ダム反対貫いた川原湯住民

 前原大臣と水没予定地住民による意見交換会の当日、大臣との対話に期待する川原湯温泉の旅館主の声が群馬版の新聞で取り上げられました。 

 ダム反対闘争の闘士であったこの旅館の先代当主、豊田嘉雄さんは、現在の八ッ場ダムの市民運動の理論的なリーダーである嶋津暉之さんとの交友で知られています。故郷を守りたいという純粋な愛郷心に発した八ッ場ダムの反対闘争は、長い歳月の間に行政圧迫により後退を余儀なくされ、次第に条件闘争に変質していきましたが、豊田さんは正義のないダム建設に強い憤りを抱き続け、地域から孤立する中で最後までダム反対を貫きました。
 
 そうした中で出会った嶋津さんは、当時東京都の職員で、水問題の専門家でもありました。自らの行政指導により、1970年代に東京都の工業用水の使用量を従来の三分の一に減少させることに成功した嶋津さんは、ダム建設の利水目的に問題があることを論理的に証明し、さらに行政がダム推進の根拠として挙げる数字の多くにごまかしがあることを技術的なデータ分析により示し、ダム反対運動に科学的根拠を与える研究を続けていました。
 
 嶋津さんと豊田さんは互いを尊敬し、深い信頼関係で結ばれていましたが、残念ながら豊田さんが病に倒れたことからお二人の関係は途切れ途切れとなりました。八ッ場あしたの会などの市民運動に地元支援が打ち出されている背景には、八ッ場ダムの闘争を精一杯闘った亡き人々を助けることができなかった嶋津さんらの無念の想いがあります。

2010年1月24日 
朝日新聞群馬版より転載ー八ッ場よ! まつりに流れる反対貫いた亡き旅館主の歌声 芽吹く再生 二代目予感ー http://mytown.asahi.com/gunma/news.php?k_id=10000581001250001  

八ツ場ダムの中止問題に揺れる長野原町の川原湯温泉で、20日にあった湯かけまつり。夜明け前の温泉街に流れていた「湯かけ音頭」の歌声の主は、亡くなるまでダム反対と言い続けた地元の旅館主だ。旅館を継いだ息子は、24日の前原誠司国土交通相との意見交換会に問題解決への期待を抱く。(菅野雄介)

 ♯ヤアー 正月二十日にゃ どなたもおいで サテ 上州川原湯 湯かけの祭(まつり) ソレ

 地元で生まれ育った豊田嘉雄さんは郵便局員だった1949(昭和24)年、旅館の主人に頼まれ、湯かけ音頭を作詞した。極寒の旧満州とソ連の国境警備などの兵役を終え復員し数年後のことだ。

 平和が戻り、周辺の農村からの湯客でにぎわうようになっていた。観光時代の幕開けだった。嘉雄さんも自宅を改装し、「やまた旅館」を開いた。自分の声で録音した湯かけ音頭は、温泉街の芸者衆も好んで歌った。

 「吾妻渓谷の将来のために必要な調査をする」――。52年5月、そんな文言でダム計画が地元に伝えられ、温泉街ののんびりしたムードが一気に凍り付いた。

 コンクリートを溶かす強酸性の水質で計画はいったん止まったかに見えた。だが水質の中和事業が成功し、64年12月の新聞は「死の川よみがえる」と報じた。嘉雄さんは著書で「よみがえったのはダム問題だった」と記した。

 67年、嘉雄さんは「八ツ場ダム絶対反対の歌」をつくる。「ダムに呑(の)まれてなるものか われら死すとも動くまじ」。悲壮感漂う歌が、12月、雪が降りしきるダム反対の総決起大会で披露された。

 住民らダム反対の動きは激しさを増した。

 だが、嘉雄さんが脳出血で倒れた80年、県が示した生活再建案で、地元は条件付き賛成に傾いた。嘉雄さんは88年ごろ、こんな歌を詠んだ。

 「ふるさとが湖底に沈む少し前 花の咲く頃ぽっくり死にたい」

 嘉雄さんが64年からまとめていた新聞記事のスクラップブックは22冊目、「生活再建待ったなし」という99年3月の地元紙の記事で終わる。
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 やまた旅館を継いだ次男の拓司さん(58)も、生後間もなく降りかかったダム計画に反対していた。大学卒業後、旅館業の合間に陶芸に打ち込むようになり、川原湯の土を混ぜて作品をつくったのはふるさとへの愛着からだ。

 しかし地域が条件付き賛成でまとまり、拓司さんは現実と折り合いをつけた。一方で嘉雄さんは反対を貫いており、説得することもできずつらい立場にあった。

 95年ごろ、旅館の玄関の上の「ダム絶対反対」の看板を黙って外した。気づいた嘉雄さんは血相を変えて看板を探し回った。認知症と診断されたあとも、「ダム反対」と書かれたハチマキを締め、屋根に上った。

 嘉雄さんはダム問題と格闘したまま、07年に亡くなった。88歳だった。
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 昨夏の総選挙。拓司さんは自民党の候補に投票した。群馬5区で対立候補を立てた社民党のダム中止の訴えは、心に響かなかった。「ダムを造ることしか考えられなくさせられていた」と話す。

 だが、鳩山政権がダム中止を打ち出して1カ月ほどたつと、中止が現実にあり得るのだと実感するようになった。「ダムに追い立てられ、走り続け、ゴールが見えない感じは消えた。ダム建設への一本道ではなくなって、こんなにすっきりした気分になるのかと思った」

 ダム反対闘争にのめり込み、家族を顧みなかった父にはいまも共感しない。とはいえ、父は反対という姿勢を示しながらも、内心は国の方針にあらがえないことは分かっていたはずだ。中止という選択肢を前にした今、「父も生きていれば自分と同じ気持ちだったと思う」。

 ♯ヤアー 湯かけて 唄(うた)って 唄ってかけりゃ サテ やがて 明るい朝日が昇る ソレ

 湯かけ音頭が繰り返し流れるなか、湯かけまつりに参加した紅白のふんどしの男衆たちは「お祝いだ」と湯を掛け合った。拓司さんは運営を手伝った。

 ダムが完成すれば、川原湯温泉の7軒の旅館は水底に沈む。「ちゃん」付けで呼び合う仲間とともに、温泉街を再生したいという思いは強い。

 24日には、前原国交相が4カ月ぶりに長野原町へやって来る。「まず会うことが大切だ。会えば、何かが動き出すかもしれない」

写真=約400年続くとされる「湯かけまつり」。故豊田嘉雄さんの歌声が何度も流れた=20日

写真=父の死後、初めてスクラップブックに目を通す豊田拓司さん。「読み始めると止まらないね」=いずれも長野原町川原湯