八ッ場ダム事業における水没地の発掘調査に携わった関俊明さん(嬬恋郷土資料館館長)が発掘調査で出土した畑跡に関する考察の一部を地元紙・上毛新聞に連載で寄稿されていますので、紹介します。
取り上げられているのは「天明泥流畑」ー1783年の浅間山大噴火によって発生した泥流に埋もれた当時の畑の跡です。
写真=川原畑地区・西宮遺跡の畑跡。2016年10月20日撮影。
1783年、江戸時代、天明3(1783)年8月5日、群馬県と長野県の境にそびえる浅間山が噴火し、火砕流が群馬県側の山麓を流れ下り、吾妻川に流れ込んで泥流となりました。大量の泥流は、吾妻川流域はもとより、利根川流域にまで甚大な被害をもたらしました。
火砕流に呑み込まれた浅間山麓の集落、鎌原(現・群馬県嬬恋村)では、1979年から発掘調査が行われましたが、泥流に襲われた吾妻川流域の八ッ場ダム事業用地の発掘調査は、1995年からダム事業の一環として始められ、水没地の発掘調査は試験湛水が開始される直前の2019年9月まで続きました。
1783年の浅間山の噴火活動は5月に始まり、8月5日にクライマックスを迎えました。この間、火山が大気を震わせ、火山灰や軽石を降らせる中で、農民は農事暦に沿って毎年行ってきた農作業を続けようとしました。
関俊明氏が著した「浅間山大噴火の爪痕 天明三年浅間災害遺跡」(新泉社、2010年刊)によれば、出土した天明泥流畑のべ約2万平方メートルについて、耕作状況を9種類に分類し、畑ごとの断面記録と当地の農事暦を踏まえ、被災した農地の状況を考えると、8月5日より前に耕作を続けられない状態に陥っていた(作物が枯れてしまった)畑が全体の53~30%に上っていたことが推測されるということです。浅間山の噴火は、泥流に襲われた地域に壊滅的な被害をもたらしただけでなく、全国に影響を及ぼし、天明の大飢饉をもたらしました。
発掘調査を実際に行った人々が育った農家では、農業機械が導入される昭和30年代まで、江戸・天明期とそれほど変わらない手作業の耕作が行われていたということです。当地の農事暦との照合、農民の一鍬一鍬の作業に対する想像が天明泥流畑から当時の人々の生活を浮かび上がらせる大きな力となったのでしょう。関さんは「畑跡の調査などはこれまで「掘っても掘っても畑跡」と皮肉混じりによばれ、調査不要論も語られていた。それが再考を求める契機となったのである。」(「浅間山大噴火の爪痕」)と書かれています。
◆2021年6月27日 上毛新聞
https://www.jomo-news.co.jp/feature/shiten/305764
ー八ツ場の天明泥流畑(上) 農事暦で解く軽石の謎ー
八ツ場ダム建設に伴う発掘調査で、1783(天明3)年に起きた「天明泥流」に関する調査に初めて携わったのは1997年だから、もう24年も前になる。
「浅間押し」と呼ばれる浅間山噴火で8月5日に起こった土砂移動は、北麓の鎌原村を埋め、吾妻川に流れ込んで流域の村々を埋没させるという特異な噴火現象を発生させた。利根川合流以降も伊勢崎・玉村域までは土砂の勢いは収まらなかった。
近世のその時間をよみがえらせるのが、天明泥流堆積物下の発掘調査だ。
水没予定地の調査範囲には広く畑跡が埋没していた(以下、泥流畑)。建設用の重機で堆積物を取り除いてから、人の手と目を頼りに遺構面(天明3年の埋没面)を検出していく作業を繰り返す。調査には疑問が付きまとうもので、その一つが遺構面に降下していた軽石だった。
「降下した日時まで分かるのか?」。これが最初の疑問だった。当時記録された文書を地点ごとに比較しながら読み解いていくと、火口から北東方向に7月27~29日、「砂、灰」が降下していたことが整理できた。その延長上では東北地方でも降下物の記録が残されていた。
調査では奇妙な畑が見つかっていた。8月5日の天明泥流下、遺構面との間にあるべき軽石が畑の畝片側に筋状に集められ、その上に耕作土がかぶさっている。7月27~29日の降下後、8月5日に埋没するまでの間に農作業が行われた痕跡と推定した。
検証する手だてを模索し、農事暦を作成することから始めた。地域の古老から聞き取り作業を重ねると、あることが分かってきた。それは「土用の土寄せ」がどの作物管理にも欠かせない作業であることだ。夏土用(現在ではウナギを食べる習慣が定着)に、倒伏防止や雑草除去、養分補強などの目的で行われる作業で、この地域では7月20日前後の夏祇園までに片側を、さらに8月初めには他方を仕上げるのが通例だったという。
つまり、軽石降下から天明泥流埋没までの数日間に、農民の一鍬(くわ)一鍬の作業が、軽石降下前に終了した場合と、降下後に行われた場合との違いという解釈になる。
この謎解きは、農業機械が導入される前の昭和30年代までの手作業の農業を思い返してもらった聞き取り「長野原地区の農事暦」で、江戸時代と大きく変わらない作業だったことに着目できる。民俗学や農学、文献史学、火山学といった複数の研究領域の情報を用いて、考古学の遺構を読み解くことができたことになる。
どの分野の情報とも整合する確認、「謎解き」ができた時、歴史の断面を独り占めした気分にもなったのを思い出す。泥流畑からは多くのことを学ばせてもらった。
嬬恋郷土資料館館長 関俊明(東吾妻町箱島)
【略歴】(せき・としあき) 県内小中学校、県埋蔵文化財調査事業団勤務を経て、2020年4月から現職。東京農業大非常勤講師。国学院大大学院博士課程後期修了。博士(歴史学)。
◆2021年8月21日 上毛新聞
https://www.jomo-news.co.jp/feature/shiten/319524
ー八ツ場の天明泥流畑㊦ 火山灰の謎解いた麦作ー
前回に続き、1783(天明3)年に起きた浅間山噴火の「天明泥流」で埋没した畑(泥流畑)で行った謎解きを、もう少し深入りして紹介してみよう。
江戸時代の火山灰を麦作から解明することができた。それは、農事暦でいう「サクイレ」「間作(かんさく)」という技法である。2メートルの天明泥流下に埋まったある畑の畝断面の話だ。どの部分の断面にも幅数センチ、厚さ1ミリほどの薄い火山灰層が含まれていた。この謎解きは手ごわかった。
父の家庭菜園の片隅で麦の種まきから始めてみた。なるほど、麦は秋にまき、初夏に収穫する。しかし、地区による微妙な気象条件が絡んでくる。問題とする八ツ場の長野原地区では、麦の収穫前に夏作物の種を株元にまいたり、苗を植え付けたりしておかないと、夏作物は秋の収穫に間に合わない。つまり、麦の二毛作には、株元に陸稲やヒエといった次の作物を生育させる工夫がある。これをサクイレというそうだ。
「近村に灰降り、蚕に洗いて桑をくれ」と、天明3年6月26日に浅間山噴火の灰が降ったことを示す文書がある。長野原地区では「ハンゲさんが来たら麦は穂を見ずに刈れ」といい、半夏生(7月2日ごろ)までには刈り取れというのだ。
これで謎は解けた。この地区では麦が刈り取られる直前に、次の作物が脇に生育し始めている。そんな頃、うっすらと火山灰が降った。わずかな厚さで、通常ならば消滅してしまいそうなものだが、降灰は7月になろうとする麦刈りの直前か直後だったため、後の作物に行われた土寄せで奇跡的に火山灰層が残された。そして7月27~29日に軽石が降り、8月5日の天明泥流を迎えたのである。
それにしても、農業にはその地域の気候や条件が絡み合うことと同時に、それぞれの土地で絶妙な工夫が継承されてきていることを学ばせてもらった。機械化される前の手仕事の農業が失われつつあることを実感しながら、地元の古老の皆さんにお世話になり、火山灰の謎は解消した。
麦の試し栽培では穂は鳥の餌となり、「麦わらを栽培しているのかと笑われている」と父が言っていたことが思い出される。現在わが家の菜園は主を失い、後継ぎは発掘調査に没頭(?)しているせいで、近所の畑の師匠に助けてもらい継続している。いつか、謎解きで学んだ農事暦を生かして家庭菜園を楽しめる日が来るだろうか。
「研究領域をまたぐ」ことで思考の方向転換ができる。そんな体験をしていると、「援用」「クロスチェック」という言葉を傍らで同僚が教えてくれた。火山灰の謎解きに取り組んだのは2003年ごろだから、もう20年近く前の話になる。
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写真=石川原遺跡の天明泥流畑跡。2016年6月27日撮影。
灰色のシートに覆われた部分は、泥流が取り除かれていない場所。石川原遺跡がある川原湯地区の上湯原は吾妻川に張り出した舌状台地で、2メートル以上の厚さで堆積していた泥流下からは、寺院跡、住居跡、火山灰が白い筋となって残る畑跡などが出土。天明遺跡の下には縄文遺跡も眠っていた。写真の背後に湖面橋・不動大橋が見える。