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国交省九州地方整備局が進める城原川ダム事業

 八ッ場ダム事業と同様、最初の構想は1950年代という佐賀県の城原川ダム事業。受益者であるはずの下流域の水道企業団に「ダムは不要」と決議されたにも関わらず推進されています。ダム事業による対立によって住民が分断され、地域が疲弊してきていることは、最初は反対していた地元が行政との交渉のテーブルに着き、水没住民がダムの早期着工を求める看板を設置したことに示されています。
 しかし、ダム事業の経緯を伝える以下の記事にもあるように、事業が開始されてから半世紀近くたつ今も城原川ダム事業は「調査段階」で、建設着手の時期は未定です。

◆2017年6月4日 佐賀新聞
http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10101/435018?area=similar
ー城原川ダムの半世紀 脱ダム、政権交代…曲折
 =連載・浮沈の果てに-城原川ダムの半世紀=国策と地方第18章ー

(写真)城原川ダム建設で水没予定地となる神埼市脊振町岩屋、政所地区=2016年10月、ドローンで撮影
(写真)水没予定地の住民たちがダムの早期着工を求め設置した看板=2008年1月、神埼市脊振町の「岩屋政所集会所」近く

 神埼市脊振町に建設が計画されている「城原(じょうばる)川ダム」は、調査開始から46年余りの間、事業への賛否が割れて棚上げと存続を繰り返してきた。地元反対、国の大型公共事業への逆風、脱ダム、政権交代…。紆余(うよ)曲折をたどった半世紀の歩みを振り返る。

■賛否割れ、棚上げ繰り返す

 脊振村(当時)は1950年代、「脊振ダム」建設が持ち上がった。県の計画の一環で、役場や学校、農協などが集まる村の中心部の広滝地区が候補地として浮上した。「村の心臓部が湖底に沈み、ばらばらに分断される」として住民の反対運動が数年にわたって続き、計画は頓挫した。

 その後、国が71年に城原川ダムの予備調査を始めた。水没地が予定される岩屋、政所の両地区で住民組織が結成されたが、受け入れの可否を巡ってダム対策委員会や建設反対等同盟などに分裂し、対立も深まった。計画も地域の反発によって調査段階から進まなかった。

 国は97年、城原川ダムについて建設を進めない「足踏み」事業に位置付けて棚上げになったが、4カ月後に継続が決まった。翌98年には、分かれていた住民組織が一緒に協議するなど歩み寄りの姿勢に転じた。2000年、公共事業の抜本的見直しの対象に城原川ダムが含まれ、中止・縮小の候補になった。再び存続の可否が問われたが、すぐに対象から外れた。

 長野県の「脱ダム宣言」が注目されて城原川ダムも必要性への疑問が強まる中、佐賀市や神埼郡など13市町(当時)でつくる佐賀東部水道企業団は01年に「ダムは不要」と決議した。利水の効果と重い財政負担とが見合わず、受益自治体側からノーを突き付けた。建設反対の動きも強まり、井本勇知事(当時)は同年11月、利水計画を断念することを明らかにして計画の再検討が迫られた。

 翌02年に事業目的を治水と不特定用水確保に変更して国に検討を要請していたが、03年4月に知事に就任した古川康氏は再考するために国に事業の一時凍結を求めた。有識者らでつくる城原川流域委員会や流域自治体の首長会議を設置して協議を重ね、古川知事は05年6月、洪水時だけ水をためる治水専用の「流水型ダム」での建設を国に申し入れることを表明した。

 知事の決断を受け、ダム水没予定地区の3団体が同年8月に国と現地調査の協定を締結した。これまで拒んできた反対派の団体も加わって初めて交わした。国も流水型ダムは可能と結論付け、06年に城原川ダム整備を含む筑後川水系の河川整備計画を決定した。

 政権交代で09年に民主党政権が発足後、八ツ場(やんば)ダムの建設中止の表明など「コンクリートから人へ」の政策を打ち出し、城原川ダムも中止か継続かを判断する検証対象に加わって仕切り直しとなった。ところが、政権運営の混迷によって検証作業が棚上げされ、自公政権に移行してから約2年後の14年10月に再開した。

 山口祥義知事が15年1月に就任後、国と流域自治体が協議する「検討の場」が同年5月から始まった。翌16年5月、県と流域自治体の神埼、佐賀の両市が流水型ダムでの事業継続が妥当とする国の案を了承した。

 国は同年7月、継続を決定して調査が再開することになった。水没予定地区の住民団体と国は17年1月に改めて調査に関する協定を結んだ。同年5月、神埼と佐賀の2市は建設促進期成会を設立し、早期実現に向けて国への要望を強化することを決めた。

■規模縮小治水専用に 当初は都市用水確保も

 城原川ダムは、当初は城原川の洪水調節(治水)と周辺地域の都市用水の確保(利水)を事業目的とする多目的ダムだった。計画ではえん堤(堤防)の高さ100メートル、頂上部の長さ540メートルで、総貯水量約1590万トン。建設には1020億円が見込まれていた。

 計画の変更後、現在は洪水調節だけが目的の治水専用の流水型ダムとなっている。えん堤の高さ60メートル、頂上部の長さ330メートルで、総貯水量355万トン。総事業費も485億円となり、規模が縮小した。

 流水型ダムは「穴あきダム」とも呼ばれ、通常は水をためず、えん堤の底付近に設けた放流口から自然放流する。洪水時に一時的に水を貯留し、下流域の洪水被害を軽減する。水環境や土砂循環、魚類の移動などについてダムの上下流で自然に近い状況を維持し、小さなえん堤や建設コストの縮減も可能という。

 ダム事業は現在は調査段階で、2016年度末時点の進捗(しんちょく)率は事業費ベースで約10%。17年度以降の残事業費は約439億円。建設事業に着手してから完了まで13年程度を見込んでいるが、着手時期は未定になっている。

 建設予定地には脊振町の城原川ダム対策委員会(31世帯)と対策同盟(21世帯)、神埼町の仁比山地区委員会(29世帯)の住民組織がある。