八ッ場あしたの会は八ッ場ダムが抱える問題を伝えるNGOです

「川原湯神社の全焼 失って初めて得るもの」(上毛新聞・視点オピニオン)

 上毛新聞の投稿欄「視点・オピニオン」に八ッ場ダム予定地にある川原湯温泉の観光協会長、樋田省三さんの投稿記事が掲載されました。昨年11月、今年1月に続き、三回目の連載記事です。

 これまでの記事は、こちらのページにまとめています。
 https://yamba-net.org/wp/40552/
 ー「巨大ダム工事の弊害 住民振り回し対立生む」ー

 三回目の今回の記事は、2001年に起きた川原湯神社の火災が取り上げられています。
 上毛新聞のサイトより転載します。

◆2018年2月28日 上毛新聞
 https://www.jomo-news.co.jp/feature/shiten/36543
 ー川原湯神社の全焼 失って初めて得るものー

  1992年に基本協定が結ばれてから、八ツ場ダム建設に向けた調査が本格化する一方で、補償協定の協議も同時進行で行われていました。しかし、何度会議を重ねても一向にまとまる気配さえ見えぬ中、信じがたい事件が発生して地元は大きく揺れ動きます。川原湯神社の焼失です。

 「川原湯神社周辺で火災が発生した」。突然の防災無線。振り返ると、窓の外に神社から立ち上る大きな煙の柱が見えた。震える手と焦る心を必死で抑えて消防団の作業服に。長い階段を猛然と駆け上がる。境内は異常な熱さと焦げ臭さで充満していた。ホースを延長し消火栓から放水し始めるが、熱くて近づけない。それでも放水を続けていると、大きな火柱が上り、轟音(ごうおん)と共にわらぶきの屋根が一気に落ちて吹き飛ばされる―。

 2001年4月9日の午後のことでした。

 前日は、日曜日も相まって神社春季例大祭に過去にも例を見ないくらい多くの人が集まりました。にぎわいは、写真にも多く残されています。

 でも、その24時間後全く違う光景がありました。防災ヘリまで出動した大火事は広域消防、町内本部を筆頭に全10分団の必死の消火活動の末、夕方には鎮火しました。このことは、川原湯住民全てに対して大きな影を落としたことは言うまでもありません。

 焼け落ちた神社を見ながらうなだれる宮司さんの姿を通し、祖父の言葉を思い出していました。「家の中でけんかが絶えないと火事になるから、仲良くしなくちゃダメなんだぞ」。出火原因は分からずじまいでしたが、私は初めて目に見えない力を感じました。

 補償協議で紛糾していた住民でしたが、ダムや補償に関係なく「とにかく神社を再建」で心を一つにして行動し、自分たちの寄付金で足りない所は、縁ある方々の御厚志も受けて、わずか1年で神社を再興してしまいました。皆が同じ目標に向かって協力しあえば、何でもできることを実感しました。

 このような大きな出来事が起きなくても話し合いの中で物事が解決していければベストなのでしょうが、人は大きな悲しみや何かを失わないと気が付けないモノなのかもしれません。

 神社焼失2カ月後の6月、「補償協定」にかかわる調印式が行われ、正式に移転に向けて歩み出すことになりました。水没住民それぞれが、新しい場所で生きて行くことを決めたのです。

 これまで3回の寄稿でダムの歴史を振り返りました。つらくて悲しいことだらけなのかもしれません。しかし、ダムの歴史が過去に埋もれてしまう前に、地元に残った人だけでなく、かかわった全ての人々が、共通認識として心にとどめておく必要があると思い、書き進めました。

川原湯温泉協会長 樋田省三 長野原町川原湯
【略歴】老舗温泉旅館「やまきぼし旅館」社長。跡見学園女子大と長野原町による活性化策の川原湯温泉ブランド化プロジェクトの座長を務める。日本大経済学部卒。

~~~転載終わり~~~

キャプチャ川原湯神社の火事 川原湯神社が全焼した翌日、上毛新聞が火事を伝えた記事を以下のページに掲載しています。
 記事(右)には、今はなくなった旅館街の背後の森が社殿ごと燃え上がっている写真も載っていました。
 https://yamba-net.org/wp/20519/
 「川原湯神社の遷座」

 2001年の全焼の後、わずか一年で再建された川原湯神社ですが、残念ながら昨年4月に解体されました。神社があったところに町道が建設されることになったためです。
 せっかく再建した神社でしたから、川原湯地区の住民の中には代替地への移転の際には移築したいという声があったものの、移築は新たな建築より費用がかかるということで、あきらめざるをえなかったということです。
 記事で取り上げられている神社全焼の際は、その2ヶ月後に国と地元で八ッ場ダム事業の補償基準が調印され、補償基準に基づいて個別補償交渉が始まりましたから、住民が大量に流出していく時期でした。地元がダム計画を受け入れる前、201世帯だった川原湯地区は、現在30世帯余に縮小しています。代替地での神社の新たな建設にも多額の費用がかかり、寄付集めは大変だったといいます。
 辛く悲しいことは過去のことではなく、現在も続いています。

解体直前の川原湯神社。2017年3月24日撮影。