八ッ場あしたの会は八ッ場ダムが抱える問題を伝えるNGOです

「八ッ場を知らない子どもたちへ ⑤交渉」(上毛新聞)

 1990年、地元の長野原町では、樋田富治郎氏から田村守氏へと町長が交代しました。
 1974年から16年間の樋田町政は、国と県の圧力の下、水没住民によるダム反対運動の代表として町長に押し上げられた樋田氏が、地元の反対期成同盟の崩壊を背景に条件闘争へと転換する過程でした。

 田村氏就任2年後の1992年、長野原町は正式にダム計画を受け入れる協定を建設省と締結。当時の紙面には、樋田前町長が協定調印に難色を示し続けたこと、協定調印式に出席しなかったことを伝えています。また、同じく川原湯温泉の旅館主であった竹田博栄さん(連載②参照)による、「反対運動は名実ともに幕を閉じた。が、だれもダムに賛成したわけではない」という言葉も紹介されています。
写真=住民が事業用地から立ち退く際に国が支払う補償額を決める補償基準の調印が行われたのは2001年。

 八ッ場ダム事業ではダム湖周辺に水没住民の移転代替地を造成する”現地再建方式”が採用されました。水没地の外に住む田村氏は町長選において、「住民の意向を十分に取り入れた過疎のないダムづくり」を掲げましたが、田村町政の1990年から2006年までの16年間に、ダム予定地域の人口は激減し、地域経済の核であった川原湯温泉も衰退しました。

 その最も大きな要因は、ダム事業の遅れでした。ダム計画が告示された1986年、八ッ場ダムの完成は2000年度とされましたが、補償基準が調印され、国交省と住民との補償交渉が可能となったのは2001年になってからでした。また、水没住民の移転代替地の分譲価格を定める分譲基準の調印が行われたのは2005年、代替地の造成がほぼ終わり、分譲手続きが開始されたのが2007年以降でした。代替地の分譲価格は周辺地価よりはるかに高額に設定され、住民流出をさらに加速させました。
 事業の遅れはダム計画そのものに無理があるためでしたが、ダム受け入れ後の地元では、ダム事業に協力しない地権者のせいで事業が遅れ、生活再建が遅れると言われました。
 
◆2020年3月23日 上毛新聞
ー八ッ場を知らない子どもたちへ ⑤交渉 協定多くの時間と努力 田村守さん(81) 長野原町大津 地元の補償交渉に関わった元長野原町長ー

 平成へと時代が変わり、ダム問題は補償交渉という新たな局面に移った。田村町政の16年間は厳しい交渉の連続だった。

 熱心にダム問題に取り組んでいた樋田富治郎町長から引き継ぐ形で町長に就任しましたが、すぐに大問題だと痛感しました。町としてダムを受け入れるかどうか、まずはダム専従助役を設け、水没住民の声を吸い上げました。当時はまだ住民の約半数は反対で、九つの派閥がありました。住民との会議は毎晩のように開かれ、時には深夜に及ぶこともありました。

 度重なる協議の末、用地補償のため土地や家の財産価値を決める調査に関する協定を締結した。反対期成同盟が改称し、軟化したことも後押しした。

 それまでダム問題は3歩進んで2歩下がるような状態でした。計画から40年も経過すれば家もぼろになるし家族はバラバラになるしで、これ以上遅らせるのは地域にとって利益にならないという考えが住民の間に浸透してきたようでした。
 1992年6月に知事を読んで住民と懇談の場を設けた際、反対の立場の住民から「不満だけど、この辺で一歩前に出べえや」との意見が出ました。周囲も賛同して翌7月の補償調査の協定締結に至り、これがダム問題が動き出す大きな起点となりました。

 その後、用地補償基準に関する協定を結び、代替地の分譲価格交渉が始まった。しかし、川原湯地区は調整が難航。国からの5度の価格提示の末、最後は多数決で決まった。

 川原湯地区は温泉街という特別な事情から、最後の最後まで意見がまとまりませんでした。歴史ある温泉街の将来や多くの人々の生活が懸かっているので皆真剣です。結果的に、全員は心の底から納得はできませんでしたが、締結に至るまで多くの人の努力と時間が費やされました。

 町長時代に主だった交渉は終わったが、引退後も地域再建への不安は消えなかった。

 当初の約束通り物事が進むとは限りません。実際、下流都県が拠出し地元の生活再建に役立てられる利根川・荒川水源地域対策基金は減額され、事業見直しを迫られました。中国の故事で飲水思源という言葉があります。水を飲んで源を思えという意味です。先祖伝来の土地を泣く泣く手放した人々がいました。皆さんが水を使うとき、その苦労に思いをはせてもらいたいと願っています。

1992年 「用地補償調査に関する協定書」を締結(国と水没5地区)
2001年 用地買収価格などの補償基準に調印(同)
 05年 代替地分譲基準に合意(同)

—転載終わり—

下=2005年に住民に配布された代替地の資料より川原湯温泉駅が移転した川原湯地区の上湯原の図。住民の減少に伴い、整備範囲は縮小されていった。代替地の分譲基準の調印が行われた2005年の時点では、まだ代替地の整備は終了していなかった。

写真下=川原湯温泉の移転地となった打越代替地は、代替地の中でも最も整備が遅れ、分譲手続きが開始されたのは2008年3月であった。2005年5月撮影

写真下=水没予定地の国道沿いに立っていた川原湯温泉の看板。2005年8月撮影。