大寒1月20日に行われる川原湯温泉の湯かけ祭り。
朝日新聞が80年も前の湯かけ祭りのビデオを公開しました。わずか1分余りの映像ですが、当時の川原湯温泉の様子を伝える貴重な記録です。
◆2019年2月12日 朝日新聞
https://digital.asahi.com/articles/ASM1P3K39M1PUHNB001.html
ーダムに沈む温泉街に響く歓声 湯かけ祭り、80年前の姿ー
記事によれば、朝日新聞社が子ども向けに作製した映像ニュース朝日ホームグラフの映像とのことです。
「アサヒホームグラフ(当初はアサヒコドモグラフ)は、朝日新聞社が1938~43年に制作した子ども向けニュース。映画館などで上映され、フィルムは戦後、連合国軍総司令部(GHQ)に接収されるなどして米国に渡った。その後返還された32回分が、国立映画アーカイブ(旧・東京国立近代美術館フィルムセンター)に所蔵されている。朝日新聞が数年前から調査・整理を進めてきた。」
上記サイト(有料)では、第二次大戦開戦前の1940年頃の動画「川原湯温泉湯かけ祭 群馬縣」(1分17秒)を見ることができます。
冒頭の湯かけ太鼓の場面は、水没地にある川原湯温泉の源泉(元の湯)を囲む石垣の脇で打ち鳴らされているようです。早鐘のように鳴る太鼓の響きに続いて、川原湯神社の参道の坂道を駆け上る、下帯姿の若者たち。手に掲げたたいまつが暗闇の中でくっきりと見えます。
(写真右=若者たちが駆け上った川原湯神社の参道の石段。2017年5月30日撮影。)
湯かけ祭りの合間に挟まれた映像は、省営自動車の停留所の看板です。行き先の地名が群馬原町、中之条、渋川、長野原、上州草津、上州三原、真田などと読めます。
この映像より10年ほど前の1930年夏、川原湯温泉の周辺では大雨が降り続き、対岸の川原畑の街道で地すべりが発生しました。このため、1933年、吾妻渓谷の上流端に八ッ場大橋が架橋され、街道は川原湯温泉を迂回して通るようになりました。1935年に省営自動車が開通し、川原湯温泉に停留所ができました。路線は吾妻川の源流・鳥居峠を越えた長野県の真田まで通じており、真田からは上田への路線がありました。吾妻渓谷が「吾妻峡」として久慈の名勝に指定されたのも1935年のことです。
まだ吾妻線も自家用車もなかった時代です。川原湯温泉は交通が格段に便利になり、吾妻峡の名声と相俟って活気を呈していたことでしょう。東京の新聞社が湯かけ祭りを取材したのも、そうした時代だったからかもしれません。
湯桶を手に次々と若者たちが共同湯・王湯から雄叫びを上げながら温泉街へ飛び出し、湯をかけ合う姿の背後には、温泉の湧出口や共同湯・王湯、そして敬業館、高田屋、柏屋の老舗旅館が立ち並ぶ温泉街の風景も映し出されています。旅館はいずれも木造、低層で、そのぶん、温泉街は広々として見えます。湯かけ祭りを見物する住民は、お年寄りも子供もみな着物を重ね着しているようです。
地元の古老の話によれば、第二次大戦開戦当時、川原湯地区の戸数は50戸足らずでした。当時の若者は、出征時、川原湯神社でお参りをして、神社に集まった住民に見送られたということです。
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〈ナレーション〉
群馬県の山奥、吾妻渓谷の川原湯温泉には、今でもこんな面白い風習が残っています。
寒中行われる、年に一度の湯かけ祭り。
どんどんと打ち出す太鼓を合図に、真っ裸の若者たちは、まず温泉神社に祈願をこめた後、紅白二組に分かれて、おめでとうの掛け声も勇ましく、互いに温泉の湯をかけ合う、湯かけ祭りを始めます。
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この短いナレーションと映像からも、吾妻渓谷と川原湯温泉と川原湯神社が一体のものであり、湯かけ祭りはこれらを統合する象徴的な役割を担う年中行事であったことがわかります。
上記サイトの冒頭の動画では、80年前の映像に見入る現在の川原湯温泉の人々の姿が映し出され、映像についての感想が紹介されています。
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樋田省三さん(川原湯温泉協会長)「手ぬぐいの頭に巻いているのは揃えているし、タイムスリップして見てみたい。(ダムで)場所が変わっても、お湯が枯れない限り、続けていくのは当然でしょうし、5人小学生出たけど、たぶん、どっかで離れるんですけど、あっ、湯かけには帰ってこようかって行って来てくれるような祭りにしたら成功なんですかね。」
小学生「鳥居の近くでお湯をかけ合っていたなんて、知らなかったです。」
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川原湯神社は水没地より標高の高い所にありましたが、町道建設のため、上湯原の県道の脇に遷座しました。
川原湯温泉は現在、ダム堤右岸側の打越代替地に移転しています。八ッ場ダムの水没地にある川原湯温泉の源泉(元の湯)周辺で長年行われてきた湯かけ祭りも、2015年以降、源泉や神社から遠く離れた代替地で行われるようになりました。
(写真右=解体前の川原湯神社。2017年3月24日撮影。)
写真下=かつて湯かけ祭りが行われていた川原湯温泉の源泉湧出口周辺。現在、八ッ場ダムに水没する湧出口を保護するための井筒工による対策工事が進められている。
写真下=水没予定地にあった川原湯温泉の敬業館みよしや旅館の解体。背後に聳えるのは柏屋旅館。2011年1月15日撮影。
80年前の映像では、いずれも木造・低層の建物だが、戦後、川原湯温泉の隆盛に伴い、建て替えられた。敬業館は吾妻渓谷を愛した若山牧水が1920年5月に10泊した老舗旅館だが、戦後、所有者だった有力者が手放し、解体当時は土建業者の所有になっていた。