八ッ場あしたの会は八ッ場ダムが抱える問題を伝えるNGOです

「八ッ場の縄文時代」展、ギャラリートーク

 さる6月23日、『八ッ場の縄文時代』展を開催中の県埋蔵文化財調査センターで、展示内容についての解説がありました。
 講師の藤巻幸男さんは、群馬県埋蔵文化財調査事業団で縄文時代を専門としており、現在は、八ッ場ダム事業用地の発掘調査を国交省から委託されている八ッ場ダム調査事務所の所長を務めているとのことです。
 展示会場でのギャラリートークの前には、研修室でスライド映写と合わせて講演が行われました。

 藤巻さんのお話の内容に写真等を添えてお伝えします。
(*は当会による)

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 八ッ場の発掘調査が始まって、四半世紀になります。
 八ッ場ダム予定地のある西吾妻地域は、長野県と境を接し、北の方では一部、新潟県とも接しています。
 この地域の特徴は、峠に囲まれている、群馬県では珍しい地形だということです。どこから行くにも峠を越えなければならない、峠を越えると温度が下がる、一番寒い時はマイナス14度にもなりました。したがって稲作には向いていない土地です。 

 八ッ場のある長野原町では、ダム調査前 知られていた遺跡が10数か所ありました。ところが、八ッ場ダムの発掘調査を始めるに際し、長野原町が町全域で詳細調査を行ったところ、200か所もの遺跡がみつかりました。そのうち半分が縄文遺跡。半分が平安時代の遺跡でした。この時点では、その後、注目されるようになった江戸・天明期の浅間山大噴火で発生した泥流下の遺跡が八ッ場にあることは、まだわかっていませんでした。

■ 縄文時代の生活様式に適していた八ッ場の自然環境
 八ッ場ダム事業で発掘調査の対象となった土地は標高520~550㍍、東西約6㌔です。平坦面は限られていますが、バックボーンの山は奥行きがあり、自然環境が豊かです。
 水没予定地にあった八ッ場ダム調査事務所では熊、イノシシをよく見ました。カモシカは発掘調査をしている所のすぐ近くに姿を現します。
 真水を飲める沢があり、背後に広大な山がある、1万年に及ぶ縄文時代、自然を相手に生活していた人々にとって、八ッ場は平野よりはるかに住みよい土地でした。
(*写真右=2011年8月24日撮影。林地区の水田を潤した久森沢の右手に八ッ場ダム調査事務所、左手に八ッ場ダムの資料館(やんば館)。調査事務所のあった所は、2002年まで長野原第一小学校があった土地。2019年6月現在、調査事務所の建物は解体されている。)

 遺跡の出土した時期をまとめた表(右)を見ると、日本列島の歴史の中で縄文時代が一万年以上と大変長く続き、その後の時代は縄文時代に比べてずっと短いことがわかります。
 八ッ場では縄文草創期の遺跡もわずかながら出土しています。楡木Ⅱ遺跡(林地区)では、早期の最初、撚糸文期の竪穴建物が33も出土しています。
右表=ギャラリートークの資料より 「八ッ場ダム建設工事関連主要遺跡の一覧」
左側の赤い棒線が縄文時代を示している。黄色で示されているのが弥生時代。

■ 八ッ場沢の脇にある岩陰遺跡
 八ッ場ダムの名称は、吾妻川の右岸から流れ込む八ッ場沢からきています。八ッ場沢はもともとは水量が多い沢ですが、今は沢の奥の方が整備され、水量が減っています。
 今、ここ(展望台「やんば見放台」の下)の岩陰で遺跡(*)の発掘調査を行っています。危険な場所なので、全部調査できるわけではありません。
(*ダム堤のすぐ上流側の水没地にある石畑Ⅰ岩陰遺跡。
右写真=八ッ場ダムの本体工事が始まる前の、2014年4月12日撮影。八ッ場沢に架かる鉄橋を下流方向に走るJR吾妻線の普通列車。列車の背後に岩陰遺跡の大岩。)

■ 関東と長野を取り持った八ッ場地域
 八ッ場で出土する縄文土器は、関東系と長野系がだいたい半々の割合です。群馬県の発掘調査をしてきた我々にとって、当初は渦巻紋を多用するなどの特徴がある長野系の土器は見慣れぬものでした。縄文土器だけでなく、八ッ場では平安時代の須恵器も両方が出土しています。
写真右=「八ッ場の縄文時代」展、展示品より。林中原Ⅱ遺跡で出土した縄文時代中期の土器。

 八ッ場の住民は、関東と信州の両方に足をついた生活を営んでいた、どちらにも属さず、間をとりもつ存在でした。関東地方と長野県の両方のものが行きかう物流の場でもありました。
 これまで関東と長野のいずれの地域でも、何十年も研究してきてわからなかったことが、八ッ場の発掘調査で両方を突き合わせることでわかってきました。それぞれの土器が同じ所から出土していれば、ああ、同時代の土器だったのだと確認できます。

 縄文遺跡で必ず出土するものに、黒曜石と翡翠があります。黒曜石は火山がつくった天然のガラスで、八ヶ岳山麓が一大産地です。翡翠は新潟県と富山県の県境を流れる姫川が産地です。 
 産地から遠い遺跡でも黒曜石や翡翠が出土するのは、縄文人がかなり広範囲で交流していたからです。遠くの人々は産地に足を運んだわけではなく、貴重なものは広域で流通していました。祭祀の場が流通の場でもあった可能性があります。
(*写真右=黒曜石の矢じり。考古学者の勅使河原彰さん提供。)

■ 五つの代表的な遺跡
 八ッ場には水没五地区といわれる五つの集落があります。今回の展示では、各地区の代表的な5つの遺跡を紹介しています。
 八ッ場は平坦で居住に適した土地が限られていたせいもあってか、これらの遺跡では当時の人々が移住せずに、同じ土地に千年以上住み続けました。
 長野原地区の長野原一本松遺跡は、水没住民の移転代替地の造成工事に伴い、平成6年から発掘調査を行った所です。やはり平成6年から発掘調査が始まった横壁地区の横壁中村遺跡(*写真右)も、今は代替地になっている場所です。林地区の林中原Ⅱ遺跡は国道の付替え工事がらみで、平成20、21年度に発掘調査を行いました。

 川原湯地区の石川原遺跡と川原畑地区の東宮遺跡は、水没予定地にあります。当初は、試し掘りをしてもわかりませんでした。石川原遺跡も東宮遺跡も山が崩れた時の土砂で覆われていたのです。東宮遺跡では、JRの線路より谷側で縄文の遺構、遺物が出土しています。
(*写真右=川原畑地区の東宮遺跡。2016年10月20日撮影。線路跡に取り付けられた茶色い管の奥で発掘調査。吾妻川対岸の川原湯地区の山並みが見える。)

■ 出土した建物跡
 縄文人は私たちと同じホモ・サピエンス・サピエンスでした。頭脳の大きさもほぼ同じ、身体能力は私たちより優れていたかもしれません。
 八ッ場の縄文遺跡では、掘立柱の跡がいくつも出土しています。柱の穴は人間が入ると首まで埋まるほど、150センチもの深さのあるものもあります。これらの穴に立っていた掘立柱はおそらく、かなり高さのある高床式倉庫を支えていたでしょう。峠を越えてきた人は、遠くからこの大きな建物を目にして、あそこに集落があるとわかったはずです。
 縄文人は木の棒の先に石斧をとりつけるなどして、深い穴を掘ることができました。長野原一本松遺跡では縄文中期~後期を中心に総数250棟にも及ぶ竪穴建物がみつかっていますが、同時期にそれほど多くの人々が住んでいたわけではありません。大きな建物をつくるときは、集落の外の人が協力したことが考えられます。写真右上=展示されている石器。上より石棒、石斧、石錘。

 八ッ場の縄文遺跡では、石器だけでなく、多くの配石遺構、列石遺構がみつかっています。発掘調査の最初の頃は、これらの石は祭祀のために並べられたものと考えられていたのですが、今では住居としても利用されていたことがわかってきました。石を敷くと冷たくて硬くなるのに、なぜか石を敷き詰めた竪穴建物もあります。
写真右=展示より、長野原一本松遺跡で出土した竪穴建物。

■ 環状集落と大量の石
 長野原一本松遺跡では、竪穴住居が径100メートルの環状に配置され、中央に広場をもつ大規模な環状集落を形成していました。
 横壁中村遺跡は吾妻川との段差が約30メートルあります。環状集落があったとすれば、その一部が吾妻川の崖の所で欠けています。崖崩れが起きた可能性が考えられます。
(*写真右=発掘調査終了後に造成された横壁地区の代替地。吾妻川の崖沿いに白い擁壁。右側に丸岩が見える。)

 ここでも大型の掘立柱建物、敷石住居、配石墓などの跡が大量に出土しています。敷石住居の入口の両側には、髭が伸びたように石が並べられ(弧状列石)、先端部分にモニュメントとなる石が置かれています。モニュメントとして使われた球状石は、川の中の甌穴で何百年もかけて形作られたもので、珍重されたらしく、球状石をストックした場所も出土しています。

 横壁に聳える丸岩は、柱状節理の景観で知られています。丸岩の麓では、剥がれ落ちた石を墓の石蓋にも利用できました。これらの石は一人ではとても運べない重さです。おそらく、集落外も含め、相当数の人々が協力して運んだのでしょう。
 横壁中村遺跡では30基以上の配石墓が出土しており、手厚く葬られた様子が伺えます。一方で、墓を作らず、山や川(自然)に返す形で葬られた人々も相当数いたはずです。

■ 石川原遺跡の水場遺構
 東宮遺跡や石川原遺跡でも、竪穴建物や土坑、列石、配石などの遺構が発見されています。
 川原湯地区の上湯原にある石川原遺跡は、約10万平方メートルもあります。出土遺物、遺構が多いため、発掘に時間がかかり、今もお墓を中心に発掘調査をしているところです。調査が終わった所は明け渡すので、遺跡の全体を俯瞰するのが難しいところがあります。
 縄文遺跡は上湯原の中央の台地の上流側で濃密に出土しています。この場所が沢水を利用するのに便利だったからと考えられます。
(*写真右=上湯原の上流側。背後に不動大橋が見える。江戸時代の浅間山大噴火で発生した天明泥流に埋もれた集落の発掘調査が終わった後、時代を遡り平安時代、縄文時代と発掘調査が続いている。2016年9月2日撮影)

 ここでは、栃の実(*右下写真)を加工するのに使われた水場遺構がほぼ完全な形で出土しています。居住の場、高床倉庫、水場が三点セットで出土しているケースは全国的にも珍しく、当時の村の様子がわかる貴重な遺跡です。
 栃の実のアク抜きは大変手間がかかることで知られています。しかし、これだけの大きさの実を食用にできれば、その恩恵も大きいということで工夫したのでしょう。これまで考えられていたような、技術力のない原始人というイメージとはかけ離れた縄文人の暮らしぶりが伺えます。

 発掘調査はまだ終わっておらず、整理作業を行っている遺跡もあります。これから解明されることも多いことと思います。