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学習会「ダム予定地の現状と長野原町の将来」(6)

現状レポート

現地の状況

(更新日:2009年3月29日)

学習会「ダム予定地の現状と長野原町の将来」(6)

(2008/12/13、於:エコとしま)

【学習会後半の座談会】つづき

大和田: 先ほどのパワーポイントで見られなかったところで見ていただきたいところがあります。

[スライド 15] 積立金現在高・財政調整基金の推移

[スライド 15]
積立金現在高・財政調整基金の推移

 これは長野原の積立金の大きさの異常さを示すものです。簡単にいえば、自分の町の財政規模と同じくらいの貯金を持っているんです。普通自治体ですと、こういうことは考えられない。一年間の財政規模と同じくらいの積立金を持っているんです。
 これはおそらく、日本とスウェーデンの違いみたいなものだと思う。スウェーデンは貯金をしない国です。制度がきちんとしていて、貯金しなくても生きていける。要するに日本は頼るものは金しかないんですよ、心理的、財政的にはそうなっていると思う。いくら貯めても安心できない老後・・・日本の社会保障と同じでね。だから進捗状況が進めば進むほど、貯金を増やしていくという。自分の財政規模くらい貯金を持っているのは、全国の自治体でも稀なくらい少ないです。


[スライド 16] 実質債務残高比率 実質将来財政負担比率

[スライド 16]
実質債務残高比率 実質将来財政負担比率

 このグラフも財政が少しわかる人にとっては異常な姿です。実質債務残高比率といって、自分たちの債務を次の世代にツケを残さないのはどの程度なのかが上のグラフです。大体望ましいのは100%ぐらいと言われている。だから債務だけの問題からすると、そんなに悪くない。ところが実質将来財政負担額比率、債務から貯金を引いて計算しなおすと、マイナスになるんです。
 普通だったら、上の青い線に平行していくのが当たり前の自治体。だけど貯金がやたらに多いために実質将来財政負担額比率はこういうふうにして表れてくる。これは異常な差です。すさまじく大金持ちで豊かなのか、いわばそれは虚構の姿で、実はお金を貯め込んでいないと安心できない姿と私には見えてしまうんです。
 こんなに貯め込んでどうするのか、福祉も進めないでこれだけ貯金がある、要するに自治体職員からすると、将来の町民の姿を見届けようと思うとこういう心理になると思います。「頼るものはないから貯金しかない」と。もう何年もすれば、貯金を食い尽くしていくことが明らかに予想されるわけです。だから大きな仕事のツケは全部町村が持つわけです、今までも。そういうことに対してしっかり小金を積んでおかなくちゃだめだと、いろいろやりくりして貯めたんだという気がします。


[スライド 論点6] 2005(H17)年度積立金・債務について

[スライド 論点6]
2005(H17)年度積立金・債務について

 債務は100%くらいが望ましくて、それ以上になると将来にツケを残すと言われている。標準財政規模、要するに経常一般財源つまり自由に使えるお金に対して何%かというと、債務だけでいくと長野原や草津はほぼ同じくらい。
 ところがこれに貯金という問題が入ってくると、長野原と草津の数字が全く変わってくるんです。だから他と何か共同でやる場合は、「お金を持っているから出しなさいよ」と、計画的でない財政運営をやられちゃうと思うんです、隙をつかれる。本当はお金がないのにお金を見ちゃっている、一部事務組合だから共同でやるわけですから。そうすると自分の苦しさ、これは架空の貯金で六合村よりももっと苦しいってことが言えない。そういうようなことがなんとなく見えてくるという感じですね。
 草津だって群馬県ではものすごい豊かなところなんです。草津は絶対置いておかないんです。財政調整基金という一番貯めにくい貯金がこんなに多いんです。おそらく全国のこのレベルの自治体で積立金の現在高や財政調整基金を調べるとトップくらいだと思いますよ。お金持ちで貯金を悠然としているんだったらいいけど、長野原は後から出ていくことを予想して貯金していますから、心理的には決して健全な貯金じゃないんです。だから一部事務組合でやるときにお金を出して、あとからどんどんツケがまわってくるんです。
 その辺のいきさつをいろんな人に聞いたりすればもう少しわかるんじゃないかと思うんですけれども。ただこの貯金の活用の仕方はあるだろうと思う。この貯金を自分たちの町の自立のために使うという議論になれば、また話は違うんじゃないかなと思います。


前田: これまでのお話ではひたすら暗くなる、日常ではインスタントラーメンばっかり食ってるのにものすごい財産があって隣の家からたかられると。こういう悲しい長野原じゃなくて明るく終わりたいと思います。どうすれば長野原がこれから生きていけるのか、下流の我々が支援できるのかというあたり、ご両名からご提案いただきたい。

牧山: 今日来る前に町長に「企画財政課の職員を一人派遣してくんねぇか」と言ったら、「それはできねぇ」と言われたんですが、大和田先生が言われるとおり基金がある、これをどう使って町を再生させるかが町と議会に任された仕事だと思うんです。
 長野原町の人口は減っているんです。水没地区(川原湯、川原畑、横壁、林、長野原)の中で川原湯と川原畑はかなり極端に減っているんです。水没地区全体で1,300人くらい減っています。長野原町全体で見ますと、他の地区が微増もしくは横ばいで、大体500人くらい増えている状況です。
 増えている地域が北軽井沢、応桑、大津、羽根尾、与喜屋という地区です。大津の場合は草津に勤めている方が結構いるんです。北軽井沢の場合は最寄り駅が軽井沢駅になりますので、軽井沢町、御代田町、佐久などとの関係が多い人が住んでいます。
 私の住んでいる応桑は水没地区と北軽井沢の間ですが、ここが増えるのは、若い人がよそに行かないで地元に残って勤め先を見つけて定住していることと、町が住宅団地をつくって分譲しているためです。たまたまバブルがはじける前にやったもんで、単価が高くてまだ半分くらい残っている。これを少しずつ下げながら売ってはどうかと思っています。
 長野原町には小学校が4校、中学校が2校、幼稚園が2園、保育所とあるんですけれども、応桑小と第一小、北軽小は規模が非常に小さく、生徒がせいぜい100人くらい。(水没地区の児童が通う)第一小はもっと少ないんです。
 当面4校維持してやっていくというのが町の方針で、その意味では応桑小は団地ができたこともありまして、一クラス8~10人ですけれども、複式にはならないでやっていられるんです。将来的に、応桑、北軽井沢の伸びてきている人口をもっと増やしていくことが一番の課題になると思うんです。
 水没地区で1,300人も人口が減ったことを考えると、この地区が回復するのは順調にいってもかなり先のことです。ダムができることで地価があがって、周辺の地価も上がっている。代替地はできてから10年間水没地区の人以外買えないことになっているんです。仮に買えるようになったとしても金額がかなり高いですから、おそらくすぐに金額を下げることもできないんで、すぐにはよそから来た人が入って住める状況にはならないと思うんです。
 そうすると、一つの町としてどこをどう活性化させていくかが鍵になると思うんです。やっぱり人口がある程度あって、若い人がいて勢いのあるところを少してこ入れして伸ばしていくことが町の将来の展望だと思うんです。水没地区の人たちと北軽井沢の人たちの接点はそんなに多くはないんです。これはまちづくりを考えるときには非常に具合の悪いことだと考えていまして、川原湯温泉の若い人たち、ダンナとも機会を持って、広い範囲でまちづくりをどうできるか話したいなって思います。
 北軽井沢・応桑地区は関東でも有数の農業生産地帯で、酪農と野菜で農産物生産額で30億円を超えるぐらいの生産があります。後継者もいて力はある地帯なんで、これを進めることと、北軽井沢の観光は今は悪いですけれどもみんなでいい方法を考えてアイデアが出れば、まだまだ持ちこたえられるという感じはしています。

大和田: そうですね、やっぱり長野原は他の統計を見ると牧山さんが言われたように、農業の可能性がうんと高い町ですね。極論を言えば、ダムがなくてもやっていける。私は綾町を分析して本をつくろうとしているんですけれども、綾のすごいのは、全く農業にふさわしくないような、30年前は100%外から食料をとっていた町が、今では自給100%、そういうことが日本の厳しい山間地でもできる。
 そういうのから比べれば長野原の農業の実績や可能性は、大都市の人で長野原の農業の価値を高めるようなことをやって、ダムがなくても自力でいけるんだということを示すのも一つの方法じゃないかなって。それから積立金のこと、これは黙っていれば目減りするんです。財政を管理する立場からすると、おそらく間違いなく何年後かには、貯金はただ出るに任せるようになっちゃう可能性はあるんです。そうならない前にそのお金をプラスに転ずるように、ということも財政から考えられることです。

<質疑応答>

A: 綾町はなぜうまくいったんですか? 町長のリーダーシップだったんですか? そうであればどういうリーダーシップか、そうでなければどういう戦略があったのか。

大和田: 人口規模と財政規模は、本来ある長野原とほぼ同じくらいです。30年前までは「夜逃げの町」と言われ、若者は逃げ、外部融資型の開発の町だった。90%以上が山地で、野菜は外から100%とるという町だったんです。
 こういう町がたまたま一つのきっかけ、照葉樹林を人工林に切り替えるという林野庁の方針があって、時の町長さんが反対した。綾のもっとも誇れるものは照葉樹林なんだ、現に照葉樹林があるから日本一といわれる鮎が採れ、酒造会社があり、日本一といわれる地下水がある。地下水を求めて熊本や鹿児島、いろんなところから人が来ていた。そうしたことから綾の将来を考えたわけです。
 野菜を100%外からとっていることを見直して有機農業を町ぐるみでやる。種を配布して地域ごとにコンクールでどこがもっとも有機的なつくり方をしたかを競おう、と。一番大事なのは地域の民主主義があることです。
 地域の決定機関を自治公民館にしたということがあるんです。それがあとあとまで住民の学習の拠点になったわけです。綾町は学習によってシンボリックな町のあり方をどんどん高めていったんです。
 最初は照葉樹林の町、それだけでは食べていかれないから有機農業の町にした。その次には手作りの里づくりといって、染物とか木工とかをやる人たちが生きられる町にした。今では有名な工芸家40人もいます。そういうようにして地域の資源を生かして自立できるものをつくりだしていくんです。結果として観光、となった。みんな食材を求めて、リピーターとして来るんです。今では九州の観光というと、湯布院か綾になるんです。こういう例はいっぱいあるんです。

※学習会のテープ起こしにあたって、録音データを快く貸してくださったS.K.さんに心より感謝します。
テープ起こし 森 明香(八ッ場あしたの会運営委員・一橋大学院生)
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