首都圏で唯一建設中の「八ッ場ダム」工事(フライデーの辛口記事)

 国土交通省が連日開催している本体工事見学会を各メディアが競うように取り上げています。
 現地の自然景観とダム事業のスケールの大きさは、見る者を圧倒します。写真映えする風景もメディア向きということでしょうか。

 フライデーも八ッ場ダムの本体工事を取り上げていますが、それと同時に、ダム湖予定地周辺に大規模造成された水没住民の代替地の問題も取り上げています。
 この問題は、八ッ場ダムの事業費増大、工期延長と深く関係しているだけでなく、ダム湛水による代替地の安全性という、八ッ場ダム事業が直面している課題とも繋がっています。「現地再建ずり上がり方式」による水没住民の生活再建策は、「生活再建関連事業」の肥大化を招き、事業費の9割以上を生活再建関連事業が占める八ッ場ダムは、全国一高額なダム事業として知られるようになりました。多額の税金を投入した結果、地域は人口流出と過剰なインフラの維持管理に苦しむことになりました。八ッ場ダムが未来にわたって抱える問題は、本体工事終了後、ようやく知られるようになるのかもしれません。
写真右上=建設中の八ッ場ダムに隣接する川原湯地区の打越代替地の最下流部、大栃沢の造成地。旅館や飲食店、住宅が並び、ダム工事現場に隣接して川原湯地区の共同墓地がある。2018年11月14日撮影。

 記事の最後では、全国各地でダムのイメージ向上のために提供されているダムカレーについても、地元の道の駅駅長による辛口の言葉で〆ています。

◆2018年11月14日 Yahoo!ニュース *11/2に発売されたフライデー(11/16号)の記事です。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181115-00010000-friday-soci
ー首都圏で唯一建設中の「八ッ場ダム」工事 ついに村が水底に沈むー

 首都圏唯一の建設中ダム
「八ッ場(やんば)ダムの計画が立ち上がったのは昭和27(1952)年。ここまで66年間もかかっていますが、現在は24時間体制で順調に工事が進んでいます。堤高116mのダム本体は8~9割が打設済みとなりました。完成は’20年3月を予定していますが、その前に試験湛水もあります。ダム完成時に水没する地域を見ることができるのは、あと少しということになります」(国土交通省関東地方整備局・八ッ場ダム工事事務所の遠藤武志副所長)

 ’09年9月には前原誠司国交相(当時)が建設中止を表明した八ッ場ダム。だが’11年12月には条件つきながら事業継続方針が決定し、’15年2月にダム本体が起工、現在は最終工程に入っているのだ。

 関越自動車道・渋川伊香保インターから車で約1時間、付け替えられた国道145号線の雁ヶ沢(がんがさわ)・茂四郎(もしろう)トンネルを抜けると建設中のダムが見えてくる。ダムの周囲には巨大なクレーンがアームを伸ばし、時折、重機がつり下げられる様子も窺える。

 現在、常時400人以上がダム建設に従事しており、完成時に水底になる場所には工事のための仮設プレハブなどが建ち並ぶ。なかでも目を引くのが、長大なパイプ状の建設物だ。

「これは、ダムの骨材を運ぶベルトコンベヤです。八ッ場ダムの本体は100万平方mのコンクリートを必要とするため、その原材料となる岩を近接の原石山から切り出し、約10kmにわたって敷設されたベルトコンベヤでダム真横まで運搬してきて、ここでコンクリート状にしてダムに流し込むのです。このベルトコンベヤも仮設構造物も、ダム完成時にはすべて撤去します」(前出・遠藤氏)

 ダム完成時に巨大な湖となる場所には、両岸を結ぶ湖面橋が3本かかっている。一番ダムに近い八ッ場大橋の橋桁には、かなり上部に2つのマーカーがついており、上がダムの高さ、下が満水時の湖面高を表している。この高さまで水が貯まることになるのだ。

 八ッ場ダムは、計画当初から地域住民の激しい反対運動に遭い、計画は難航した。なかでも地域のシンボル的存在だったのが、800年の歴史を誇る川原湯温泉だ。温泉街の中心地でもあった共同浴場・王湯は、新たな代替地の高台に移転した。しかし「温泉街」の風情はそこにはまったくない。

 かつて川の両側には川原畑地区と川原湯地区の集落など計470世帯の家屋があったが、それらはすべて解体されて更地となってしまった。ダムの上流側には145号線の旧道、そして旧JR吾妻線の鉄橋が、わずかに人里の名残を留めているだけだ。鉄橋はそのままダムの底に沈むが、現在はまだ敷設されたままの枕木は水質保全のため、注水前には取り除かれる予定だという。

 八ッ場ダム建設では水没地域の住民対策として、「現地再建方式」がとられた。用地を買い上げて別の地域に移転してもらうのではなく、コミュニティを保全できるよう、移転代替地をダム湖畔沿いの高台に建設。いわば村ごとスライドしてもらう方式だ。だが、この方式も上手くいったとは言いがたい。この地で4代にわたり農家を構え、以前はダム対策委員長を務めていた篠原茂氏が言う。

「結局、470世帯のうち代替地に移ったのは94世帯。国交省が俺らの土地を安くない値段で買い取ってくれたけど、その後、国が整備した代替地を買わなきゃいけない。その値段が高くて驚きました。なんでこんなに高いんだと聞いても、納得できる答えはもらえなかった。周囲にはダムのおかげで儲かったろうなんて陰口を叩かれたけど、本当にこの地に愛着があって残った人間には全然カネなんて残らなかった。こんな寒村の土地を売って市街地の家が買えるんだから、皆、そっちに行っちゃうのも仕方ありません」

 篠原氏は、細々と続けていた農業をやめて、湖面2号橋・不動大橋のたもとに作られた道の駅『八ッ場ふるさと館』の駅長となった。ダムの進捗につれて来客も増え、農産物直売コーナーの売り上げは地元経済を潤している。

「ここの名物は、ダムを模した『八ッ場ダムカレー』。辛口です。国に翻弄された住民の気持ちも入ってるから(笑)」

 PHOTO:桐島 瞬

—転載終わり—

写真下=八ッ場大橋(湖面橋)より、名勝・吾妻峡でコンクリート打設中の八ッ場ダムを望む。湖面橋の影が十字架の様に落ちている水没予定地。吾妻川の右手には、ダム本体工事が始まる2014年まで、吾妻峡を訪れる大勢の観光客が利用したJR川原湯温泉駅があり、駅周辺には飲食店や住宅が立ち並んでいた。2018年11月14日撮影。

写真下=道の駅八ッ場ふるさと館の脇の不動大橋(湖面橋)から下流側を望む。黄土色の土がむき出しになっている正面の土地は、川原湯地区の農村地帯であった上湯原。かつて30世帯余りの住民が暮らしていたが、2015年に最後の住民が代替地へ移転した。群馬県の発掘調査によって、上湯原地区一帯に広がる石川原遺跡から、縄文時代~江戸時代天明浅間災害までの歴史遺産が重層していたことが判明している。2018年11月14日撮影。

写真下=上湯原の石川原遺跡。発掘調査が終了した所にはミキサー車が並んでいる。

写真下=石川原遺跡の発掘調査。上湯原の遺跡は、背後の金鶏山から流れてきた石や天明泥流とともに流れ着いた礫や岩が多いことから、石川原遺跡と命名されたという。2018年11月14日撮影。