八ッ場あしたの会は八ッ場ダムが抱える問題を伝えるNGOです

2018年西日本豪雨をテーマとした集会の配布資料

 2018年7月の西日本豪雨では、岡山県を流れる高梁川の支川の小田川が大氾濫し、岡山県倉敷市真備町では50名の住民が亡くなる凄まじい被害をもたらしました。真備町はもともと水害常襲地帯でしたが、戦後、ベッドタウンとして発展した新興住宅街に流入してきた住民は水害の歴史を知りませんでした。
 真備町の住民グループは繰り返されてきた水害の歴史を伝承する施設づくりを進めようとしていると、日本経済新聞が報道しています。
 
配布資料最終版のサムネイル 八ッ場あしたの会では、西日本豪雨が発生した2018年の12月にこの水害をテーマに集会「荒れる気候の時代に 命を守る水害対策を考える」を開催しました。集会のメインゲストは滋賀県知事として全国で初めて流域治水条例を制定した嘉田由紀子参院議員でした。水害発生後、真備町で現地調査を行った嘉田さんは、調査によって明らかになった水害をめぐるこの土地の歴史や求められる治水対策について詳しく話してくださいました。
 集会の配布資料(右の画像をクリックすると開きます)から、嘉田由紀子さんの講演スライドをご覧いただけます。
 
◆2020年5月24日 日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO59363290Q0A520C2SHB000/
ー水害爪痕の伝承、未来の被害防ぐ 岡山・倉敷ー

 活発化し停滞した梅雨前線による豪雨で全国で260人以上が亡くなった豪雨災害から7月で2年。その前後も日本列島は深刻な豪雨水害に襲われてきた。

 西日本豪雨の被災地、岡山県倉敷市真備町の住民グループは繰り返されてきた水害の歴史を伝承する施設づくりを進める。

 昨年7月末。真備町岡田地区にある蔵の解体が行われた。富岡理弘さん(81)所有で、1874年(明治7年)に建っていた記録が天井のはりから見つかった。内部には江戸時代の屏風とともに土壁には異なる浸水の跡が2つ見つかった。

 1つは地面から2.6メートル、2018年7月の水位。もう1つは14センチ上に線を引いていた。1893年(明治26年)秋、真備町を襲った台風による最大級の水害の痕跡が長い年月を越えて出現した。町内約3400戸中、流出を免れたのは19戸、死者約200人の大惨事だった。

 しかし具体的な物証として伝える遺構は残されることはなかった。「西日本豪雨に遭ったことで、最大級の水害の物証を得られた」。伝承施設計画を進める住民グループの郷土史家、森脇敏さん(79)は話す。

 国や県、市に設置を求める「平成大水害復興伝承館」(仮称)には、土壁や屏風絵などを展示、岡山大の協力で土蔵も3Dデータとして復元する。2年前の避難検証を細密に行った冊子も作成、防災教育に生かす。

 岡山大大学院教授、松多信尚さん(48)は昨年7月、森脇さんら住民グループと合同で2年前の真備町の住民の避難行動や水害の遺構保存など様々な視点で検証した報告書をまとめた。

 死者51人のうち8割は住宅1階部分で亡くなった。ハザードマップ上、安全な場所への「立ち退き避難」が必要な場所に自宅がありながら、避難せず孤立した2350人が救助された。松多教授らは大水害の史実がありながら避難行動の遅れた要因を分析した。

 「災害に遭った体験がない」ことが避難を遅らせ、明治の水害よりも記憶に残る76年洪水の記憶や石碑で「大したことはない」と思った可能性もあった。

 「人間の一生に比してはるかに長い時間を経て大災害は起きる。体験がないゆえに具体的な伝承が重要。災害を乗り越えた地域の象徴として遺構を捉えるべきだ。地域学習の場になれば子から親へ命を守る行動を伝え、根付かすことができる」。松多教授は語る。

 大地震、津波など尊い命を失った被災地では、災害遺構への精神的苦痛を理由に否定的に捉える声が強い。東日本大震災でもすでに消えた遺構は多い。

 将来の子孫へ伝承しようとする真備町の住民の思いは切実だ。様々な災害はどう起き、被害を拡大させたのか。避難やその後の対応にどんな失敗があり、どう立ち向かったのか。命を守るための伝承を考えたい。(小林隆)


 集会「荒れる気候の時代に 命を守る水害対策を考える」の配布資料より、嘉田由紀子氏の講演スライドの一部。