2009年に中止された川辺川ダム計画が11月19日の蒲島郁夫熊本県知事の「容認」表明により、流水型ダムとして復活しようとしています。その背景や課題について、毎日新聞が連載記事で掘り下げています。
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川辺川ダム復活の流れは、川辺川ダムがあったら人吉盆地でピーク流量を約4割減らし、浸水面積を約6割減らすことができたとする国土交通省の報告によって決定づけられました。ダムに反対する側からは、この推計の信憑性に疑問が投げかけられていますが、連載記事(上)によれば、この報告は「同省OBの天下り先でもあるコンサルティング会社」によって作成されたということです。熊本地震に続く自然災害によって、熊本県が国土交通省の思惑通りに動かざるを得ない面があることも指摘されています。
また、連載(中)では、水没予定地を抱える五木村の苦悩を、(下)では新たに採用された「流水型ダム」の不確定さを取り上げています。益田川ダムの総貯水容量は675万㎥です。川辺川ダムの元の計画は総貯水容量13300万㎥、洪水調節容量8400万㎥、堆砂容量2700万㎥でしたから、治水目的だけでつくるとすれば、8400万㎥+2700万㎥=11100万㎥の容量になります。けた違いに大きい流水型ダムとなりますので、どのようなことになるのか、予想がつきません。
◆2020年11月21日
ー上 白紙撤回の知事、葛藤 たどり着いた流水型 流域治水、いばらの道なおー
熊本県南部が記録的な豪雨に襲われた7月4日、蒲島郁夫知事は早朝から県庁新館10階の防災センターに詰め、球磨川に設置された監視カメラから送られてくる映像を信じられない思いで見つめていた。モニターには、氾濫した球磨川の濁流にのみ込まれていく人吉市や球磨村などの様子が刻々とリアルタイムで映し出されていた。
一緒にいた幹部の一人は、蒲島知事のつらそうな表情を覚えている。「知事は川辺川ダムを白紙撤回した責任者であり、当事者だから」。豪雨により県内では65人が死亡し、2人が今も行方不明のままだ。「重大な責任を感じている」。11月19日の県議会全員協議会でダム建設容認を表明した蒲島知事はそう語った。
球磨川の治水対策として国が支流の川辺川に計画したダム建設を、知事が白紙撤回したのは2008年9月。翌年に旧民主党政権が中止を決めた後、国や県はダムによらない治水策を模索したが、実現しないまま、今回の豪雨で甚大な被害を受けた。ただ知事は、豪雨翌日の段階では「改めてダムによらない治水を極限まで検討する必要を確信した」と述べ、ダムなしでの治水をあきらめない姿勢を示していた。
ところが、ダム建設の復活を目指す国などの急速な動きに知事ものみ込まれていく。国土交通省は豪雨当日、同省OBの天下り先でもあるコンサルティング会社に、氾濫した球磨川の流量解析などの業務を依頼し、後日、約2000万円で契約。国はコンサルの分析などを基に、豪雨被害検証委員会の第1回会合(8月25日)で「川辺川ダムがあれば、人吉地区の球磨川のピーク流量を約4割減らせた」、第2回会合(10月6日)では「人吉地区の浸水面積を約6割減らせた」と、ダムの効果を強調する推計を次々と提示した。
呼応するようにダム建設を求める流域市町村長や自民党県議らの声が高まる中、知事の発言もダム容認に傾いていく。第1回検証委の翌日に開かれた記者会見では「新しい水害により私自身も熊本県政も変わらなければならない」と述べ、川辺川ダムを「選択肢の一つ」と明言。第2回検証委の当日には、国の推計を「科学的、客観的に検証してもらった」と手放しで評価し、ダムによらない治水策を「非現実的な印象を受けた」とまで言い切った。
「民意を確認する旅に出よう」。この頃、蒲島知事と県幹部はそう話し合っていた。政治学者で、08年4月の就任前は東京大教授だった知事は「世論調査の専門家」を自任する。10月半ばから約1カ月かけて30回にわたって住民らの意見を聴く「意見聴取会」が始まった。県幹部らにとって予想外だったのが、球磨川の氾濫で住まいを失うなどした被災者の間にも「ダム反対」の声が多かったことだ。
ダムによる環境破壊を懸念する流域の世論も踏まえ、知事がたどり着いたのが、利水用の水をためる貯水型のダムではなく、普段は川の水をそのまま流し、大雨時だけためる治水専用の「流水型ダム」だった。「命と環境の両立が流域住民に共通する心からの願い。流水型ダムを加えることが現在の民意に応える唯一の選択肢だと確信するに至った」。県議会で知事はそう説明した。
知事の決断の背景には、国交省との関係の変化も大きい。就任5カ月後に白紙撤回した当時、知事は「ダムによらない治水の努力を極限まで行っていない」と批判するなど、国交省への不信感をあらわにしていた。しかし、16年に起きた熊本地震からのインフラ復旧で国交省に頼らざるを得なくなったことで関係が変化。19日の記者会見では「国交省の技術力を深く信じている」と持ち上げた。
その知事は容認表明から一夜明けた20日、早速、赤羽一嘉国交相と面会し、流水型でのダム建設を要請。「スピード感をもって検討する」との言質を引き出し、川辺川に流水型のダムが建設されることが事実上決まった。
もっとも、知事が目指す「流域治水」はダムができれば完成ではない。農地を遊水地とすることへの農家からの反対なども予想され、課題は山積している。ある県幹部が言う。「これはゴールではなくてスタート。これからが本当のいばらの道だ」
◇
地域を二分した長年の反対運動の末、一度は計画の中止が決まった川辺川でのダム建設が復活に向けて再び動き始めた。背景や課題を追う。
◆2020年11月22日
ー中 五木村、苦悩振り出し 整備の観光施設、ダムの底に 住民対立、再燃恐れー
「今回の決断に際し、私は川辺川ダム問題に長年翻弄(ほんろう)され続けてきた五木村の皆様のことが頭から離れなかった」。熊本県の蒲島郁夫知事が川辺川でのダム建設を容認すると表明した19日、同県五木村の木下丈二村長は出張先の東京にいた。永田町近くの都道府県会館の一室でインターネット中継を見ながら、木下村長は、知事がダムで水没する五木村に言及するのを複雑な思いで聞いていた。
「正直言うと12年前の方がショックが大きかった。今回は元に戻ったという感じだ。でも住民からすれば、なぜ今さらという思いは当然あるやろうね」。2008年に蒲島知事が川辺川ダムの「白紙撤回」を表明したことを受け、旧民主党政権がダム中止を決めた09年当時、副村長を務めていた木下村長は言う。
1966年に五木村の中心部が水没するダム計画が発表されると、村では激しい反対運動が起きた。85~07年の村長で、現在は村議の西村久徳さん(84)は、ダム計画が村の人間関係を決壊させる姿を見てきた。賛成派と反対派に分かれ、仲良かった住民が「あいつの家族の結婚式には行かない」といがみあい、口を利かなくなった。それぞれが「俺たちの言う通りにやれば村は再生する」と主張し、村はバラバラになった。
川辺川ダムの建設計画に伴って高台に移転した住宅地(右)。流水型ダムでも左奥から流れる川辺川周辺は水没する可能性がある=熊本県五木村で、本社ヘリから津村豊和撮影
国が補償条件を示すようになると、心が揺れる村民も増えた。「あの人はもう受け入れたらしい」などのうわさが飛び交った。「裏切り者」と後ろ指を指されるのを恐れ、夜逃げ同然で村を離れる人たちもいた。「村長として、本当につらかった」。西村さんは96年、村長としてダム本体工事に同意する。その後、村は山村復興を意味する造語の「ルネッサンソン計画」と称し、ダム湖ができるのを前提にした観光振興などの村づくりを構想した。
ところが、知事による白紙撤回で構想は振り出しに戻った。水没も免れたが、既に予定地の住民はほぼ全員が移転を終えていた。村内の高台に整備された新しい住宅地だけでなく、村外に引っ越した住民も多く、ダム計画が明らかになる66年の前年に5000人近かった人口は、知事が白紙撤回を表明した08年には3分の1以下の約1400人にまで減っていた。
「ダムを造らないなら残りたかった」。村で民宿と食堂を営む田中加代子さん(60)は小中学校時代の同級生からそんな恨み節を何度となく聞いた。ダム計画が持ち上がったのは田中さんが小学生になる少し前。同級生約50人のうち約30人が「よそに行くけん」と村を去った。「残っていれば村の担い手になっていただろう」と思うが、いまも村に残る同級生は自身を含め7人しかいない。そして、今回のダム容認表明。田中さんは「再び対立が生まれ、村はまた混乱する」と心配する。
県はダム計画を白紙撤回した後、「五木村が国や県の政策に翻弄された」として、独自に村への財政措置を始めた。09年以降、10億円の基金を設置し、11年にも50億円の追加支援を決定。本来は国の予算が充てられる国道整備などハード事業にも使われた。村は水没予定だった川沿いの土地を国から借り、運動公園や宿泊施設などを整備。08年に約13万人だった観光客が19年には約17万人に増えるなど、「日本一の清流」を生かした新たな村づくりが軌道に乗り始めたところだった。
しかし、12年の時を経て再びダムができることになり、水没予定地の活用をはじめとした村の将来像はまたも不透明になった。蒲島知事は20日、白紙撤回した貯水型ダムではなく、大雨時だけ水がたまる流水型ダムでの建設を国に要請した。実現すれば普段は水没しないが、大雨の時は水につかるため、せっかく整備した宿泊施設の移転などは免れない。一方で、かつて描いたような、ダム湖を生かした観光も不可能だ。
知事は23日、五木村を訪問し、木下村長に基金の積み増しを提示する考えだ。だがこの間、人口はさらに減り10月末現在で1034人になった。分断の歴史の中で衰退した地域の再生は容易ではない。木下村長は言う。「現状に合わせて新しい絵を描くしかない」
◆2020年11月23日
ー下 流水型、なお残る懸念 豪雨被害で建設、島根の先例 「下流域 たまる土砂」ー
11月初旬、島根県益田市にある益田川支流の河畔は、グラウンドゴルフを楽しむ人たちでにぎわっていた。この場所は、約1キロ下流の益田川本流にダム本体がある「益田川ダム」の貯水池(ダム湖)の底に当たる。木々で色づく山へと続く対岸の斜面や、川に架かる橋の橋脚に「満水位」と書かれた青色の印が見えた。ただし、流水型で建設された同ダムが満水になったのは2005年の試験時だけ。翌年のダム完成後、グラウンドゴルフ場が水につかったことは一度もない。
普段はダム本体底部の水路を通って川の水がそのまま流れ、大雨時だけ水路からあふれた水が自然にたまる治水専用の流水型ダムは、常時水をためる貯水型ダムに比べ環境への影響が小さいとされる。川辺川でのダム建設を容認した熊本県の蒲島郁夫知事が国に要請したのも流水型だ。反対運動の末に、豪雨被害を受けて流水型ダムで決着した経緯も益田川ダムと重なる。
県営の益田川ダムは1972年7月に発生した豪雨をきっかけに計画された。地元の美都町(みとちょう)(現益田市)で激しい反対運動が起きたが、83年に益田川の氾濫などで県内の死者・行方不明者が107人に上る甚大な豪雨被害に再び見舞われたことで風向きが変わった。自宅が被災しながら消防団員として救助活動に携わり、後に美都町長を務めた寺戸和憲さん(72)は「畳に挟まれた遺体も見つけた。反対ばかり言うわけにはいかんと思うようになった」と振り返る。
住民らは89年にダム建設の補償交渉で合意した。20戸以上が移転を強いられたが、河畔にはグラウンドゴルフ場のほか、サッカー場や屋根付きスポーツ施設も整備された。一帯に植えられた桜並木には毎年大勢の花見客が訪れ、近年は市街地からの移住者もいる。寺戸さんは「流水型だからこそ、安全と地域のにぎわいにつながった。結果的には良かった」と考えている。
農林水産省によると、流水型ダムは50年代ごろに農地防災ダムとして各地で造られたが、あくまでも農地を守るためのごく小規模なもので、下流域の被害軽減を目的とした国土交通省所管の流水型ダムは益田川ダムが最初のケースだ。その後、最上小国川ダム(山形県最上町)▽浅川ダム(長野市)▽辰巳ダム(金沢市)▽西之谷ダム(鹿児島市)――の4ダムが完成し、現在も熊本県南阿蘇村の立野ダムなど複数が建設中だ。
これら先行する流水型ダムは川辺川に建設されるダムのモデルケースになるのか。益田川ダムを視察したことのある球磨川流域のある首長は「規模が違いすぎて参考にならなかった」と語る。完成済みの5ダムのうち、最大の益田川ダムでも本体の高さ48メートル、総貯水量675万トン。一方、貯水型の現行の川辺川ダム計画は本体の高さが107・5メートル、利水分を除いた洪水調節用の貯水量は8400万トン。発電や農業用水などに使われる利水用の水をためる必要がない流水型になれば、本体の高さをもう少し低く抑えられる可能性があるとはいえ、けた違いだ。
環境への影響の懸念も払拭(ふっしょく)されていない。流水型は魚類の移動を妨げないとされる。ただ、島根県が06年度、益田川ダムの上下流でアユが川の藻類を食べた跡の数を調べたところ、下流側より上流側が少なかった。県は「(ダムの)水路部が(遡上(そじょう)の)阻害要因の一つと考えられる」としている。また、ダムの下流域では、毎日新聞の取材に「ダムができてから下流に一定以上の水が流れなくなり、川に土砂がたまりやすくなった」と証言する住民もいた。
蒲島知事が08年に川辺川ダム計画を「白紙撤回」する直前、国交省は流水型での建設を提案していたが、知事は「環境への影響や技術的な課題について詳細な説明がない」と受け入れなかった。その状況がこの12年で大きく変わったわけではない。水没予定地の五木村の前村長で川辺川ダム問題に長年関わってきた和田拓也さん(73)は「あまりにも不確定要素が多すぎる」と懸念する。(この連載は平川昌範、城島勇人、吉川雄策が担当しました)