八ッ場あしたの会は八ッ場ダムが抱える問題を伝えるNGOです

県埋文事業団、長野原町で八ッ場ダム発掘調査の発表会

 昨日、八ッ場ダム予定地を抱える長野原町で、八ッ場ダムに関わる発掘調査の発表会が開かれました。
 今朝の朝日群馬版と上毛新聞が発表会の内容とともに、八ッ場ダム水没予定地域の遺跡数は66、延べ百万平方メートルに及ぶことを伝えています。

 これらの遺跡は、発掘調査後は埋め戻され、遺物等を記録保存されます。ダム事業用地として道路等に利用されているところもありますが、広大な遺跡が水没することになります。
 群馬県からの開示資料をもとに、遺跡の情報をまとめた表を以下のページに掲載しています。
 https://yamba-net.org/wp/wp-content/uploads/2018/10/54d240b39aff8c1016837184b2fbff00.pdf

 以下、紙面より転載します。

◆2018年12月3日 朝日新聞群馬版
https://digital.asahi.com/articles/ASLCX7FPWLCXUHNB013.html?_requesturl=articles%2FASLCX7FPWLCXUHNB013.html&rm=386
ー前例ない大規模発掘 大詰め 八ツ場ダム水没予定地調査 天明泥流直前の暮らし確認ー

  国が建設を進める八ツ場(やんば)ダム(群馬県長野原町)の水没予定地周辺で遺跡の発掘調査が25年近く続く。その成果を紹介する発表会「発掘された八ツ場の軌跡」が2日、町山村開発センターであった。1783(天明3)年の浅間山噴火による天明泥流で埋もれた被災集落など、調査した遺跡数は66、県内では過去に例のない延べ百万平方メートルに及ぶ。ダムの2019年度末の完成に向け、調査は大詰めを迎えている。

 調査を担当した県埋蔵文化財調査事業団によると、東京ドーム約21個分に相当する面積の発掘調査は1994年度にスタート。縄文時代草創期から江戸時代までの地域の歩みを伝える貴重な遺跡が確認された。

 注目を集めたのは、吾妻川流域の家々をのみ込んだ天明泥流の被災遺跡。発掘総面積の6割を占めた。発表会では、川原湯地区の石川原遺跡と、川を挟んだ対岸の川原畑地区の西宮遺跡が紹介された。

 石川原遺跡は吾妻川右岸の段丘に広がる。浅間山から直線で約22キロ。段丘面には2~3メートルの土砂の堆積(たいせき)があり、直径3メートルほどの巨石もあった。集落の屋敷の母屋、蔵、納屋、寺の本堂・庫裏など56棟を確認。当時の生活を伝える家財道具や柱、床材などの貴重な資料も出土した。人骨も見つかっている。

 吾妻川左岸の河岸段丘の緩斜面にある西宮遺跡でも被災直前の集落の様子が分かってきた。町道の下で見つかった江戸時代の幅2メートルの道は、当時の幹線道路とみられ、母屋11棟や便所、石垣、水路、畑、水田も確認された。漆塗りの椀(わん)や桶(おけ)、櫛(くし)などの生活道具が出土。機織りで経糸を固定する経巻具(たてまきぐ)は「特筆すべき出土」だという。

 被災遺跡では畝(うね)の間が約40センチと狭い同じ形態の畑が広域に見られた。稲作に匹敵する換金作物を生産した可能性があるという。麻の産地の東吾妻町岩島地区が近いため、「一つの考え方」として麻を例に挙げた。

 この日は、縄文時代のムラの様子や暮らしの報告もあった。遺跡の大半を掘り進めると縄文の集落が確認された一方、他地域で稲作が本格化した弥生・古墳時代の痕跡はなく、稲作に適さない環境の影響と推定された。だが、平安時代の集落は数多く見つかった。その理由は定かではないという。狩猟用の落とし穴が多数見つかったことから、貢ぎ物としての獲物を得るために移住してきたという見方も示された。

 事業団現地調査事務所の藤巻幸男所長は「教科書で習う日本史とは、各地域で少しずつ違いがある。調査で見えてきたこの地域の特性を見てほしい」と語った。遺跡は原則、記録保存で、町は水没文化財を紹介する施設を19年度にも開設。天明泥流の被災状況や復興に焦点をあてた展示を予定している。(泉野尚彦)

◆2018年12月3日 上毛新聞
ー八ッ場発掘跡で地域事象を解明 長野原ー

 県埋蔵文化財調査事業団の調査遺跡発表会「発掘された八ッ場の遺跡」が2日、長野原町の山村快活センターで開かれ、八ッ場ダム建設に伴う発掘調査について、研究員らがこれまでの成果を発表した。

 基調報告で、同事業団八ッ場ダム調査事務所の藤巻幸男所長は「この地域特有の事象が明らかになってきた」とし、本県では珍しく古墳時代の集落が見当たらないことを挙げた。
 
 その後は同事業団の研究員ら7人が縄文、平安、江戸の各時代を代表する遺跡について発表。地域住民ら約170人が訪れ、熱心に耳を傾けていた。

 八ッ場ダム建設関連の調査は1994年度に開始され、これまでに延べ面積約100万平方メートル、66ヵ所の遺跡を調べた。発表会は同事業団が毎年開いている。

—転載終わり—

写真下=天明泥流に埋もれた被災者の人骨が出土した石川原遺跡は、川原湯地区の農村地帯であった上湯原の全域に広がっていた。かつての上湯原は、30世帯以上の住民の暮らしの場だった。
 来年のダム湛水を控え、発掘調査は大量の作業員を投入し、急ピッチで進められてきた。発掘調査はダム事業のタイムスケジュールに合わせて進めなければならず、調査が終了し、埋め戻された土地は土がむき出しになっている。上湯原の左手に吾妻川が流れ、写真奥に八ッ場ダムのダム堤が見える。2018年11月27日撮影。