「八ッ場を知らない子どもたちへ ⑦混乱」(上毛新聞)

 連載記事の第七回は、2006年から2014年までの8年間、地元、長野原町の町長を務めた高山欣也氏へのインタビューで構成されています。
 長野原町長は1974年から1990年まで樋田富治郎氏、1990年から2006年まで田村守氏と、いずれも四期16年でした。高山氏は二期8年で引退しましたが、この間、2009年の総選挙で八ッ場ダム見直しを政見公約に掲げた民主党が政権を獲得し、2012年まで八ッ場ダムを推進してきた自民党が下野したため、民主党政権に反発し、八ッ場ダムの早期完成を訴えた高山町長はマスコミでしばしば取り上げられました。
 
 民主党は2005年の総選挙で初めてマニフェスト(政見公約)に八ッ場ダム建設中止を掲げました。高山氏が町長に就任した2006年、すでに与党・自民党は劣勢で、政権交代は時間の問題とされていました。高山町長の役割は、政権交代に対抗し、地元をダム推進でまとめることでした。
写真=2011年12月23日付の上毛新聞紙面より、民主党政権の前田武志国土交通大臣が地元へダム建設再開を報告した時の写真。前田大臣に向かって左から上野宏史参院議員(現衆院議員、自民党)、竹内良太郎・長野原町会議長、高山町長、萩原昭朗・八ッ場ダム対策委員長、大沢正明群馬県知事。

 ダム問題に関わったことのない一般の人々には、犠牲になる八ッ場ダムの推進を必死に訴える長野原町の姿勢は予想外でしたから、「地元」はマスコミの格好の餌食となり、週刊誌では田村守・前町長(参照:連載⑤)や水没五地区連合対策委員会の萩原昭朗委員長とダム利権との関係などが取り沙汰されました。地元が矢面に立たされ、政官財癒着のダム事業の実態はオブラートに包まれ、ダム中止の際の方向転換の困難さばかりがクローズアップされる中、八ッ場ダム建設再開への道筋がつくられていきました。

 高山元町長は、川原湯温泉でぼたん鍋を名物とする高山旅館の二代目で、町長に就任する前は、ダム事業に協力するための地元の住民組織である水没五地区連合対策委員会の事務局長を務めていました。
 当初ダム反対だった高山旅館がダム賛成に転じた経緯が高山旅館の初代(高山氏の父君)、要吉氏の自伝「閑雲草庵雑記」に綴られていますので、記事とあわせて紹介します。

◆2020年3月25日 上毛新聞
ー八ッ場を知らない子どもたちへ ⑦混乱 中止宣言に住民反発 高山欣也さん(76) 長野原町川原湯 民主党政権時に長野原町長ー

 2009年夏の衆院選で民主党が勝利して政権が代わり、再び政治に翻弄された。前原誠司国土交通相のダム中止宣言は関係者に大きな衝撃を与えた。

 組閣の日、代替地に移転したばかりの自宅に戻ると、何人もの記者が庭で待機していました。民主党は選挙公約でダム中止をうたっていて、前原氏が宣言するかもしれないから待機させてくれと言われました。中止が判明したのが深夜2時ごろ。コメントを聞くと記者が一斉にいなくなりました。その日は値付けず、心配事が一気に現実になった実感がありました。

 前原氏は中止の理由に治水効果への疑問、水需要の減少などを挙げた。既に補償交渉が終わり、代替地造成が本格化していた。長年の苦労を無にする宣言に住民は憤り、話し合いを拒否した。

 移転者も出て人口が減った時点で言われましたので、「今更なんで」というのが一番の思いです。道の駅や市民農園ができる構想もあり、橋など建設途中のものはどうするのかと思いました。船に例えれば、荷物を全て積んで出航したのに、到着寸前になってから急に戻れと言われるようなものです。もう戻るに戻れない。土地や建物を売って出て行った人は引き返すわけにはいきませんから。地元との協議もなく、一方的に出されたのは半世紀前のダム通知と同じでした。

 マスコミの取材合戦が繰り広げられ、ダムに翻弄される温泉地として取り上げられた。住民が反発していることに対して、抗議も寄せられた。

 建設中の不動大橋が十字架のようだと盛んにマスコミに取り上げられました。殺到する報道陣にしつこく話を聞かれるので、出歩きたくない住民もいたほどです。私の自宅にも朝から外で待機していた李、勝手にガレージを開けて中をのぞいたりする人もいました。

 民主党政権の前田武志国交相が11年12月、ダム建設再開を決めた。前田氏が報告に駆け付けると、住民は万歳三唱で迎えた。

 中止を告げられてからの約2年間はつらかったけれど、あの時はすごくうれしかったですね。住民にとって前田さんは神様のように見えたんじゃないかな。期待感はあったが、最後はよく決断してくれました。常にダムが気掛かりな人生でしたが、ようやく心配事が一つ消えました。やはり国民の信頼を失うような国であってはならない、というのが私の素直な思いです。

—転載終わり—

 高山旅館の初代、高山要吉さん(明治45年生まれ)は温泉街の対岸の川原畑地区のご出身でした。
 川原湯の郵便局に14歳から務めた要吉さんは、後に郵便局長となり、八ッ場ダム計画が最初に発表された翌年の1953年、温泉街の発展に伴い高山旅館を始めました。
 反対運動の牙城であった川原湯がダム計画を受け入れる上で密かに重要な役割を果たした要吉さんは、1996年、自伝を刊行しています。ダム関連工事が始まったばかりの当時、地元対策として関東建設弘済会から出された10冊の一つです。
 八ッ場ダムの反対運動は、1976年に就任した清水知事が建設省と自民党の意向を受けて地元への働きかけを積極的に行ったことにより切り崩されていきました。以下に要吉さんの自伝から一部紹介します。

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「閑雲草庵雑記」(高山要吉、1996年、関東建設弘済会)より
「清水知事、和解工作に動く
 素人っぽい反対運動とはいえ、みんな必死だったから昭和四十年代は川原湯を激しい反対運動の嵐が吹き荒れた。反対派の屋根という屋根、壁という壁にはでかでかと「ダム建設反対」「建設省は出ていけ」などと書かれ、相談所の建設や杭打ちなどといえば実力行使に出たものだ。だが相手は国である。まともに喧嘩して勝ち目のある相手ではない。国と反対期成同盟とでは横綱と褌担ぎ、いやそれ以上の開きがある。反対なら徹底的に相手にならないこと、それが私の持論だったから、実力行使にはほとんど顔を出さなかった。
 ダム問題が再燃してから十年が過ぎようとしていた。このままでいいのか。私は反対派に属しながら、先の見えない状況に苛立っていた。反対運動のための勉強と称してあちこちのダム見学に行ったが、どんなに激しい反対をしたところでも結局はダムができてしまっているのだ。ダム建設計画が撤回されることはないという証ではないか。ならば住民が討ち死にするような事態だけは避けたい。かつてのM郵便局の労働争議のことが念頭から離れなかった。互いの矛を納めるために仲裁者が必要な時期になっている。まだ反対の声が絶対のときだ。大きな声では言えないが私の中に「絶対反対」に逡巡する思いが芽生えてきていた。
 そんなとき県の秘書課長、小寺さん(註:清水知事の死後、群馬県知事)から清水知事と会ってほしいと言ってきた。・・・(中略)・・・

 これまで国会陳情などで田中角栄や佐藤栄作など大物に会ったことはあるが、まったく個人的にこういう偉い人と会うのは初めての経験だった。場所は前橋の待合だった。
「高山さん、まあ固くならないで」
 清水知事は気さくな人で、さすがに人のあしらいがうまい。
「知事さん悪いけど俺は酒が嫌いだから、それにごちそうになって借りこさえたら困るからね、今日の昼ぐらいは俺が払うよ」
 反対期成同盟の手前もあるし、私はかなり突っ張っていた。しかし回を重ねる毎に八ッ場の問題に清水知事が真剣に取り組もうとしていることが、私にもわかってきた。
「何がなんでも作ろうというんじゃない。みんなの意見が合ってなるほどどうしてもダムは無理だとなれば、俺が先頭に立って国と交渉する。だからまあちっとは話し合いに乗ってくれ」
 「県が再建案を作ってみんなに見てもらって、みんながなるほどこれなら川原湯の再建ができると納得できれば話を進めればいい」
 知事の話に、私は絶対反対の旗を下ろし話し合いのテーブルにつく潮時が来たと感じた。このとき私は陰で清水知事の手伝いをする決心をした。知事のためにではない。こうすることが、私も含めた川原湯の住民のためであると確信できたからだ。
 しかしその道のりは決して平坦ではなかった。・・・以下略

~~~転載終わり~~~
 当時、反対期成同盟はダムを前提とした「生活再建」という懐柔策で働きかける群馬県に対抗するため、主要メンバーが県との交渉前に念入りに作戦を練ったものの、実際に県当局と交渉する際になると、密かに練ったはずの作戦がすべて筒抜けになっており、誰が県と通じているのかと互いに疑心暗鬼になったそうです。自伝が刊行されて、初めて高山さんが県当局と通じていたことがわかったものの、その頃にはもう地元は高山さんを表立って責められる状況でなかったということです。
 要吉さんのあとを継いだ高山町長は2008年、川原湯温泉の移転地である打越代替地に、地区住民の中で最初に移住しました。

写真=高山要吉さんが生まれ育った川原畑地区から吾妻川対岸にあった、山あいの川原湯温泉街を望む。川原畑も川原湯も元の集落跡はダム湖に沈められた。2004年12月14日撮影。