八ッ場あしたの会は八ッ場ダムが抱える問題を伝えるNGOです

上毛新聞連載記事「八ッ場新時代~動き出す地域再生」

 10月1日に八ッ場ダム事業の最終段階である「試験湛水」が開始されたのを機に、地元の上毛新聞では、「八ッ場新時代~動き出す地域再生」というタイトルで、八ッ場ダム予定地が抱えるこれからの課題について8回にわたり連載しました。

 上毛新聞のサイトで記事の一部を読むことができます。

1 観光拠点 ダムをチャンスに(10月3日)
https://www.jomo-news.co.jp/news/gunma/society/164100

2 見学ツアー ダム完成後も魅力の発信を(10月4日)
https://www.jomo-news.co.jp/news/gunma/society/164352

3 次世代 川原湯 新たな魅力(10月5日)
https://www.jomo-news.co.jp/news/gunma/society/164595

4 吾妻峡 自治体の枠超え周遊(10月8日)
https://www.jomo-news.co.jp/news/gunma/society/165182

5 新たな施設 人育て支える組織を(10月9日) (紙面記事より全文転載)
https://www.jomo-news.co.jp/news/gunma/society/165423

6 安全対策 試験湛水の結果 注視(10月10日) (紙面記事より全文転載)
https://www.jomo-news.co.jp/news/gunma/society/165664

7 ダム湖の利用 水面を観光の起爆剤に(10月11日) (紙面記事より全文転載)
https://www.jomo-news.co.jp/news/gunma/society/165935

8 工事事務所・朝田所長に聞く 地元の支援 最後まで(10月12日)

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 第五回の記事を紙面より全文転載します。

5 新たな施設 人育て支える組織を(10月9日) 
https://www.jomo-news.co.jp/news/gunma/society/165423

「施設が完成した後は国も県も面倒を見てくれない。自分たちで運営していかなければならないことを認識してほしい」。6月に群馬県長野原町役場で開かれた八ツ場ダム水没関係5地区連合対策委員会で、桜井芳樹委員長(69)は集まった行政関係者や住民ら約50人にこう訴えた。

維持費は地元が負担
 水没5地区では主に国や下流都県が事業費を負担し、道路や橋、簡易水道、下水道、公園などさまざまなインフラが整備された。地元住民の要望に応える形で、道の駅「八ツ場ふるさと館」やJR長野原草津口駅に併設する「長野原・草津・六合ステーション」などの生活再建のための施設を開設。アウトドアレジャー施設や屋内運動場といった大型施設も今後造られる。

 インフラの維持や将来必要となる大型施設の修繕は町の責任で行う。その財源となるのは (1)年1億~3億円程度を見込めるダムの固定資産税代わりの交付金 (2)20億円程度まで積み立てる基金 (3)施設からの指定管理料―の三つ。町はダム事業に関わる収支予測を作成しているが、未完成施設は試算できていないために公表していない。

 関係者が懸念するのは観光振興を目的に造られた施設の将来だ。地元住民が出資する会社が指定管理者として運営に当たり、利益の3割程度が町財政に繰り入れられるが、赤字になっても町は補填しない方針。施設の維持には稼働率が低迷しないことが条件になるが、ある出資会社の関係者は「少子高齢化や人口減少が進む中、運営がうまくいくか分からない」と不安を口にする。

周辺連携や宣伝を担う
 町は不安の解消に向け、観光誘客や地域振興、町内の一体感醸成といった役割を担う新組織を来年度に立ち上げる。社団法人や財団法人といった具体的な組織形態や活動内容はまだ固まっていないが、5月から隔月ペースで、住民や町職員らがグループワークを行い方向性を探ってきた。

 新組織では、周辺施設の連携促進や広報宣伝を担うことを想定。長野原観光協会、川原湯温泉協会、北軽井沢観光協会の町内3観光協会の一本化も視野に入れる。

 萩原睦男町長は「町のさまざまな課題を乗り越えるためにも最も重要なのは人。地域を担う人材を育てていくのは簡単なことではないが、新組織が人と人とをつなぎ、『オールながのはら』を実現するきっかけとなることを期待したい」と話す。

写真=JR吾妻線の鉄橋跡(第二吾妻川橋梁)が沈む前の最後の写真。鉄橋と並行して走っていた旧国道の八ッ場大橋はすでに沈んでいる。10月10日撮影。
左手の縦長の水たまりは旧国道より更に前の時代に利用されていた信濃街道の跡。つい最近まで石畑遺跡の発掘が行われていた。昭和初期、大雨による地すべり発生を機に、八ッ場大橋(旧国道)が架橋され、交通の流れは吾妻川左岸の川原畑地区から右岸側の川原湯地区へ移り、川原湯温泉の発展につながった。

写真=展望台やんば見放台の真下にJR吾妻線の鉄橋跡(第二吾妻川橋梁)。その先に川原湯温泉駅があった。10月10日撮影。鉄橋の先の水没しているあたり一帯は、1783年に浅間山大噴火によって吾妻川を流下した天明泥流下の下湯原遺跡。