金子兜太さんと川原湯温泉

 俳人の金子兜太さんが亡くなりました。
 八ッ場ダムの水没予定地にあった川原湯温泉は、名勝・吾妻峡とともに、多くの文人が訪れた土地です。金子兜太さんも川原湯温泉に足跡を残しています。
写真右=川原湯温泉街の一番上にあった旧・川原湯神社の石段。

 長野原町文化財調査委員で、川原湯温泉のやまた旅館を営む豊田拓司さんが季刊「ぐんま」に寄稿された「川原湯温泉を訪れた文人たち」には、川原湯温泉を訪れた文人として、与謝野晶子・鉄幹、若山牧水、田山花袋、萩原朔太郎、土屋文明、斎藤茂吉、井上靖などとともに金子兜太さんのことが取り上げられており、川原湯温泉で金子さんが詠んだ俳句が紹介されています。

 川原湯温泉街があったところは、今では家屋がすべて解体され、樹木も伐採され、ダム事業の工事現場となってしまいましたが、金子兜太さんの俳句は、吾妻谷や山とともにあった、ありし日の川原湯温泉の情景をまざまざと蘇らせます。
写真右=温泉街の両側に広がっていた雑木林では樹木が伐採された。

 格調高い寄稿文の中で、豊田さんが金子さんの俳句を取り上げた部分を転載させていただきます。

 季刊「ぐんま」(群馬県教育振興会) 
 〈ぐんまの人物誌)「川原湯温泉を訪れた文人たち」(豊田拓司)より

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 昭和39年、主宰する「海程」の勉強会を川原湯で開いた金子兜太は、季語にこだわらず生活実感を句に定着させるという作句法で、戦後の前衛俳句ブームをリードする存在だった。句会、批評会は夜を通して行われ熱気が溢れていた。
 この草稿の三句は川原湯の情景と実感がうまく表現されている。

 腸(はらわた)をみなゆさぶって夜の谷ゆく
 必殺の谷に星墜ち女眠る
 三日月がめそめそといる米の飯

  (中略)

 八ッ場ダム建設計画
 かつて文人たちの愛したさほど大きくもない渓谷の狭隘な地形は、狭隘ゆえにダム建設の好適地と見なされ昭和27年、国から八ッ場ダム建設計画が通達される。突然の通達に静かな温泉場は騒然とする。闘争と妥協・建設中止の時代が過ぎて行き、平成31年にダムは完成する。
 そして川原湯温泉は、腸(はらわた)を揺さぶる坂道と、必殺の谷から、北風吹きすさぶ丘の上に移り新たな時を刻む。
 文人たちよ、ここでは星は墜ちないで回っている。

—転載終わり—

上毛新聞では一面コラムで金子兜太さんの訃報を取り上げていました。

◆2018年3月25日 上毛新聞 三山春秋
https://www.jomo-news.co.jp/feature/miyama/35569 

▼「桑の実と蚕飼こがいの昔忘れめや」。98歳で亡くなった戦後日本を代表する俳人、金子兜太さんが2年前、主宰する俳誌「海程」巻頭ページの「東国抄」に掲載した句である

 ▼生まれ育った埼玉県秩父地方は古くから養蚕、織物が盛んな土地。実家でも養蚕をしていたので、繭や蚕を題材にした作品を少なからず残した

 ▼「裏口に線路が見える蚕飼かな」は若き日、日本銀行の面接試験で、「どんな句をつくるのか」と聞かれ、とっさに「郷里の秩父は養蚕の国だ」という思いから披露し、ほめられたという

 ▼「朝日煙る手中の蚕妻に示す」は、激戦地での過酷な経験の後に復員し、結婚したばかりの妻と秩父の農家に立ち寄った時のことだ。「山脈やまなみのひと隅あかし蚕このねむり」。養蚕の記憶は金子さんにとって忘れがたい特別なものだった

 ▼「東国抄」という表題について、当初は別の意図もあったが、〈自分のいのちの原点である秩父の山河、その「産土うぶすな」の時空を、心身を込めて受けとめようと努めるようになり、この題は、産土の自覚を包むようになった〉(句集『東国抄』あとがき)

 ▼12年前、富岡製糸場で開かれた「金子兜太が語る『東国自由人の風土』」で金子さんは、「絹の国」の人々が持つ自由な気質を強調した。その言葉には、「いのちの原点」である生地への深い愛情が込められていたことに気づく。

—–転載終わり—–

水没予定地にあった川原湯温泉の坂道。左手の草に覆われた石垣に、ダムの天端の高さを示す「標高586メートル」の看板が設置されていた。