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八ッ場ダム水没地、川原湯地区で浅間山大噴火犠牲の人骨出土(その1)

 八ッ場ダム事業における発掘調査を担う群馬県は、川原湯地区の石川原遺跡(写真右)において、1783(江戸時代天明3)年の浅間山大噴火で発生した天明泥流に埋もれた人骨三体が出土したことを発表しました。

 1783年8月5日午前、群馬県と長野県の県境にある浅間山が大噴火を起こし(天明三年浅間焼け)、膨大な土砂が山麓の鎌原村(現在の嬬恋村の一部)を呑みこみ、泥流となって吾妻川から利根川流域の村々を次々と襲いました。
*参照「浅間山大噴火の爪痕 天明三年浅間災害遺跡」(新泉社)、「自然災害と考古学」(上毛新聞社)

 八ッ場ダム水没予定地は全域がこの時の天明泥流に覆われた遺跡です。泥流下にはおびただしい歴史遺産が良好な状態で残されており、ダム湛水が予定される来年までに発掘調査を完了し、記録保存することになっています。
写真右=2016年10月20日撮影。石川原遺跡の背後に天狗山。

 群馬県が行う発掘調査では、通常はその成果を広く知らせるために、一般の人々が参加できる見学会を開催して発掘現場を公開するのですが、八ッ場ダム水没地における発掘調査は、ダム起業者の国土交通省の許可がおりないせいか、地域住民対象の見学会さえあまり開かれません。今回の人骨出土も、これまで地元住民にも知らされていなかったそうですが、発掘調査も終盤に入っているからか、マスコミ向けの見学会が開かれ、広く報道されることになりました。

写真=吾妻川に張り出した舌状台地にある川原湯地区上湯原。天明泥流に埋もれた人骨が出土したのは赤丸印の箇所。青丸印の箇所では、天台宗の不動院跡の発掘調査が行われ、不動沢から引いた水をためた池を配した庭園や、山門、本堂の跡や密教法具なども出土。いずれも石川原遺跡。

 江戸・天明当時の複数の記録によれば、天明泥流による川原湯地区の死者は14名とされます。吾妻川右岸の川原湯地区は、ダム事業によって住民が移転する前は、中心の温泉街と、上流側の上湯原、吾妻渓谷に隣接する下湯原とからなる集落でした。石川原遺跡は農村地帯であった上湯原にあります。上湯原は40世帯近くの住民が暮らす土地でしたが、2016年に最後の住民が立ち退きました。(右:住宅地図)

 県埋蔵文化財調査事業団によれば、石川原遺跡を覆った泥流には、2メートルを超す巨礫をはじめ、大小の礫が入り混じり、畑跡には礫が挟まり込んだ流線形の凹面が多く見られ、天明泥流によるこの地のダメージの大きさに驚かされたといいます。
これは、吾妻川(写真右)がこの地点で対岸の天狗山の山塊にあたり、流路を変える場所に張り出した舌状台地という地形が原因と考えられます。泥流の礫だけでなく、石川原遺跡の基盤にも多量の礫があり、それが遺跡の名前の由来でもあります。

 下記の群馬県文化財保護課の解説によれば、今回出土した二体(1号人骨と2号人骨)は、「建物内で泥流に被災して犠牲になった可能性」が考えられるということですから、川原湯地区の14名の犠牲者と関係があるのではないでしょうか。
 群馬県のサイトには、出土した人骨とその背景についての詳しい解説と、遺跡現場の写真等が掲載されています。泥流に押しつぶされた屋敷跡とともに出土した人骨は、災害が襲った瞬間の恐怖を蘇らせるようです。屋敷跡の周辺には、八ッ場ダム予定地の天明遺跡の至る所で見られる畑の畝跡が写っています。 

 群馬県公式サイトより、地図と写真2点含めて転載します。
 http://www.pref.gunma.jp/houdou/x46g_00027.html
 【7月9日】石川原遺跡で天明泥流下から人骨を発見(文化財保護課)

1 出土遺跡の概要
遺跡名:石川原(いしかわら)遺跡
調査要因:八ッ場ダム建設工事に伴う調査
調査主体(委託者):国土交通省関東地方整備局八ッ場ダム工事事務所
受託者:公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団
調査期間:平成30年4月から平成30年7月まで(予定)

2 内容
6月26日に、八ッ場ダム建設に伴って発掘調査を実施している長野原町川原湯地区の石川原遺跡で、天明三年(1783)の浅間山の噴火に伴って発生した天明泥流で倒壊した建物の中から、泥流に被災して亡くなったとみられる人骨が発見されました。


人骨は、27号建物とした建築部材が残っていた建物内から出土しました。
1体(1号人骨)は頭蓋骨が検出されたもので、他の部位が残っているかは現状では確認できていません。もう1体(2号人骨)は頭蓋骨と下顎骨で、西側に1mほど離れた位置から出土した下肢骨とみられる骨も同一の可能性があります。どちらも形質学的な調査前であるため、年令、性別、身長などはわかっていません。
4月17日にも、今回人骨が出土した建物北東の泥流に埋もれた畑の面から骨(3号人骨)が発見され、人骨の可能性があったため形質学的な調査を行っていました。その結果人骨の一部であることが確認されました。
3号人骨は、左寛骨(ひだりかんこつ)と左足の大腿骨(だいたいこつ)・脛骨(けいこつ)・腓骨(ひこつ)・足根骨(そっこんこつ)・中足骨(ちゅうそっこつ)で、ほかに部位不明の骨もわずかに出土しました。大腿骨などが華奢であることから女性である可能性があるものの、性別を特定できる部位がないため正確に判定することはできませんでした。骨の状況から、16~20才以上の成人である可能性が高く、大腿骨などから、女性であった場合は身長151cm以上、男性と仮定すると身長153cm以上と推定されます。

3 要点
天明三年浅間山噴火の犠牲者が発見されたのは、1987年以来、およそ30年ぶりのことです。
建物内から発見された1号人骨と2号人骨は、建物内で泥流に被災して犠牲になった可能性が考えられます。
3号人骨と1・2号人骨との関係は現状では確認できていません。
3号人骨は左足だけで、周辺に他の部位も多少存在した痕跡がありましたが、全身が埋もれていたとは考えにくい状況であることから、他の場所で被災して体の一部が発見場所に泥流で流されてきた可能性もあります。

【補足説明】
天明泥流は、天明三年(1783)新暦8月5日の浅間山の大噴火に伴って、浅間山北斜面に起こった大規模な土石なだれが吾妻川に流れ込み発生したと考えられ、被害は吾妻川から利根川沿いの村々にもおよびました。
天明泥流の犠牲者の数は、長野原町では440名とされ、吾妻川と利根川流域を含めると1500名以上にのぼりました。
発掘調査に伴って発見された天明三年の浅間山噴火に伴う犠牲者は、浅間山麓埋没村落総合調査会が1979年に実施した調査で、鎌原村の十日ノ窪で1体、観音堂階段下で成人女性2体と、1987年の嬬恋村による延命寺跡(鎌原地内)の調査で発見された壮年期の男性1体が知られています。
石川原遺跡は、JR吾妻線の川原湯温泉駅の北側の段丘面に立地し、約97,000平方メートルに及ぶ範囲の調査で、天明泥流に埋もれた近世の寺院や建物、道、畑などのほか、平安時代や縄文時代の竪穴建物なども多数発見された複合遺跡です。

4 問い合わせ先
公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団
 八ッ場ダム調査事務所
 電話 0279-76-8040

5 その他
 一般公開はありません。

—転載終わり—

写真=上湯原のかつての風景。樹木の伐採と発掘調査が進み、面影は失われた。2016年5月13日撮影。

写真=遠くに聳える橋は湖面橋となる不動大橋。道の駅「八ッ場ふるさと館」の脇にある。不動大橋からは石川原遺跡がよく見える。2014年4月15日撮影。

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