五木村より国交省へ抗議文

 川辺川ダムは中止されたと、もう何年も前から言われてています。2009年に八ッ場ダムと共に川辺川ダムの中止を掲げた民主党政権が誕生し、当時の前原国交大臣が、関係都県知事が中止に反対している八ッ場ダムと違い、前年に熊本県知事が中止を求めたことを受けて、川辺川ダムの中止を表明したからです。

 けれども、その後、川辺川ダムの中止手続きは始まりませんでした。九州地方整備局最大のダム計画である川辺川ダムの中止に国交省が抵抗しているからといわれます。ダム予定地の五木村を見捨てたまま、国交省川辺川砂防事務所は存続し、ダムの関連事業が継続し、職員の人件費が支払われ続けています。

 2月4日には、ダム事業と切り離した地域振興や中止後の補償法の整備をボイコットしている国交省に対して、五木村から抗議文が提出されました。けれども、国交省は相変わらず、ダムの関連事業を続けることで、ダム予定地への責任を果たしているという傲岸な姿勢のままです。
 五木村では、村の再生をダムによる地域振興に委ねてきた過去の過ちを二度と繰り返してはならないという長老議員の提案が村議会で決議されるなど、ダム抜きの地域再生を目指す動きが加速し、観光客が増加しています。地元紙では、再生を目指す住民の様々な動きを活写した記事が連載されています。

 五木村を取り巻く状況は相変わらず厳しいものがありますが、国交省と関係都県の圧力で住民自治が失われてしまっている長野原町にくらべれば、一歩も二歩も先をいっているようです。

◆五木村より国交省への抗議文

五木村生活再建補償法案通常国会提出見送りへの抗議

 民主党政権が発足し、川辺川ダム建設事業の中止を表明されたが、現状の五木村を無視したものである。
 昭和41年7月に突然発表された川辺川ダム建設計画は、当初から反対であり村民一丸となり、当時の建設省及び熊本県(こ強く抗議してきた。
 しかし、国、県は強い姿勢でダム建設同意を求めてきた。
 最終的には、五木村再建計画を条件に五木村としてダム建設を受けざるを得なかった。この経緯は、語り尽くせないものがある。
 五木村の犠牲に伴う村再建整備事業半ばである中、政権交替で最初に就任された前原国土交通大臣は新たな補償措置及び財源措置ができる法整備を平成22年通常国会へ提出することを村民の前で明言された。
 しかしながら、何らの税明もなく提案は見送られ、さら(こ平成23年遇常国会への提案も見送られようとしており、このことは川辺川ダム建設中止を公言し、五木村再建を全国のモデルケースとなすとの発言と大きく乖離し、信頼をなくすものである。
 よって、五木村としては今回の提案見送りに強く抗議し、その経緯の説明を求め、1日も早い法整備を求める。
 また、現行法で補償事業や再建策を実施することは可能であり、これによる施策の実施を強く求める。
   
 平成23年2月4臼
            五 木 村 長   和田拓也
            五木村議会議長   田山淳土

◆2011年2月24日 熊日新聞より転載
http://kumanichi.com/feature/kawabegawa/kiji/20110224001.shtml

 -頭地大橋に“のぞき窓” 五木村議会に国交省が提示―

 国土交通省川辺川ダム砂防事務所(相良村)は23日、同ダム事業として五木村で建設を進めている頭地大橋の橋上部のイメージ図を、村議会ダム対策特別委員会に示した。
 頭地大橋は全長約490メートル。水没予定地をまたぐ形で川辺川両岸の代替地を結ぶ。用地交渉が難航したため設計を変更し、2009年に再着工。橋脚、橋台の下部工事は6月に完了予定で、12年度中の完成を目指す。
 橋上部のデザインについては、同事務所が住民や観光客のアンケートを実施。三つの案の中で支持が多かった2案を融合させた。
 それによると、「橋に博物館的要素を持たせたい」として、村の動植物や昔の風景の写真パネルを間柱に設置。歩道の足元にガラスをはめ込んだのぞき窓を設け、川辺川や水没予定地の大イチョウが見えるようにする。
 橋のたもとには、イベントなどに活用できる平たんな広場を設け、ベンチも配置。夜も安全に渡れるよう誘導灯を設置する。
 説明を受けた村議からは「強風対策はどうなっているのか」「五木の子守唄のメロディーが流れる舗装も検討してほしい」などの質問、意見が上がった。(本田清悟)

◆熊日新聞連載記事「山里に吹く風 五木村は今」より一部転載

(1)ダムに頼らない未来を
村観光協会の「語り部」 淀川つるよさん(54)
http://kumanichi.com/feature/kawabegawa/yamazatonifukukaze/yamazatonifukukaze_20110218.shtml

 水没予定地を案内することも。かつて民家がびっしりと軒を並べていたが、役場などの公共施設と約140世帯は代替地に移り、約360世帯が村外に移転した。今は荒涼とした更地が広がる。
 「ここに郵便局があった、お寺があった、と考えるとさみしい。ダムはできるものと思っていたのに、何だったんだろう」。複雑な思いが胸をよぎる。
 08年に蒲島郁夫知事がダム建設反対を表明後、皮肉なことに水没予定地を抱える村に注目が集まった。訪れる観光客も増えている。
 淀川さんは「いつかは村を、ダムに頼らない観光地にしたい」と考えるようになった。目を向けたのが湖底に沈むはずだった集落跡。
「澄んだ水をたたえる川辺川が間近に流れる水没予定地を活用すれば、観光客はもっと集まる」。川べりの自然公園、キャンプ場、観光農園。次々とアイデアを浮かべる。
 観光客と触れ合い、淀川さんは故郷の良さをあらためて感じている。

(2)故郷で農業「村を元気に」
村物産館出荷協議会役員 冨永キミ子さん(64)
http://kumanichi.com/feature/kawabegawa/yamazatonifukukaze/yamazatonifukukaze_20110219.shtml

 昨年、村ファンクラブ会員に送った「食の直送便」には、塩漬けタケノコや乾燥トウガラシなど丹精込めて作った加工品を詰め込んだ。「おいしかった」「五木の温かさが伝わった」。全国から届く声に「五木の特産品で喜んでもらえるとうれしい」と笑う。
 五木村生まれ。中学卒業後、集団就職で地元を離れた。勤め先は大手電機メーカーの兵庫県にある工場。作業着姿で半導体検査に明け暮れ、日本の高度経済成長を支えた。指導役として協力会社に出向した後は、材料メーカーとの交渉を担当。海外出張も経験した。

(3)「底力を見せてやろう」
五木屋本舗社長 橋本悦治さん(51)
http://kumanichi.com/feature/kawabegawa/yamazatonifukukaze/yamazatonifukukaze_20110220.shtml

 「働き口があれば、いつか村に帰りたかった」。転機は1991年、31歳の時。村が募集したかやぶき民家の活用に手を上げ、妻の久美香さん(44)と飲食店を開いた。「なにも安定した生活を捨てなくても」。周囲の反対にも、「帰るなら、今しかない」と意思を貫いた。
 2年後に五木屋本舗を設立。村の伝統食の豆腐のみそ漬けの製造を始めた。しかし、食べた時の硬さがネックとなって、売り上げが伸びない。「万人に受けるものは作れないか」。試行錯誤を重ね、ソフトタイプの商品化に成功した。
 うにのような食感から「山うにとうふ」と命名。「おいしかったから送って」。電話注文も入り始め、ユズ、トウガラシ、シソ…と味のバリエーションも広がった。自ら全国のデパートを催事で回り、トップセールスで知名度アップを目指す。
 従業員は頭地代替地のそば店「久領庵」も含め、30人を抱えるまでになった。「雇用の場があれば若者も帰ってくる。今の会社を大きくすることが、自分にできる村への貢献だと思う」。それだけに、城彩苑への出店に掛ける気持ちは人一倍強い。
 朝のミーティングで橋本さんは、こんな言葉で鼓舞する。「小さな村の会社でも、全国で戦っているんだ。五木人の底力を見せてやろう」。従業員に誇りと自信を持ってほしいからだ。

(4)新鮮な感動「伝えたい」
村観光協会事務局長 島巻恵里さん(39)
http://kumanichi.com/feature/kawabegawa/yamazatonifukukaze/yamazatonifukukaze_20110221.shtml

 頭地代替地には、水没予定地から移転した人たちの新しい住宅が立ち並ぶ。ひなびた田舎のイメージで来た人には、“期待外れ”の風景に違いない。
 しかし「村の外観は変わっても、村人の温かさや優しさは変わらない。山村の伝統文化だって息づいている」。サルが山から下りてきた次の日は寒い。生活の知恵も健在だ。
 「村の人と触れ合えるイベントを企画し、五木村の奥深さを感じてほしい」。事務局長2年目は、九州新幹線全線開業も控える。忙しくても、新たな出会いが待ち遠しい。

(5)商業経験で三セク再建へ
道の駅「子守唄の里五木」駅長 江藤央康さん(56)
http://kumanichi.com/feature/kawabegawa/yamazatonifukukaze/yamazatonifukukaze_20110222.shtml

 川辺川ダム計画は知っていたものの、行ったこともない村。仕事も順調で、妻や3人の娘もいる。依頼に応じる気はなかった。
 しかし、この話が縁で村を訪れ「高い山、険しい谷、清流。山あいの風景に心を引かれた」。一方で、代替地に家を新築して水没予定地区から移転した住民が「昔の方が暮らしやすかった」と口にするのを聞き、「複雑な思いだった」とも。それら村に足を運ぶようになり、村内各地を見て回った。
 村を訪ねて4度目で三セク関係者と面接した。人口減、過疎化、限界集落…。ダム計画に揺れる村の厳しい現状を聞き、気持ちは固まった。「これまでの仕事の経験を生かせば道の駅は再建できる。何とか村の役に立ちたいと思った」という。
 単身で福岡を離れ、09年4月に駅長に就任。のぼりを一新するなど観光客呼び込みに力を入れた。物産館の売り上げは就任後1年間で1・2倍に。今も右肩上がりだ。「商品開発を進めて販路を拡大し、村民の利益を生み出したい。ダム問題で注目を集める今がチャンス」と意気込む。

(6)一家で移住「村に恩返しを」
永尾忠次さん(51)、まさ子さん(43)夫妻
http://kumanichi.com/feature/kawabegawa/yamazatonifukukaze/yamazatonifukukaze_20110223.shtml

 人吉市に窯を開いていた忠次さんが、新天地を求め、家族と五木村に移住したのは2003年。住まいは今の場所からさらに8キロ奥にある、休校中だった端海野分校。「静かで敷地も広く、陶芸に打ち込むには最高の場所だった」。理想の環境に「管理人」として住み、創作に励んだ。
 「分校住まいは不便だろう」。村の人たちがあれこれと気遣ってくれた。シカ肉も塊で届いたが、一度に食べきれない。苦肉の策として始めたのが保存のきく薫製だった。「あの時の経験が、今に生きるなんて…」と忠次さん。
 無人となっていた大通峠公園の管理棟を借りて、店を開いたのは05年。陶芸品や手作りの菓子を並べ、まさ子さんが端海野から通った。村から払い下げを受け、09年から住まいも移した。部屋を建て増した時も、村の人が手伝ってくれた。
 「よそ者を村の人たち両手を広げて受け入れてくれた」。忠次さんの言葉を、まさ子さんが引き継ぐ。「決して住み良い場所でもない。あれがなかったら村に残ってはいなかったでしょうね」
 交流イベントで、永尾さん夫妻は計4日で28人を受け入れた。「提供した体験が喜ばれ、新たな可能性に気付かせてもらった。独自の企画にも取り組み、村に恩返しがしたい」と2人は口をそろえる。

(7)お年寄りの元気で村づくり
村シルバー人材センター事務局長 馬場上浩さん(44)
http://kumanichi.com/feature/kawabegawa/yamazatonifukukaze/yamazatonifukukaze_20110224.shtml

 川辺川ダム計画に揺れ続けてきた村。高齢化も進み、65歳以上が人口の4割を占める。「山村ならではの経験を重ねてきた人たちがたくさんいる。高齢者が多いことは、むしろチャンスなのかもしれない」。馬場上さんは厳しい現実をプラスにとらえた。「お年寄りが元気を出して頑張ってもらわんと」
 センターの会員は65人。公園清掃や除草作業からボーリング調査の補助まで、幅広い業務に携わる。馬場上さんが力を入れているのが、会員自ら仕事を作り出す自主事業だ。
 村内の農地を借り、会員たちで大豆やアズキ、トウガラシなどを栽培。出来上がった作物は加工品にして、四季の里に並べる。しめ縄作りも好評で、この冬は約400本が売れた。
 「自分たちの作ったもので収入が増えれば、会員もやりがいを感じる。みんな生き生き仕事してますよ」
 村が体験型観光の目玉として復活させた焼き畑農法によるソバ栽培も、会員が主役となった。火入れから種まき、収穫、脱穀…。県内外からの参加者に手ほどきし、水没予定地の畑には白い花が一面に咲いた。

(8)「山で生きていくしかない」
村林業研究クラブ前会長 木下丈二さん(52)
http://kumanichi.com/feature/kawabegawa/yamazatonifukukaze/yamazatonifukukaze_20110225.shtml

 山林が96%を占める村。木下さんは子どものころ、親に連れられて見た山奥の光景を覚えている。「うっそうとした山に生える天然の木が太くて、ああ自然ってすごいなあと。自分も親の世代になって、その良さを子どもたちに気づいてほしいと感じたんです」
 子どもたちが自然と触れ合うイベントにも力を入れる。09年から始まった地元の祭りではヤマメの釣り堀を企画し、昨年も親子連れでにぎわった。ツリークライミングもその一つで「将来は観光にも生かし、村づくりの役に立てれば」。現会長の中村健治さん(52)は期待を込める。
 ただ村の林業を取り巻く現状は厳しい。ピーク時に約3万円だったスギ1立方メートルの価格は現在、約9千円まで下落。木下さんは「後継者不足にも悩まされている。林業だけで生活するのは難しい時代になった」と言う。
 それでも「五木は山で生きていくしかない」と考えている。村の経済を下支えしてきたダム事業は国が中止を打ち出し、先行きは不透明。
「林業で生き残る可能性を生み出す。それがクラブの役割」。木下さんらの模索は続く。

(9)県から派遣、再建に奔走
村ふるさと振興課長 田中良幸さん(49)
http://kumanichi.com/feature/kawabegawa/yamazatonifukukaze/yamazatonifukukaze_20110226.shtml

 2008年10月9日、異動の内示は突然だった。「えっ、五木村ですか」。当時、県地域政策課で仕事をしていた田中良幸さん(49)
は、上司の言葉に耳を疑った。わが身に起きている事態が飲み込めな
かった。
 その約1カ月前、蒲島郁夫知事が川辺川ダム建設反対を表明。五木
村の地域振興を支援するため、県からの職員派遣が決まり、白羽の矢
が立ったのが田中さんだった。
 2000年から2年間、人吉市にある球磨地域振興局に勤務し、水
没予定地で家屋が取り壊される光景も目にした。しかし、ダムに翻弄
[ほんろう]された村人の心情にまで、思いが至ることはなかった。
知事の表明にも「五木村は大変だろうな」。それが感想だった。
 1週間後、五木村に着任した。村再建対策本部事務局次長を経て、
09年3月からふるさと振興課長。
 「五木村の何を知っているんだ。それで振興ができるのか」。村に
来て間もないころ、村民から厳しい言葉を浴びせられた。もちろん、
返す言葉はない。本庁時代、過疎問題にもかかわったが、それは総論
でしかなかった。
 1年目の冬。地区ごとの行政座談会に出席し、「村の姿がおぼろげ
ながら見えてきた」。深刻化するシカの食害や耕作放棄地、携帯電話
が通じない不感地域…。住民の訴えに、過疎が抱える問題が詰まって
いた。
 この時、確信したのは「村の振興は待ったなし」だということ。新
緑祭りや公園整備、婚活イベントなど各種事業を次々と手掛け、商工
会とも連携。マスコミにも情報を発信し続けた。
 結果は、村の観光客数にも表れている。知事の反対表明前の07年
は7万6千人だったが、09年には14万人を突破。それでも、「今
はダム問題で、注目されているだけなのかもしれない」と気を引き締
める。 (以下、略)