭和28年3月15日発行 長野原町報
 雪をも解かす愛郷の情熱 遂に住民大会開く 八ッ場ダム建設計画の撤廃方要求を決議

一. 天は許さじ農民の 汗もて築きし田に畑に 一指ふるるもゆるすべき 立て立て今日の大会ぞ
二. 幾年住みし墳墓の地 生命捧げし吾が郷土 護らんつとめ果たすべき 今日大会ぞいざ往かん

 三百余戸の住民を祖先伝来の土地から引はなし、名勝関東耶馬渓を湖底に葬る、八ッ場ダムの建設計画は昨年来建設省調査隊の手によって、既に岩石調査では優秀との折紙がつけられ、最早や予算化を待つ許りとなったので、吾等は今は一刻も猶予すべきときではないと、去る二月十五日長野原第一小学校第一分校で「八ッ場ダム建設反対住民大会」を開くに至ったのである。

 当日は定刻前に、手に手にむしろ旗、プラカードを掲げた住民が鐘や太鼓の音も勇ましく、先の大会歌を合唱し乍ら、老若男女合わせて八百余名会場せましとなだれ込んだのであった。

 大会は先ず議長団の五氏が選出され、反対運動の対策委員長に町長を据え、次の順で反対意見の開陳を行ったが、烈々火を吐く血涙の雄叫びは折から降りしきる猛吹雪も、膚をつんざく寒風も物かわ、打って一丸となり、奥吾妻の山峡にこだましたのであった。

 嘗ては戦争中、戦野に最も忠勇なる強兵を送り、銃後又強固なる団結に於て且素朴なる愛郷土心に於て、国内の他の何れにも劣らぬ優秀振りを発揮した吾々西吾妻の住民が、今こそマナジリを決して立上ったのである。

一.  吾が愛する農地を守れ 住民代表 市村武平
二.  川原湯温泉を守れ 温泉代表 樋田淳一郎
三.  祖先伝来の地を守れ 婦人代表 野口たか
四.  最小の犠牲で最大の効果を挙げよ 学生代表 高山都
五.  青年行動隊を結成せよ 青年代表 竹内喜一
六.  国策を葬る老農の叫び 老人代表 篠原甚逸
七.  婦人の覚悟 婦人代表 岩佐かつ
八.  調査隊の即時引揚げを要求す 温泉代表 竹田博栄
九.  吾等の生活圏を死守せよ 住民代表 高山雅一郎
十.  吾等先輩の偉業を守らん 青年代表 星河義一
十一. 当局の独善的行為を葬れ 住民代表 篠原吾郎
十二. 八ッ場ダム建設絶対反対 住民代表 豊田又造
十三. ダム建設絶対反対 議会代表 萩原国三郎
十四. 反対署名運動を展開せよ 住民代表 豊田嘉雄

 中でも学生代表高山都嬢は「原子爆弾の洗礼を受けた広島でさえ年が経てば草が生える。ダムの底に沈む私達の郷土は永久に地獄である」と叫べば、老人代表篠原甚逸氏は「天明三年浅間大爆発により悉く潰滅された郷土を今日にするまでの営々たる祖先の労苦をダムの為に湖底に葬ることは死に勝る悲しみである。各位もよろしく火の玉となって祖先の霊に応えよ」と病躯乍ら声涙共に下る熱弁をふるい、又、青年代表竹内喜一君が「吾等青年は行動隊を組織してあくまで反対の急先鋒たれ」と実力行使を暗示すれば、婦人代表岩佐かつさんは「県知事を先頭に立てて中央へ押しかけろ」と男子に劣らぬ紅い気焔を吐いたのである。 

 そのあと、浦野匡彦氏、湯本昇氏、福田豊二郎氏等の激励演説があって大会は次のような宣誓、決議文を満場一致で可決し、建設省と国会へ陳情使をたてることになった。

 かくて八ッ場ダム建設に反対する住民の意志は公式に発表されたのである
 斗いの火蓋は切られた。勝たねばならぬ。絶対に。

註 ★二月二十四日、住民を帯びた陳情使一行五十三名は、ダム建設反対委員長たる町長を陣頭に出京、まず国会にて地元選出代議士に協力方を要請陳情し、「断固として反対する」旨の確約を得るや、踵を返して直ちに建設省に乗り込み、次官、河川局長利水課長等を歴訪し、同じく決議文を手交するとともに、それぞれ陳情を行い、所期の成果を修めたのであった。
 県当局並に県会に対する陳情は四月十一日に決行する予定である。


写真=水没地にあった川原畑諏訪神社。2005年8月撮影。

写真=川原畑地区の水没地、西宮。2016年4月撮影。

写真=ダム湖畔にある川原畑地区の移転代替地。2016年10月23日撮影。