八ッ場あしたの会は八ッ場ダムが抱える問題を伝えるNGOです

水没地の川原湯温泉にあった嘉納治五郎の別荘

 八ッ場ダムの水没地にあった川原湯温泉は、多くの文人墨客にゆかりの深い土地です。
 温泉街を横切って流れている大沢沿いには、放送中のNHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』に登場する柔道家、嘉納治五郎の別荘がありました。
 ダム建設の進捗に伴い、忘れ去られようとしている嘉納治五郎と川原湯温泉との縁について、2015年の読売新聞群馬版が取り上げていましたので、紹介させていただきます。
右写真=嘉納治五郎別荘(「ぐんま地域文化」第42号 「川原湯温泉を訪ねた文人たち」より)

◆2015年4月5日 読売新聞群馬版
ー温泉別荘跡 ダムの底にー

川原湯愛した嘉納治五郎
 八ッ場ダムの建設で水没する旧川原湯温泉街(長野原町)に講道館柔道の創始者で「柔道の父」と呼ばれる嘉納治五郎(1860~1938年)の別荘跡がある。嘉納は、アジアで初の国際オリンピック委員会(IOC)委員を務めた人物で、同温泉をこよなく愛した。2019年度のダム完成時、同温泉の貴重な史料が一つ姿を消す。

長野原町教委「語り継いでいきたい」
 長野原町教育委員会によると、嘉納は大正時代に吾妻郡教育会の講演会に招かれ、終了後の慰安会で川原湯温泉に宿泊。泉質の良さや吾妻渓谷の景観に感心し、地元住民の協力を得て1921年頃、6畳2間の平屋の別荘を建てた。権利を得て温泉も引いたという。38年の嘉納の死去とともに他人の手に渡り、2001年に解体された。現在は別荘があったことを示す看板だけが残っている。

 同町教委の担当者は「34年に起きた川原湯温泉街の大火災の際、30円という当時では大金を寄付してくれたとの記録が火災見舞金受納帳に残っている。川原湯温泉都のつながりの深さを感じる」と話す。

 講道館(東京都)によると、嘉納の別荘として記録が残っているのは、千葉県我孫子市に「天神山緑地」として現存しているものと、川原湯温泉の跡地だけだ。同町委は「川原湯温泉がすばらしい温泉であることを示す例として、別荘跡地が水没した後も語り継いでいきたい」としている。

 別荘跡地へは、県道林岩下線を利用して見に行くことができる。

—転載終わり—

 上記の記事が掲載された2015年4月5日には、まだ嘉納治五郎の別荘跡に行かれたのですが、記事掲載直後に温泉街の坂道の別荘跡周辺は立ち入り禁止になりました。
写真=2015年4月23日撮影。

 2016年には最後の住民が移転し、共同湯・王湯も解体されました。山懐にあった温泉街は跡形もなくなり、温泉街の跡地への立ち入りは、今は禁止されています。
 嘉納治五郎の別荘があった大沢では、沢を跨ぐ町道の橋の建設が進んでいます。秋に試験湛水の開始が予定されていますが、それまで温泉街跡の様子は、湖面橋となる八ッ場大橋や対岸の川原畑地区の代替地から見ることができます。

 記事のもとになったと思われる詳しい解説が「ぐんま地域文化」(2014年5月発行)に載っていましたので、こちらも紹介します。川原湯温泉のやまた旅館の豊田拓司さんが寄稿された「川原湯温泉を訪ねた文人たち」の中の一章です。

 群馬地域文化振興会編集・発行「ぐんま地域文化」第42号
 「川原湯温泉を訪ねた文人たち」(豊田拓司・長野原町文化財調査委員)より

嘉納治五郎別荘
 柔道の創始者で日本人初のIOC(国際オリンピック委員会)委員をつとめた嘉納治五郎は別荘を二つ持っていた。一つは、千葉県我孫子市にあった。そこに民藝運動で有名な嘉納の甥の柳宗悦が移住し、さらに志賀直哉や武者小路実篤を誘う。その後我孫子に次々と文人らが集結。「白樺派」文学が進展するきっかけになった別荘だ。

 もう一つの別荘は川原湯にあった。
 大正四年、吾妻郡教育会での講演に招かれての懇親会で川原湯温泉に投宿した嘉納治五郎は、泉質の良いことと渓谷の美しさが気に入り別荘建設を思いたち、時の藤崎正義郡長に「この地に別荘を建設したいが世話をしてほしい」と頼み込んだ。藤崎郡長は、川原湯の篤農家小泉重太郎と知己があったので、呼び寄せて別荘建築を依頼する。嘉納からも重ねて「一切のことを委託するので、どうか世話をしてほしい」と懇請され感激した小泉は、全力を尽くし別荘建設に努力することを承諾した。さっそく土地の購入はじめ温泉引湯の諸手続きを履行し、建築は、名人の誉れ高い棟梁の篠原理一郎に請け負わせた。そして間口三間、奥行き七間の立派な別荘と、別荘番の棲む建物の二棟が完成する。

 松の木をくり抜いた木管で五百㍍引湯された温泉が、きれいなタイル張りの浴槽に溢れた。広い廊下には厚い板が敷かれ、柔道の稽古ができるようになっていた。
 嘉納が別荘に来ると小泉は参上して、管理の報告をし夕飯を頂いて帰るのが慣例となっていた。

 嘉納治五郎年譜によれば大正十三年から昭和十一年の間に十八回の来湯の記録が見られる。
 時には講談師を連れてきて地元に無料公開したり、東京から体操の先生を連れてきて分教場で体操の指導をしてくれたりした。また昭和九年の川原湯の大火災のおりには見舞金三十円を拠出している。地元との深い交流があり、人となりが偲ばれた別荘であったが、ダム水没家屋として平成十三年に取り壊された。

—転載終わり—

写真=嘉納治五郎別荘跡。別荘は解体され、看板だけが残されていた。2013年2月1日撮影。

写真=別荘の脇を流れていた大沢。春になると別荘地には山野草が咲き乱れ、大沢の対岸には絶滅危惧種、カザグルマ(クレマチスの原種)の自生地もあった。2014年4月15日撮影。

写真=嘉納治五郎の別荘跡には工事用道路がつくられ、谷側にあった民宿雷五郎とともに工事で出た残土の下に埋められた。2018年6月19日撮影。