発掘が終了した八ッ場ダム水没地の遺跡についての記事(上毛新聞)

 上毛新聞に八ッ場ダム水没地で出土した江戸・天明3年の遺跡についての記事が掲載されました。
 八ッ場ダムの水没地は、縄文時代から最近に至るまで、人々の暮らしの場であり、真田道、草津道などの通る交通の要衝でもありました。1783年の浅間山大噴火によって発生した天明泥流は、八ッ場ダムの水没地全域を厚い泥流で覆いました。
写真右=吾妻渓谷に隣接する川原畑地区東宮。東宮遺跡では縄文時代から江戸時代天明期まで、各時代の遺跡が重層していた。2008年8月撮影。

 遺跡は周辺の風景と共に残されることで、のちの世代の人々に生き生きとかつての暮らしを語りかけます。
 ダム完成後、時間がたつにつれて、かけがえのないものが八ッ場ダムによって失われたことが知られるようになっていくのでしょうか。
写真右=林地区の水没地で出土した中棚遺跡の復旧溝。天明泥流に襲われた人々は、畑の上下の土を入れ替える(おこしかえし)などして、被災地の復興を行った。2017年7月撮影。 

(参考ページ)
 「水没する歴史遺産」
 「科学者と文化人、八ッ場ダム予定地の遺跡保存を訴える」

 

◆2020年3月17日 上毛新聞
ー八ッ場ダム建設伴う発掘終了 江戸期の生活丸ごと 浅間の泥流下から庶民の住居跡、家財道具ー

 長野原町の八ッ場ダム建設に伴う、県埋蔵文化財調査事業団(渋川市)の発掘調査が昨秋終わった。出土品の分析で、1783年8月の浅間山噴火による天明泥流に襲われる直前の人々の暮らしが解明されつつある。泥流下から姿を現した約20カ所の遺跡はまるでタイムカプセルで、住居跡や膨大な家財道具が良好な状態で出土。国内唯一の江戸期の中流層以下の住居遺跡としても、研究者の注目を集めている。

 発掘は1994年から同町と東吾妻町周辺で行われ、100軒超の住居跡や畑、道などが出土。湧水地近くの水分を含んだ層からは通常は腐るはずの床板や柱といった建材、漆わんが見つかった。柱と組んだままのかもいや継手が分かる状態で土台が見つかるなど、当時の建築技術を知る手掛かりになっている。

 分析によって母屋は石の基礎があったり、土に直接柱を立てた掘っ立て柱だったり、規模や構造から6種類に分類され、はっきりと身分や貧富の差があったことがうかがえる。

 例えば、東宮遺跡5号建物は二つの板間に土間、馬屋の構造。石川原遺跡の42号建物は馬屋と土間、地べたにむしろを敷いて団らんなどに使った「土座」の簡素な造りだった。

 特筆すべきは、礎石がある堅固な造りの名主クラスの家は現存例があるが、中流層以下が住んだ江戸期の掘っ立て柱建物の遺跡は国内では八ッ場ダム周辺からしか発見されていない点。歴史的建造物に詳しいなら文化財研究所の箱崎和久さん(49)は「知名度は低いが世界的に極めて高い価値がある遺跡群。現存の家屋は位の高い人のものだけで、庶民の家屋を考える上で貴重な研究材料となる」と価値を強調する。

 また石川原遺跡は寺の本堂や庫裏が密教法具とともに出土しており、古文書に記された天台宗の不動院とみられている。

 家財道具からは詳細な暮らしぶりが分かっている。東宮遺跡は皿やとっくりといった陶磁器や土器など663点が出土し、陶磁器の産地は瀬戸・美濃(岐阜・愛知周辺)が47%、肥前(佐賀)43%だったと判明。遠方の産物があることから流通も活発だったことを示す。

 水田跡や米を炊く釜が発見されていないため、アワ、ヒエなどを鍋で煮炊きした雑炊のような食べ物を食べていたと推測される。

 発掘に携わった事業団専門調査役の中沢悟さん(67)は「生活用具が使用中か、収納された状態で見つかり、見れば見るほど発見がある。さまざまな視点から分析し、当時の農村の姿を解明したい」と語る。(三神和晃)

—転載終わり—
写真下=泥流下の建物を良好な状態で遺すのに貢献した湧水。川原畑地区東宮遺跡にて、2014年5月撮影。

写真下=群馬県埋蔵文化財調査事業団による東宮遺跡の出土品の展示。2017年5月撮影。

写真下=川原湯地区の石川原遺跡。2016年11月撮影。

写真下=石川原遺跡の不動院跡。山門や瓢箪池のあったあたり。2015年6月撮影。