「八ッ場ダム周辺を歩く」(長崎新聞のルポ)

長崎新聞の記者が八ッ場ダム予定地を取材した長大なルポが、同新聞のサイトに掲載されています。長崎新聞の読者によれば、紙面記事は一面と十六面に大きく掲載されているそうです。

 八ッ場ダムのニュースと言えば、首都圏や全国のテレビ放送では、ダム本体工事のスケールの大きさや見学会の盛況ぶりを伝える、似たりよったりの情報ばかりが発信される昨今ですが、この記事はダム事業が水没住民にとっていかに過酷なものであるかを、ダム湖予定地周辺の代替地に移転した住民を取材して伝えています。
写真右=住民が少なくなった水没予定地をトラックが砂塵を巻き上げて走っていた。2015年11月4日撮影。翌2016年3月には、すべての水没住民が立ち退きを余儀なくされた。

 長崎県では八ッ場ダム同様、半世紀も続く石木ダム事業があります。石木ダム予定地では13世帯の住民が団結してふるさとを守り続けています。
しかし、長崎県は強制収用を可能とする事業認定手続きを進め、過大な水需要予測を立てる佐世保市もダム推進です。事業認定の取り消しを求めて提訴した住民らに対して、長崎地方裁判所は7月9日、原告側敗訴の判決を下し、「代替地に移れば地域コミュニティーの再現は可能」との判断を示しました。
(写真右=石木ダム予定地にて。2015年10月22日。)

 ダム予定地では当初は多くの住民がダムに反対するのが通例です。しかし、潤沢な資金(税金)と歳月をかけての切り崩しが成功すれば、地域は分断され、人間関係も人の心もずたずたにされ、ダム事業が進みます。
八ッ場ダム予定地の現状を見れば、長崎地裁の判断が絵空事であることがよくわかります。
(写真右=八ッ場ダム水没予定地の川原湯温泉・元の湯源泉が湧出する王湯跡周辺は、コンクリートで埋め立てられた。2018年9月30日撮影)

八ッ場ダムに関係のある首都圏の方々にこそ読んでいただきたい記事です。

◆2018年10月14日 長崎新聞一面
https://this.kiji.is/424008333595690081?c=174761113988793844
ー八ツ場ダム周辺を歩く・1 集落取り壊され跡形なくー

緑の谷あいを巨大な壁がふさいでいた。高さ116メートルのうち、およそ8割が完成したという。そばのタワークレーンが小さく見えた。群馬県長野原町で国が進める八ツ場ダム。来年度末の完成に向け、建設工事は大詰めを迎えていた。
見学用に国が整備した展望台にはひっきりなしに人が来た。東京都の男性(34)は「ちっぽけな人間が大自然に建造物を造るスケール感がたまらない」と興奮気味にカメラを向けた。
国土交通省は、橋やダムなど大型公共施設で普段は立ち入れない現場を公開する「インフラツーリズム」を進める。八ツ場ダムの見学ツアーは昨年度から本格的に始まり、年間約2万9千人が参加。本年度は9月末ですでに3万人を突破した。展望台も開設3年で40万人近くが訪れ、盛況だという。
堰堤(えんてい)から1キロほど上流にある湖面橋「八ツ場大橋」から水没する谷あいを見下ろした。かつての集落は取り壊され、跡形もない。建材運搬のため活用しているJR吾妻線の旧線路と鉄橋が辛うじて生活の面影を残していた。
ダム湖の周りには、水没地区の住民のため移転代替地が点在している。橋に近い一角に真新しい一軒家がぽつんと立っていた。「ここしかいい場所がなくてさ」。家主の高山彰さん(65)がそう言って鍵を開けた。ギリギリまで移転を拒んだが、2016年3月に立ち退いた。水没予定地で最後の住民だった。

県と佐世保市が東彼川棚町に計画する石木ダム建設事業では、ダムの公益性を訴える県市と「故郷を奪うな」と抵抗する反対住民13世帯の対立が続く。ダム事業は地域に何をもたらし、何を奪うのか。約470世帯が移転した土地で完成を控える八ツ場ダムの周辺を歩いた。

完成が大詰めを迎える八ツ場ダム=群馬県長野原町

◆2018年10月14日 長崎新聞 16面
https://this.kiji.is/424011423523587169?c=174761113988793844
ー八ツ場ダム周辺を歩く・2 変わるまち 思い交錯ー

群馬県長野原町の八ツ場ダム水没予定地で最後の住民だった高山彰さん(65)は8月、国が造成した代替地に新居を建てた。中はがらんとしていた。今は町外で、兄の世話をしながら暮らしているという。「かみさんや娘とは別居中だから、いずれ独りで住む」と淡々と話した。
移転の対象となったのは▽川原畑▽川原湯▽林▽横壁▽長野原-の5地区の470世帯。このうち堰堤(えんてい)に近い川原畑と川原湯は全域が水没し、反対運動が激しかったとされる。温泉街の川原湯では、生活基盤である温泉源が沈むのも重大な問題だった。

そこで群馬県は、ダム湖沿いの高台に代替宅地を造成し、地区ごとに移転する「現地再建(ずり上がり)方式」を提案。1985年、地元が合意したのをきっかけに反対運動は収束に向かった。

高山さんは、ダム計画が持ち上がった52年の翌年に生まれ、川原畑で育った。賛否を巡って地域や家族が分断され、疲弊するのを目の当たりにした。自らは、半ば諦めていた。
だが2009年に政権が民主党に変わり状況が一変した。当時の前原誠司国土交通相が建設中止を宣言すると、小さなまちは「政権交代の象徴」になった。押し寄せた報道陣の前で正直な気持ちを明かした。「ふるさとは親のようなもの。ダムに沈まなくなるのがうれしい」。ただ、すでに多くの人々が計画を受け入れていた。父親には「面白がるな」ととがめられ、娘には「周りの空気読んでよ」となじられた。
結局、民主党は11年に中止方針を撤回。自公政権の復活後、国は土地の強制収用を可能にする事業認定を申請し、本体工事に着手した。未買収の土地はどんどん減り、自宅近くの国道も閉鎖された。「まるで脅されているようだった」と振り返る。
事業認定手続きの公聴会には喪服姿で出席した。「権力の思い通りにはならない」という、せめてもの抵抗だった。事業認定が告示される直前の16年2月、土地の買収に応じる契約を結んだ。
2階の窓からは建設中の堰堤が見えた。「完成したダムを眺めて、涙を流しながら老後を過ごすさ」と皮肉っぽくつぶやいた。

川原畑の代替地から八ツ場大橋を渡ると、川原湯の代替地に行き着く。県が新たに源泉を掘削。代替地に湯を引き込み、温泉街の移転を可能にした。移転対象は5地区で最も多い201世帯(1980年当時)。「既存の地域コミュニティーを保持できる」というのが「ずり上がり方式」の触れ込みだったが、実際に移ったのは31世帯。人口は4分の1に減った。
レストランを訪ねると、店主の水出耕一さん(64)が、移転前の川原湯の地図を見せてくれた。地図上の旅館や住宅が赤ペンで塗られている。集落から人が出るたびに塗ったという。

代替地に移転する前の川原湯の地図や写真集を広げ、当時を語る水出さん=群馬県長野原町
2001年、水没予定地の住民と国は補償基準に調印したが、難工事で代替地の造成が遅れたことなどが影響し、多くが完成を待たずに故郷を後にした。「昨日まで普通に世間話していた人が、翌日いなくなる。しまいには自宅に戻る道中に家がなくなり、お客さんも来なくなった」。食堂の経営は厳しくなり、一度は休業して、働きに出た。14年末に代替地に移り、店を再開したという。
20軒近くあった旅館は5軒に減り、03年まで年間20万人近くだった観光客数もここ5年は5万~6万人でかつてのにぎわいには程遠い。「正直、こんなに人が出て行くとは思わなかった。それでも、どんどん人がいなくなり空気がよどむようだったあのころと比べれば」と前を向く。
川原湯温泉協会の会長、樋田省三さん(54)は「新しい川原湯ができるまで、時間がかかるだろう」と話す。ダム見学ツアーの好調で、にぎわいの兆しも見えてきた。「これから生まれる子どもは、今の川原湯がふるさとになる。彼らが自慢できる町にしなくては」

ダム湖周辺は付け替え道路や代替地の工事が進み、変貌しつつあった。激変するふるさとに割り切れない思いを抱える住民もいる。代替地に住むSさんは、匿名を条件に取材に応じた。
自宅は、かすかに新築の香りがした。「立派な家ですね」と無意識に出掛けた言葉をのみ込んだ。「役に立つことは言えないと思う」と控えめなSさんに、記者は石木ダムの状況を伝えた。国の事業認定告示後も13世帯が現地で暮らしていること。収用手続きが進み、宅地を強制的に取り壊す行政代執行が現実味を帯びていること。住民らが望みを託した司法もダムの公益性を認めたこと…。
聞き終えたSさんは静かに語った。「13世帯の人たちは正しいと私は思う。あの家を諦めて、手放したことが今でも悔しい」
補償内容の説明に来た国交省職員に「こんな田舎の土地でこれだけのお金は普通出ませんよ」と言われた。「お金で買えないものをお金に換えさせられた。すきま風が吹き、ほこりだらけだったあの家を取り戻せるなら、喜んで全て返すのに」と、膝の上でぎゅっと拳を握り締めた。
今も、前の家の夢を見る。目が覚めて新しい天井を見たとき、たまらなく寂しい。カーナビに登録した移転前の自宅をいまだに消すことができない。Sさんが帰りたいわが家は、夢の中か、画面の中にしかないのかもしれない。「こんな気持ち、分からないでしょう」。不意に問い返された。メモ帳に目を落としたまま、記者は何も答えることができなかった。

—転載終わり—

上記のルポには、以下のインタビュー記事が添えられていました。長崎県の読者から送っていただいた切り抜きです。