小寺前知事、志半ばの死

 群馬県の前知事であった小寺弘之氏が暮れに亡くなりました。
 昨夏の参院選では民主党から全国区で立候補したものの、民主党の劣勢もあって落選。八ッ場ダムの地元がダムをやむなく受け入れた当時、地元の信頼を得て生活再建事業を進めた歴史の生き証人でした。
 群馬県庁には、歴代知事の写真が飾られていますが、大澤群馬県知事は4年前の知事選で闘った小寺前知事の写真を飾ることを許しませんでした。群馬県は小寺氏の逝去を受けて、大澤県知事を葬儀委員長とする県民葬を2月8日に開催することを発表しています。ちなみに、今年は群馬県知事選の年でもあります。

 下記の記事は、表面的な報道ではわからない八ッ場ダムの地元の複雑な内情を伝えています。

◆2010年12月27日 朝日新聞群馬版より転載
http://mytown.asahi.com/gunma/news.php?k_id=10000581012270001

 ー小寺氏 志半ばの死 「私なら解決できる」ー

 26日に葬儀が営まれる小寺弘之前知事は、県の課長時代から八ツ場ダムに関わってきた。民主党から比例区に立候補した今夏の参院選では、自ら問題解決に力を尽くす意気込みを語った。だが、落選の直後に倒れ、その経験と人脈が生かされる機会は失われた。(菅野雄介)

 「水行政をどうすべきかは、常にしっかりとその時点で考えている。解決に力を尽くしたい」

 小寺氏が参院選への出馬を表明した今年1月12日。小沢一郎幹事長(当時)が同席した記者会見で、八ツ場ダムに対する考えを再三問われ、小寺氏はそう力を込めた。

 ダムの地元、長野原町の住民組織「水没関係5地区連合対策委員会」の萩原昭朗委員長もその場で見守っていた。消防団活動を通じた30年を超す付き合いで、小寺氏の有力な支持者だ。

 萩原氏はこの日、小沢氏にも直接「八ツ場のことをよろしく」と語りかけた。「こういう機会に地元の実情を政権与党に知ってもらうことが重要」と小寺氏が招いた。

 その夜、ダムができれば水没する川原湯温泉街で、連合対策委の新年会があった。萩原氏は小寺氏の出馬表明や小沢氏との面会を説明したが、地元の有力者が居並ぶ宴席にさざ波が広がった。

 ダム建設に向けて動いたかつての小寺氏。「ダム中止」を前面に掲げた民主党に入った小寺氏。その両者がどう結びつくのか、疑問に思う人が少なくなかったからだ。

 高山欣也町長もその一人。川原湯の郵便局長を務めた父の故要吉氏は、ダム反対期成同盟の幹部だった。要吉氏は自著で、地元の多数派が反対から条件付き賛成に転じる道筋をつけたのは、当時県の秘書課長だった小寺氏と自分だったと書き残している。

 1970年代後半、要吉氏は何度も説得に訪れる小寺氏の人柄を信頼し、当時の清水一郎知事と地元との橋渡し役を引き受けた。転換点となった80年の県の生活再建案提示の舞台裏である。

 小寺氏は91年、知事に初当選。翌年、ダム建設の基本協定調印に立ち会う巡り合わせに。「国策として、水資源県の役割を果たさざるを得なかった」。小寺氏は参院選の出馬会見で振り返った。

 そうした過去を、高山町長は忘れられない。

 今年5月、条件付き賛成に転じた時の町長だった樋田富治郎氏が死去。2007年の知事選で敗れた小寺氏も葬儀に参列したが、高山町長と言葉を交わす場面はなかった。

 一方、萩原氏は参院選で「立場上、民主党候補の応援には動けない」としつつ、「群馬のことも八ツ場のことも一番わかっている政治家。(小寺氏が参院議員の)バッジをつけりゃ発言力も増す」と期待感を隠さなかった。

 萩原氏は4月の連合対策委でこう説いた。「ダムができなければ水没しなくなる場所をどう活用するか、そろそろ考えなきゃ」。生活再建の遅れを案じ、ダム建設の再開を待つだけでなく、ダム中止を前提とした再建案もつくろうと訴えたのだ。だが、「小寺さんの影響だろう」と周囲の目は冷ややかだった。

 そして参院選。長野原町では「知事を4期やったとはいえ、当選しても国会では1年生議員」(住民の一人)と期待感は広がらなかった。小寺氏は結局、落選した。

 参院選の前、小寺氏は知事時代に倉渕ダム(旧倉渕村)を凍結し、戸倉ダム(片品村)の中止を認めた経験にふれ、こう語っていた。

 「大きな方向性としては八ツ場も中止しかありえない。ただ、前原誠司国土交通相(当時)がいきなり中止と言ったのはよくなかった。私なら現地に泊まり込んで、酒を酌み交わして長年の苦労に耳を傾けたうえで理解を求める。経緯を知る私なら、できると思っている」

 その意気込みが実現する場面は、ついになかった。