八ッ場あしたの会は八ッ場ダムが抱える問題を伝えるNGOです

八ッ場ダム予定地の遺跡の記事(上毛新聞)

 八ッ場ダムの試験湛水は来秋に始まる予定です。水没予定地では全域で大規模な発掘調査が進められています。
 1783(天明3)年の浅間山大噴火では、吾妻川を流れ下った泥流が水没予定地全域を覆い、当時の屋敷や畑が泥流下に埋もれました。これらの遺跡は群馬県の吾妻川流域、利根川流域に広く分布するもので、”日本のポンぺイ”とも呼ばれています。
(写真右:林地区の下田遺跡で出土した江戸・天明期の畑跡。浅間山が大噴火した1783年8月前の降灰が畑の畝と畝の間に残されている。こうした畑跡は、水没予定地全域で出土している。2018年4月23日撮影)
 
 江戸天明期の遺跡の下には、開発を免れた縄文~室町時代の遺跡が良好な状態で遺存していました。八ッ場ダム事業における発掘調査の費用は、当初は約66億円でしたが、2016年のダム計画の五度目の変更により130億円余に増額されました。
 八ッ場ダムの本体工事が進む中、ダム堤のある川原湯地区、川原畑地区では全住民が2017年3月に水没予定地から立ち退いた後、発掘調査が精力的に進められています。水没予定地は住民すら立ち入り禁止です。

下図=現在、発掘調査が行われている水没地の7遺跡の位置図をマッピング群馬遺跡マップをもとに作成。

 ダム予定地では貴重な歴史遺産の発見が続いていますが、発掘調査についてはほとんど報道されてきませんでした。このほど、ようやく地元の上毛新聞が発掘調査について比較的大きく取り上げましたが、残念ながら記事はネットには掲載されていません。
(写真右上=川原湯地区の石川原遺跡。2018年2月28日。)

 記事全文を紙面(写真右下)より転載します。

◆2018年5月29日 上毛新聞 文化面
ー浅間噴火の痕 次々と 八ッ場ダム予定地 水田跡は見つからずー

 発掘作業が佳境
 長野原町の八ッ場ダム建設現場で、県埋蔵文化財調査事業団による発掘調査が佳境を迎えている。水没予定地では7遺跡の調査が進んでおり、1783(天明3)年の浅間山噴火で発生した天明泥流で押しつぶされた建物など災害の痕跡を次々と確認。ダム完成が来年度に迫る中、吾妻川沿いに暮らした先人の足跡を記録に残すための調査は最終段階に入った。

 天明の噴火による土石流は嬬恋村鎌原地区や長野原町を襲い、吾妻川、利根川流域を含め約1500人の犠牲者を出した。
 八ッ場ダム建設予定地では1990年代から発掘調査が本格化。ここ数年の調査で、泥流の下から数多くの住居跡や生活用具が発見され、被災直前の暮らしが明らかになっている。

 同事業団八ッ場事務所によると、現在発掘しているのは西宮、東宮、三平Ⅰ、石川原、下田、中棚Ⅱ、石畑Ⅰ岩陰の7遺跡で、縄文時代から近世までの遺物が数多く出土している。
 
 石川原遺跡では複数の屋敷跡を確認。4月に発見された建物は柱材が泥流に押し倒された状態で見つかり、災害の猛威を示した。火山灰をかき集めた山が数カ所あったことから、人々が泥流に襲われるとは思わず、直前まで清掃していたことも分かった。飲み水などを供給したとみられる石組みの水路も見つかった。

 下田遺跡では被害を受けた畑や道が確認され、泥流によって表土が30センチほど削られていたという。

 4月に大量のたきぎが見つかった西宮遺跡では、いろり、馬屋、漆塗りのわん、木箱、くし、煙管、鉄鍋、やかんなども出土しており、山里とは思えない豊かな暮らしが明らかになっている。

 古代の痕跡も見つかっている。東宮遺跡からは縄文中期後半の竪穴建物が多数発見され、古くから吾妻川沿いに集落が形成されていたことがうかがえる。

 石畑Ⅰ岩陰遺跡では土器の破片とともにシカやイノシシなど動物の骨が出土しており、弥生時代のころから巨大な岩陰を利用して、狩猟を行っていたことが推測できるという。

 一方、水田跡はほとんど見つからなかった。同事業団の桜岡正信調査資料部長は「県境に近いため、稲作の代わりに流通が発達していた可能性もある。この地で暮らした人々が何をなりわいとしていたかを明らかにすることも発掘の目的。生活の痕跡を調べ、研究に役立てられるよう力を尽くしたい」と話す。

 町は発掘した遺物を収蔵し、紹介する資料館の建設を予定している。町文化財保護対策室の富田孝彦室長は「これほど広い面積を発掘することは全国でも珍しい。資料を通じ、後世にしっかり歴史を伝えたい」と語った。

 七つの遺跡はダム建設エリアにあるため一般人が近づくことはできないが、八ッ場大橋からは東宮遺跡と西宮遺跡、不動大橋からは石川原遺跡を眺めることができる。(三神和晃)

【メモ】県内では藤岡市の山間部にあった保美濃山、坂原の両遺跡が下久保ダム建設に伴い、ダムの湖底に沈んだ。
 坂原遺跡からは呪術具の石剣、石棒の未完成品が見つかっており、製作拠点があった可能性を示す。保美濃山遺跡では、火をたく場所を平らな石で囲った特殊な炉が確認された。
 平野部と遜色ない遺物や住居跡が発掘されており、山間部でも縄文時代から積極的に土地が利用されていたことが分かっている。

~~~~~転載終わり~~~~~

 記事で取り上げられている発掘中の7遺跡についての最新情報(平成30年4月調査)は、群馬県埋蔵文化財調査事業団のホームページに掲載されています。
(遺跡名をクリックすると、事業団の該当ページが開きます。)

群馬県埋蔵文化財調査事業団 公式サイトhttp://www.gunmaibun.org/
 遺跡の最新情報 

【川原畑地区】
 〇東宮(ひがしみや)遺跡 縄文・近世 
 〇西宮(にしみや)遺跡 縄文・近世 
 〇石畑Ⅰ岩陰(いしはたいちいわかげ)遺跡 縄文・弥生・平安・近世 
 〇三平Ⅰ(さんだいらいち)遺跡 縄文・弥生・平安・中世・近世

【川原湯地区】
 〇石川原(いしかわら)遺跡 縄文・古代・近世

【林地区】
 〇下田(しもだ)遺跡 縄文・近世
 〇中棚Ⅱ(なかだなに)遺跡 縄文・古代・中世・近世

 川原畑地区八ッ場の石畑Ⅰ岩陰遺跡は、ダム本体工事現場にあります。

写真下=右手にダム本体工事現場があり、その上にある作業ヤードに向かって骨材を運ぶ茶色い管が敷設されている。ダム事業で埋め立てられた八ッ場沢の流路が水質の影響で黄土色に見える。ベルトコンベヤーの背後にある左下の大岩周辺が遺跡か。2018年4月30日、対岸の川原湯地区の展望台より撮影。

 縄文時代から利用されてきた岩陰に眠る歴史遺産は、1978年、岩の下を走るJR吾妻線の落石防止工事の際に発見されました。当時の発掘調査で大量の土器や獣骨が出土し、焚火の痕跡である厚い灰層も確認されていることから、ダム事業による発掘調査が始まる前から考古学の専門家に注目されてきました。
(参照ページ⇒「八ッ場ダム関連の発掘調査と本体工事」

 県埋文事業団HPの解説によれば、遺跡は八ッ場ダムの本体工事を見学する観光客が多数訪れる展望台「やんば見放台」の真下付近に位置しています。解説に添えられた写真を見ると、ダム本体工事の骨材を運ぶベルトコンベヤーの脇にある岩体と旧JR線路の擁壁に挟まれた狭い場所で発掘調査が行われている様子がわかります。

写真下=吾妻川沿いの旧国道跡では、アスファルトを剥がして発掘調査を行っている。林地区の中棚Ⅱ遺跡、2018年4月23日撮影。

写真下=川原湯地区の石川原遺跡。例年、発掘調査は表土が凍る冬季は休止されるが、調査期間が限られているからか、今冬は発掘調査が続けられ、調査現場ではテントを張っている所も。2018年2月28日撮影。

写真下=三平Ⅰ遺跡は八ッ場大橋(湖面橋)のすぐ脇。発掘現場は吾妻川沿いの斜面で、緑やグレーのシートで覆われている。すぐ上には川原畑地区住民の移転代替地。2018年4月30日撮影。

写真下=川原畑地区の西宮遺跡。右上に写っている盛り土は本体工事の掘削土。遺跡の手前のJR線路跡には、骨材を運ぶベルトコンベヤーが敷設されている。2018年1月30日撮影。