八ッ場あしたの会は八ッ場ダムが抱える問題を伝えるNGOです

徳山ダム、本来の建設目的は「都市用水の供給」だった

 全国一の規模を誇る徳山ダムについて、地元の岐阜新聞が「役割と歴史を改めて振り返る」記事を掲載しています。徳山ダムの総貯水容量は6億6000万㎥と、八ッ場ダムの6倍以上の大きさです。
 この記事では徳山ダムの「役割と歴史」における重要なポイントが欠落しています。
 徳山ダムは水資源開発公団が建設し、公団から名称変更した独・水資源機構が管理しています。徳山ダムの本来の建設目的は、事業者名からもわかるように「水資源開発」ー「都市用水の供給」ですが、2008年の完成後、徳山ダムの水は都市用水には一滴も使われていません。全国のあまりの状況は名古屋圏でも同様で、新たに導水路を建設しなければ使えない徳山ダムの水は不要性が年々明らかになっています。

 徳山ダムの水は愛知県と名古屋市の水道用水に使われることになっていましたが、揖斐川上流に建設された徳山ダムの水を木曽川に取水口がある愛知県や名古屋市の水道が利用するためには、揖斐川から長良川を越えて木曽川に導水する木曽川水系連絡導水路を新たに建設しなければなりません。木曽川水系連絡導水路計画は現在「凍結」されていますが、(独)水資源機構は木曽川水系連絡導水路建設事務所を維持しています。

上図=★徳山ダム導水路見学ツァー 資料(2018.10.6)より
 http://www.tokuyamadam-chushi.net/sonota13/20181006shiryou.pdf

 「徳山ダムの建設中止を求める会」による上記の資料には、導水路計画のほか、岐阜県が徳山ダムの建設負担金のしわ寄せで、ダム以外の治水対策費を削減させてきた問題なども詳しく解説されています。

 以下の岐阜新聞の記事について、「徳山ダム建設中止を求める会事務局長ブログ」に詳しい解説が掲載されています。
 https://tokuyamad.exblog.jp/
ー徳山ダムは「治水&発電のためのダム」ではない(2021年7月21日)ー

◆2021年7月19日 岐阜新聞
https://www.gifu-np.co.jp/news/20210719/20210719-88534.html
ー貯水量は浜名湖2つ分、日本一誇る徳山ダム 治水と発電担うー

 揖斐川の上流、岐阜県揖斐郡揖斐川町にある徳山ダムは、総貯水量が6億6千万立方メートルと日本一を誇る。静かに水をたたえる湖面の下には人々の暮らす村があった。今年は一帯に水が入った試験たん水の開始から15年、運用まで紆余(うよ)曲折があったこのダムが果たしている役割と歴史を改めて振り返る。

 徳山ダムの構想は1957年、揖斐川上流域が電源開発促進法に基づく調査区域として指定されたことを機に、電源開発株式会社が発電用ダムとして実地調査を始めたことで持ち上がる。その後、計画は当時の建設省に多目的ダムとして引き継がれ2000年に本体工事に着手、08年に完了して運用が始まり、独立行政法人の水資源機構が管理している。

 途方もない貯水量は、浜名湖(静岡県)の二つ分で、機能は主に河川流量の管理と発電。豪雨時には洪水の調節として100年に1度の事態も想定し、下流の横山ダム(同町)と共同で流量を抑え、河川の流量が基準を下回っている際にはためている水を放出し、川の流量が減ることを防ぐ役割も果たす。

 発電は、中部電力が設置する徳山水力発電所が担当して、ダムから揖斐川に流す維持流量を活用して実施。水の落差で水車を回して発電し、最大で一般家庭約8万3千世帯分に相当する16万1千キロワットの発電能力を持っている。

 地域住民に恩恵をもたらすダムは、集落の消滅という代償を伴って出来上がった。ダムの建設予定地には八つの地区からなる徳山村があったが、建設に伴って廃村が決まり、構想が浮上して30年後の1987年には藤橋村に廃置分合された。466世帯、約1500人いた住民は揖斐川町や本巣市、本巣郡北方町などに移転。藤橋村も2005年には郡内の他村と共に揖斐川町と合併、その名が消えた。

◆旧村民の暮らし 足跡今も残る

 住民たちが暮らした足跡は、同町東横山の道の駅「星のふる里ふじはし」内の徳山民俗資料収蔵庫に残されている。施設内には村内にあった小学校の看板や当時の住民の写真のほか、「徳山の山村生産用具」として国重要有形民俗文化財に指定された5890点を収蔵、一部が展示されている。

 施設の担当者によると、山村用具の収蔵品数としては国内最多クラス。徳山村を記録するものを残そうと、各集落から選ばれた委員による文化財保存対策協議会が収集した。従事者が多かった林業で使われていたのこぎりや木材を運び出すためのそりといった品々が用途ごとに並べられ、当時の生活を伝えている。

 徳山村の様子を知ることができるもう一つの施設に、ダムの湖畔に立つ徳山会館がある。村民の要望によって建設された施設の一角には展示コーナーが設けられ、村の姿を撮り続けた故増山たづ子さんによる写真や、試験たん水によって集落がなくなっていく過程の写真といった展示を、村出身の中村治彦館長による解説を交えて見ることができる。中学生まで村で過ごした中村さんは試験たん水の初日は現地に赴き、その後は館長として沈む村を見つめてきた。「村が沈む姿に胸が詰まる思いだった。にぎやかだった村とは頭の中で結び付かなかった」と振り返る。

 施設の外に出ると、徳山湖が眼前に広がる。ここに至る経緯に思いをはせながら眺めれば、雄大な景色に深い感慨が得られるかもしれない。