上信自動車道の予定地から、古墳時代の人骨出土

2012年12月11日

 昨日、群馬県教育委員会文化財保護課と県埋蔵文化財調査事業団が群馬県渋川市の金井東裏遺跡で、6世紀に噴火した榛名山の火山灰の中から甲(よろい)を着た人骨が出土したと公表しました。

◆群馬県ホームページ
http://www.pref.gunma.jp/houdou/x4600043.html

 古墳時代の甲を着装た人骨が出土したのも、古墳時代の火山噴出物の下から被災人骨が出土したのも全国初とのことで、昨夕から各メディアがビッグニュースとして取り上げています。(ページ末尾に関連記事を転載)

 昨日の公表に合わせて、明日一日のみ、一般に公開されます。

◆群馬県埋蔵文化財調査事業団ホームページ
http://www.gunmaibun.org/excavation_info/tayori/2012/20121210-1.html

 甲を着た人骨のそばには、赤ちゃんの遺骨も発見されたということで、どのような状況で被災したのか、想像力をかきたてられます。ネット上では様々な情報が飛びかっています。
 http://togetter.com/li/420719

  ニュースでもネット上でも殆ど触れられていませんが、この発掘調査は、八ッ場ダムへの観光道路という触れ込みで前橋市と吾妻郡の区間の用地買収が進められてきた上信自動車道の建設に伴う緊急調査です。

○上信自動車道(群馬県ホームページ)
 http://www.pref.gunma.jp/07/j07500005.html
 http://www.pref.gunma.jp/06/h3410002.html

 上信自動車道は関越自動車道の渋川・伊香保インターチェンジと長野自動車道の東部湯の丸インターチェンジを結ぶ高規格道路として計画され、ルートには八ッ場ダム予定地も含まれています。他地域に先駆けて工事着手された上信自動車道の八ッ場バイパスは、八ッ場ダムの関連事業の中で最も大きな事業費となった付け替え国道のことです。もともとの国道は吾妻川沿いの谷間を走っていましたが、八ッ場ダムができると水没してしまうため、補償工事として水没線より標高の高い場所に付け替えられました。
 1980年代、群馬県でも高速道路網が整備されてゆく中で、八ッ場ダム予定地のある吾妻郡には高速道路の計画がありませんでした。八ッ場ダム予定地の上流に位置する草津温泉は、観光地として利便性でおくれをとることを懸念し、上信自動車道の建設のために八ッ場ダム事業の推進をたびたび陳情しました。上信自動車道は吾妻地域にとって、いわば高速道路の代替物でした。

 上信自動車道は八ッ場区間は開通したものの、渋川市から八ッ場までの区間は、完了の見通しがたっていません。上信自動車道を計画通りのルートで通すのであれば、貴重な人骨が出土した渋川市の遺跡現場も史跡指定されることなく、発掘調査が終われば道路建設が始まることになります。

 火山の多い群馬県には、火山災害遺跡が数多くあります。中でも八ッ場ダム予定地は、全域が天明浅間災害遺跡という立地です。遺跡の方がダム湖よりはるかに観光資源として価値があると考えられ、このまま遺跡をダムに沈めてしまうのはもったいないとの声が高まっています。
 今回の発掘調査も、遺跡と開発事業の問題を私達に投げかけているように思われます。

○NHKニュース 12月10日 17:48
http://nhk.jp/N44y5uXf

 ー古墳時代のよろい着けた人骨発掘ー

 群馬県渋川市の古墳時代の遺跡から、火山灰に埋まった男性の骨がよろいを身に着けた状態で見つかりました。専門家は、男性が近くにある榛名山の噴火を鎮めるまつりをするためによろいを着けていたか噴火から身を守るためによろいを着けていた可能性があるとみて分析しています。

 発掘調査が行われたのは、群馬県渋川市の「金井東裏遺跡」で、6世紀はじめの古墳時代、火山灰で埋まった溝の中からよろいを着けた男性の骨が見つかりました。よろいは、高さ60センチ、幅50センチで、小さな鉄の板を重ねて編んで作られた「小札甲(こざねよろい)」でした。
 古墳時代のよろいが装着された状態で、人の骨が見つかったのは全国で初めてで、群馬県教育委員会などは、現場の状況などから、男性は近くにある榛名山の噴火で火砕流に巻き込まれたとみています。
 当時、この地域では大きな争いがなかったとみられているため、専門家は、男性が榛名山の噴火を鎮めるまつりをするためによろいを着けていたか、噴火から身を守るためによろいを着けていた可能性があるとみて分析しています。
 古墳時代に詳しい群馬大学の右島和夫講師は「これまで古墳の副葬品としてしか見つかっていなかったよろいが、人が身に着けた状態で出土したというのは大きな発見だ。当時、よろいは権力の大きさを示すために使われていたが、榛名山の火山活動が活発化する中で、男性が山の神に立ち向かおうとよろいを身に着けたとも考えられる」と話しています。

○日本経済新聞(共同通信) 12月11日 22:03
 http://p.tl/uxFJ

 -よろい装着の人骨、6世紀の火山灰から 群馬・金井東裏遺跡ー

 群馬県渋川市の金井東裏遺跡で、6世紀初め(古墳時代後期)の火山灰の地層から、鉄製のよろいを着けた成人男性の人骨1体が見つかったと、県埋蔵文化財調査事業団が10日、発表した。よろいは古墳の副葬品として出土することが多いが、事業団によると、実際に装着した状態で見つかるのは初めて。

 同事業団はよろいは胴体部分のみだったことから、戦いの最中ではなく、同じ時期に噴火した榛名山(群馬県)の火砕流に巻き込まれたとみている。古墳時代に被災した人骨が発見された例もなく、当時の災害の様子を知る上で一級史料となりそうだ。

 同事業団によると、人骨は厚さ約30センチの火山灰に覆われた溝(深さ約1メートル)で確認、ほぼ全身が残っていた。榛名山に向かい、両膝を付き、うつぶせに崩れ落ちた格好だった。年齢は不明。そばには鉄製のやじり十数本や別のよろいもあり、乳児の頭の骨も見つかった。溝の中で火山灰に密閉されていたため、保存状態が良かったとみられる。

 人骨が着けていたよろいは高さ60センチ、幅50センチ。小札と呼ばれる短冊状の鉄板(長さ約5センチ、幅約2センチ、厚さ約1ミリ)を多数つづり合わせた強固なつくりだった。同事業団は「山の神の怒りを鎮める儀式をしていたのではないか」としている。

 金井東裏遺跡は榛名山の北東約8.5キロ。過去の発掘調査で、6世紀初めの噴火の際、火砕流が最大15キロ先に及んだことが判明している。

 群馬県内では5世紀後半以降、前方後円墳など有力者の古墳の副葬品として多く出土。渋川市の黒井峯遺跡では火山から噴出した軽石の下にあった古墳時代の住居や畑跡が当時のまま出土している。海外では、古代ローマの都市が埋まったイタリアのポンペイ遺跡が有名。神殿や劇場、住居などが見つかっている。

 現地説明会は12日午前10時~午後3時(雨天中止)から開かれる。

 一瀬和夫京都橘大教授(考古学)の話 6世紀になると、首長クラスは今回見つかったような実用的なよろいは着けなくなる。男性は、首長の居館を警備する武人だったのではないか。武具一式を着けていないことから、任務としてではなく、自分の家族が心配で見に行ったのかもしれない。同様に噴火で埋もれたイタリアの古代都市ポンペイの遺跡では、家族の方を向いて倒れた父親の様子が分かっている。男性もわが子を抱いて逃げる途中、転んでしまったのかもしれない。〔共同〕

○毎日新聞東京朝刊 12月11日
 http://p.tl/MyhX

 ー群馬・金井東裏遺跡:よろい着た人骨出土 古墳時代の火山灰地層からー

 群馬県埋蔵文化財調査事業団は10日、同県渋川市の金井東裏(かないひがしうら)遺跡で、6世紀初頭(古墳時代後期)の火山灰の地層から、よろいを身に着けた成人男性の人骨が見つかったと発表した。古墳時代のよろいが副葬品ではなく、人が実際に装着した状態で出土したのは全国初という。近くの榛名(はるな)山二ツ岳の噴火で火砕流に巻き込まれたとみられ、同事業団は「当時の生活や習俗、災害について知ることができる貴重な手がかりとなる」としている。【奥山はるな、庄司哲也、塩田彩】

 金井東裏遺跡は榛名山二ツ岳の北東約9キロ。同事業団が国道バイパス建設工事に伴い発掘調査したところ、人骨は幅約2メートル、深さ約1メートルの溝の中で、後頭部や腰骨以外のほぼ全身の骨が残った状態で見つかった。よろいは背中側が露出しており、高さ60センチ、幅50センチ。多くの小鉄板が重なり合っており、長方形の鉄板を革ひもでくみ上げた「小札(こざね)甲(よろい)」と判断した。

 榛名山の方向を向き、膝を折った状態でうつぶせに倒れていたことから、同事業団は「火山から逃げようとしたのではなく、山の怒りを静めるため、よろいを着て儀式を執り行っていた可能性もある」と推測する。

 また当時、小札甲を作る工房は近畿しか見つかっておらず、県内でも小札甲が副葬品として出土しているのは支配者層の古墳に限られていることから、「大和王権とつながりが深い、政を担うような首長など地位のある人物だったのではないか」とみている。同遺跡の西側にある同時代の金井丸山古墳からは副葬品として鉄剣3点が出土しており、男性と関連がある可能性があるという。ほか、近くから生後数カ月の乳児の頭骨や鉄製の矢じり十数点も見つかった。

 榛名山の周辺では、金井東裏遺跡から約1キロ離れた国指定史跡の黒井峯(くろいみね)遺跡と、約4キロ離れた県指定史跡の中筋(なかすじ)遺跡が、同じく6世紀に榛名山の噴火で埋没しており、両遺跡は「日本のポンペイ」と呼ばれている。