(2008/12/13、於:エコとしま)
【学習会後半の座談会】つづき
大和田: 先ほどのパワーポイントで見られなかったところで見ていただきたいところがあります。
これは長野原の積立金の大きさの異常さを示すものです。簡単にいえば、自分の町の財政規模と同じくらいの貯金を持っているんです。普通自治体ですと、こういうことは考えられない。一年間の財政規模と同じくらいの積立金を持っているんです。前田: これまでのお話ではひたすら暗くなる、日常ではインスタントラーメンばっかり食ってるのにものすごい財産があって隣の家からたかられると。こういう悲しい長野原じゃなくて明るく終わりたいと思います。どうすれば長野原がこれから生きていけるのか、下流の我々が支援できるのかというあたり、ご両名からご提案いただきたい。
牧山: 今日来る前に町長に「企画財政課の職員を一人派遣してくんねぇか」と言ったら、「それはできねぇ」と言われたんですが、大和田先生が言われるとおり基金がある、これをどう使って町を再生させるかが町と議会に任された仕事だと思うんです。
長野原町の人口は減っているんです。水没地区(川原湯、川原畑、横壁、林、長野原)の中で川原湯と川原畑はかなり極端に減っているんです。水没地区全体で1,300人くらい減っています。長野原町全体で見ますと、他の地区が微増もしくは横ばいで、大体500人くらい増えている状況です。
増えている地域が北軽井沢、応桑、大津、羽根尾、与喜屋という地区です。大津の場合は草津に勤めている方が結構いるんです。北軽井沢の場合は最寄り駅が軽井沢駅になりますので、軽井沢町、御代田町、佐久などとの関係が多い人が住んでいます。
私の住んでいる応桑は水没地区と北軽井沢の間ですが、ここが増えるのは、若い人がよそに行かないで地元に残って勤め先を見つけて定住していることと、町が住宅団地をつくって分譲しているためです。たまたまバブルがはじける前にやったもんで、単価が高くてまだ半分くらい残っている。これを少しずつ下げながら売ってはどうかと思っています。
長野原町には小学校が4校、中学校が2校、幼稚園が2園、保育所とあるんですけれども、応桑小と第一小、北軽小は規模が非常に小さく、生徒がせいぜい100人くらい。(水没地区の児童が通う)第一小はもっと少ないんです。
当面4校維持してやっていくというのが町の方針で、その意味では応桑小は団地ができたこともありまして、一クラス8~10人ですけれども、複式にはならないでやっていられるんです。将来的に、応桑、北軽井沢の伸びてきている人口をもっと増やしていくことが一番の課題になると思うんです。
水没地区で1,300人も人口が減ったことを考えると、この地区が回復するのは順調にいってもかなり先のことです。ダムができることで地価があがって、周辺の地価も上がっている。代替地はできてから10年間水没地区の人以外買えないことになっているんです。仮に買えるようになったとしても金額がかなり高いですから、おそらくすぐに金額を下げることもできないんで、すぐにはよそから来た人が入って住める状況にはならないと思うんです。
そうすると、一つの町としてどこをどう活性化させていくかが鍵になると思うんです。やっぱり人口がある程度あって、若い人がいて勢いのあるところを少してこ入れして伸ばしていくことが町の将来の展望だと思うんです。水没地区の人たちと北軽井沢の人たちの接点はそんなに多くはないんです。これはまちづくりを考えるときには非常に具合の悪いことだと考えていまして、川原湯温泉の若い人たち、ダンナとも機会を持って、広い範囲でまちづくりをどうできるか話したいなって思います。
北軽井沢・応桑地区は関東でも有数の農業生産地帯で、酪農と野菜で農産物生産額で30億円を超えるぐらいの生産があります。後継者もいて力はある地帯なんで、これを進めることと、北軽井沢の観光は今は悪いですけれどもみんなでいい方法を考えてアイデアが出れば、まだまだ持ちこたえられるという感じはしています。
大和田: そうですね、やっぱり長野原は他の統計を見ると牧山さんが言われたように、農業の可能性がうんと高い町ですね。極論を言えば、ダムがなくてもやっていける。私は綾町を分析して本をつくろうとしているんですけれども、綾のすごいのは、全く農業にふさわしくないような、30年前は100%外から食料をとっていた町が、今では自給100%、そういうことが日本の厳しい山間地でもできる。
そういうのから比べれば長野原の農業の実績や可能性は、大都市の人で長野原の農業の価値を高めるようなことをやって、ダムがなくても自力でいけるんだということを示すのも一つの方法じゃないかなって。それから積立金のこと、これは黙っていれば目減りするんです。財政を管理する立場からすると、おそらく間違いなく何年後かには、貯金はただ出るに任せるようになっちゃう可能性はあるんです。そうならない前にそのお金をプラスに転ずるように、ということも財政から考えられることです。
<質疑応答>
A: 綾町はなぜうまくいったんですか? 町長のリーダーシップだったんですか? そうであればどういうリーダーシップか、そうでなければどういう戦略があったのか。
大和田: 人口規模と財政規模は、本来ある長野原とほぼ同じくらいです。30年前までは「夜逃げの町」と言われ、若者は逃げ、外部融資型の開発の町だった。90%以上が山地で、野菜は外から100%とるという町だったんです。
こういう町がたまたま一つのきっかけ、照葉樹林を人工林に切り替えるという林野庁の方針があって、時の町長さんが反対した。綾のもっとも誇れるものは照葉樹林なんだ、現に照葉樹林があるから日本一といわれる鮎が採れ、酒造会社があり、日本一といわれる地下水がある。地下水を求めて熊本や鹿児島、いろんなところから人が来ていた。そうしたことから綾の将来を考えたわけです。
野菜を100%外からとっていることを見直して有機農業を町ぐるみでやる。種を配布して地域ごとにコンクールでどこがもっとも有機的なつくり方をしたかを競おう、と。一番大事なのは地域の民主主義があることです。
地域の決定機関を自治公民館にしたということがあるんです。それがあとあとまで住民の学習の拠点になったわけです。綾町は学習によってシンボリックな町のあり方をどんどん高めていったんです。
最初は照葉樹林の町、それだけでは食べていかれないから有機農業の町にした。その次には手作りの里づくりといって、染物とか木工とかをやる人たちが生きられる町にした。今では有名な工芸家40人もいます。そういうようにして地域の資源を生かして自立できるものをつくりだしていくんです。結果として観光、となった。みんな食材を求めて、リピーターとして来るんです。今では九州の観光というと、湯布院か綾になるんです。こういう例はいっぱいあるんです。