上毛新聞の連載記事、第6回は川原湯温泉の移転代替地でキッチン赤いえんとつを営む水出耕一さんへのインタビューで構成されています。
水没地にあった川原湯温泉は、もともとは山ふところの鄙びた湯治場でしたが、第二次大戦末期の1945年に国鉄長野原線(現・JR吾妻線)が開通し、翌年、川原湯駅(現・川原湯温泉駅)が開業すると、交通至便な温泉地として多くの観光客が訪れるようになりました。温泉の湧出口周辺には地権者が経営する老舗旅館が立ち並び、坂下に外から流入してきた借地借家人の旅館や商店、飲食店などが軒を並べ、温泉街が発展していくさなかに地元に八ッ場ダム計画がもたらされました。
写真=水没地にあった川原湯温泉駅。2011年撮影。
地元のダム反対運動の中心は、代々この地に住み暮らしてきた地権者でしたが、この地に根を下ろそうと懸命に働いてきた借地借家層にとって、八ッ場ダムにどう関わるかは、生活をどう守るのかと同義でした。
かつて、温泉街の住民の7割以上は借地借家人であったそうです。ダム事業では土地や家屋を明け渡す代償として、国が補償金を払います。借地借家層への補償額は生活再建をできるギリギリのレベルでした。
2003年、国交省は水没住民の移転代替地の分譲基準案を発表しました。国の提示額は周辺地価よりはるかに高額であったことから、住民は激しく反発。その後、2年間交渉が続きましたが、代替地の整備費用を分譲収入で賄うことになっている国は、結局ほとんど譲歩することなく、高額な分譲地価が決定しました。
しかも、代替地はこの時点ではまだ造成中で、いつ工事が完了するのかも不透明でした。水没地の温泉街では、櫛の歯が抜けるように家屋が解体され、工事の騒音にも悩まされる中、観光業は成り立たなくなりつつありました。このため、2005年の分譲基準調印を機に、住民の多くが当初思い描いていた代替地への集団移転をあきらめ、他地域へ転出していきました。
写真=水没地の温泉街にあった食堂「旬」は2014年3月に解体された。
水没五地区の中で最も人口が多かった川原湯地区の代替地の分譲手続きが開始されたのは、分譲基準の調印から3年後の2008年、水出さんが代替地のダム堤近くでお店を再開できたのは2014年です。1979年の群馬県の調査によれば、川原湯地区の世帯数は201世帯でしたが、代替地の分譲世帯はわずか32世帯です。
◆2020年3月24日 上毛新聞
ー八ッ場を知らない子どもたちへ ⑥変貌 新天地求め人口流出 水出耕一さん(65) 長野原町川原湯 川原湯温泉で飲食店「赤いえんとつ」経営ー
800年の伝統を誇る川原湯温泉は1990年代後半、旅館18軒、飲食店11軒があった。しかし、補償基準調印後に人口流出が進み、風景は様変わりした。
飲食店は3軒しか残っていませんが、当時はすし店や定食店、料理店、スナックなどがありました。店や家がぽつんぽつんと減り、建物が取り壊されるたびに住宅地図にペンで赤く塗っていたら、いつのまにか真っ赤になってしまいました。10歳で引っ越ししてきたころはパチンコ店やストリップ劇場もあり歓楽街のようでしたから、更地が増えていく光景は衝撃でした。
国の代替地造成の遅れが、人口流出に拍車をかけた。
より良い生活環境を求め、多くは渋川市や中之条町などに移転しました。子どもが住む場所に移りたい、地主と借地人というしがらみから切り離されたい、新天地で一旗揚げたい、補償をもらってマンション暮らしをしたいなど理由はさまざまでした。さんざん「川原湯は嫌いだ」と言って出て行った人もいました。そこまで言って自分を納得させないと、踏ん切りがつかなかったのかもしれません。
残ることを決断した人たちは、変貌する風景とともに不安な日々を過ごし、高台に整備された代替地に移転した。
私自身は川原湯に残りたいという意向を表明したけれど、実際は「移りたい、残りたい」と揺れていました。地元の常連さんがいなくなって、旅館の減少で観光客も少なくなり、店の前を人が歩かない日もありました。これでは食べていけないと、一時は外に働きに出ました。建物が残り数軒になると、子どもたちに「こんなんになるまで良く残っていたなあ」と言われました。6年前に代替地に移転し、店を再開しました。
移転後に故郷を思う人も多いようで、水出さんの店にも移転者が訪れる。
出て行った人を応援したいのが、残った人たちの思いです。いろいろあって出て行ったんだけど、本当はここにいたいと思う人もいるはず。自分がここにいれば、そういった人の思いをつなぐことにもなります。失ったものばかりに目を向けていても前には進めません。またどこかでお店を作るような人が出てきて、新たなにぎわいが生れるといいなと思います。
2001年 国道145号付け替え工事の一環で、長野原めがね橋が開通
02年 長野原第一小が高台の新校舎へ移転
07年 移転代替地の分譲手続き開始
08年 ダム建設資材を運ぶ「大柏木トンネル」が貫通
—転載終わり—
写真下=ダム堤の右岸側に2014年に開業したキッチン「赤いえんとつ」。国道が対岸に移ったため、人の流れから取り残されがちな川原湯温泉だが、旧温泉街にあった食堂・旬の頃からリピーターが多い。
写真下=水出さんの住宅地図。建物が取り壊されているところが赤く塗られていた。写真撮影は2007年9月。すでに多くの家屋が解体されていたが、この時点ではまだ代替地は造成中だった。