「福中戦争に幕」(朝日新聞)

2006年3月8日

 3月7日、自民党群馬県議団は総会を開き、派閥解消を決議しました。
 八ッ場ダムの予定地、旧群馬三区は、福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三の三人の首相を生み出した、全国でも稀な選挙区でした。八ッ場ダムの歴史は、これら大物政治家の派閥争いと重なります。
 1948年の昭電疑獄事件をきっかけに、大蔵省主計局長だった福田赳夫は政界に転身。初出馬は奇しくも八ッ場ダム計画が発表された1952年でした。トップ当選を果たした福田は「ダム推進」を標榜。
 佐藤政権末期の角福戦争の時代、田中派の小渕恵三はダム反対陳情を求める地元民らを目白の田中邸に案内。田中角栄幹事長はライバルの福田蔵相がダム利権を手にすることを嫌い、影響力のある建設省に圧力をかけ、ダム推進にブレーキをかけたと言われます。
 一方、総選挙のたびに福田とデッドヒートを繰り広げた中曽根は、水没予定地では「ダム慎重派」をアピール。中曽根を頼りにした反対期成同盟の住民らは自民党に集団入党。しかし1982~87年、首相の座に着いた中曽根政権の下で、ダム建設のための布石が次々と打たれていきます。
 政治家らに足蹴にされ続けた水没予定地では、生活再建のメドが立たないまま、計画発表から54年目の春を迎えようとしています。

 朝日新聞3月8日朝刊より転載

「福中戦争ついに幕 自民分裂30年」
 「上州戦争」と呼ばれた衆院旧群馬三区の故福田赳夫、中曽根康弘の両元首相による激しい選挙戦に端を発し、2派閥に分かれていた自民党県議団が約30年ぶりに一本化される。7日、福田元首相系の「政策同志会」(30人)と中曽根元首相系の「県政塾」(13人)は勢ぞろいし、派閥解消を確認した。選挙の主導権を党が握るようになり、首相を目指す実力者が地元の支持の厚さを競った時代は終わった。(熊井洋美)

○県議団2派統一 前回参院選で民主へ危機感

「長らく二派があり、歴史の中で功罪があった。発展的に解消させたい」。前橋市の党県連ビルで7日、県連幹事長の大沢正明県議(60)が切り出すと、県議らから拍手がわき、「統一」は決まった。
 高崎市が中心の旧群馬3区(定数4)は、故小渕恵三氏を加えた元首相3人と旧社会党議員らが議席を分け、「福中」は選挙のたびに火花を散らしてトップを争った。初対決は半世紀以上前の1952(昭和27)年。自民党の歴史を超える。
 会合で大沢幹事長は続けた。「2派は互いに切磋琢磨し、党の勢力拡大にも大いに貢献した」
 両派の競り合いは県議、市町村長を巻き込んで続いてきた。96年に小選挙区制へ移行した後も参院群馬選挙区でそれぞれ候補者を擁立、「福田系」「中曽根系」に分かれて対抗してきた。
 県議の2派閥が結成されたのは、両元首相周辺で知事選の候補者選びが難航し、結局、中立だった元県議が担ぎ出された75年ごろとされる。しこりを引きずる形で派閥は続き、親知事か反知事かの姿勢も異なった。
 両派とも議会には「自民党」として会派届けを出しているが、意見の隔たりは大きく、つい2年半前も、小寺弘之知事が現出納長を副知事に据えるために提出した人事案でさえ賛否が分かれた。
 統一のきっかけは「民主風」が吹いた04年7月の参院選だった。自民は現職2人を擁立したが民主新顔にトップ当選を許して敗北。これに、昨秋具体化した参院選挙区の「4増4減」案が追い打ちをかけた。群馬選挙区の定数は2から1に減り「競合の場」も消える。市町村合併で県議の選挙区が広がったり、1人区が増えたりしたことも背景になった。
 派閥結成当時を知る現職の党県議は今では2人だけ。9期と最古参の松沢睦県議(75)は「県民にわかりやすい方向が示せたのは大賛成だ」と話す。一方で、激烈な争いを知る党関係者は「選挙が盛り上がらず、つまらない」と漏らした。
 小渕元首相は生前、2人の先輩を立てて、自分を「ビルの谷間のラーメン屋」と称した。県議会には、元々小渕系の組織はなかった。