東日本大震災を追悼する3月が今年もやってきました。地震列島のわが国では、地震が起きるたびに原発の安全性が心配されますが、全国に2500基もあるダムの老朽化も地震時のリスク要因です。
東日本大震災では、福島県須賀川市の農業用水専用の藤沼ダム(1949年竣工)が決壊し、凄まじい被害をもたらし、死者・行方不明者は8人にもなりました。須賀川市での最大震度は6強であったということです。当時の被害を振り返る記事が紙面で取り上げられています。
震災から10年後の昨年(2021年)3月、新しい藤沼ダムが一挙につくられました。
震災後、約10年間、藤沼ダムから農業用水を得ることができなかったわけですから、ダムに依存せずに農業用水を得る方法が模索されて然るべきだったと思うのですが、ダム関係者にとってはダム事業推進のチャンスだったのでしょうか。藤沼ダムの農業用水を利用する農家は減少していないのでしょうか。
〈参考) 福島県の公式サイトより
「藤沼ダム復旧・再建のあしあと」https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/life/605408_1678558_misc.pdf
◆2022年3月4日 朝日新聞
http://digital.asahi.com/area/fukushima/articles/MTW20220304072050001.html?r
ー藤沼ダム決壊 住民自ら記録誌ー
● 被災28人聞き取り 復旧課程も/須賀川の全小中学校にも配布
11年前の東日本大震災で8人の犠牲者が出た須賀川市の農業用ダム「藤沼湖」決壊をまとめた記録誌を、災害を体験した地元住民らが作った。原発事故に埋もれがちな地元の災害を記録に残すことで、災害の風化を防ぎ、今後の防災に役立ててもらおうとの願いを込めた。
記録誌は「あの日を忘れない ~そして語り継ぐ未来へ~」。地元住民らでつくる犠牲者慰霊碑建立の実行委員会が、須賀川市の補助金や全国各地からの寄付金を活用して編集・作製し、今月1日に発刊した。
ダムの決壊直後、約150万トンの水が濁流となって集落を襲う様子を撮影した地元住民の写真や、被災者28人の聞き取り証言、県の決壊原因調査報告書、地元紙の関連記事のほか、藤沼湖が造成された背景や復旧の過程も載せた。A4判で全128ページある。
編集作業の中心として携わったのは、地元の長沼地区の区長を務める柏村国博さん(66)。2018年から住民の聞き取り調査などを始めた。
被災した顔なじみの住民に「話を聞かしてもらえないかい?」と頼んで回ったが、「つらい被災体験を思い出したくない」と断られることもあった。それでも趣旨を説明すると、「あんたになら話す」と重い口を開いてくれた。
住民の証言から、見えてきた災害の全容はこうだ。
大きな揺れの後、山の木がバキバキと音をたてながら、立ったまま黒い水とともに集落に迫ってきた。そして濁流にのまれた家々が流され、崩れた。車とともに流れの中に消えていった人、木につかまって助けを求める人、家族や隣人を助けようと濁流に飛び込んだ人がいた――。
当時須賀川市職員だった柏村さんは災害発生時、市中心部で仕事をしていた。時を経て被災者の証言を聞き、想像を絶するような災害が身近に発生したことに、改めて戦慄を覚えた。同時に、住民同士助け合って救助にあたり、惨事を乗り越えてきたことに心を揺さぶられた。
ダム決壊で家を流され、親族を失った森清道さん(65)も、柏村さんとともに冊子編集に携わった。「遺族や被災者にとって震災の記憶を思い出すのはつらい経験だが、それでも誰かが記録を残さなければならない。それが九死に一生を得た我々の役目だと思う」
記録誌は3500部作り、地区の全世帯や全国の支援者、行政機関に寄贈する。市内の全小中学校にも配り、防災学習に役立ててもらうつもりだ。作製の過程で、これからを生きる子どもたちに災害の実相を伝えていくことが大事だと痛感したためだ。
災害は全国どこでも起きる可能性があり、だれもが当事者になりうる。柏村さんは「自然災害や、災害で亡くなった人の生きた証しを継承していくことが、次の災害に備えることにつながる」と話している。(斎藤徹)
◆2022年3月7日 河北新報
https://kahoku.news/articles/20220306khn000016.html
ー藤沼ダム決壊、7人死亡の教訓語り継ぐ 住民ら「つどい」ー
東日本大震災の強い揺れで決壊した福島県須賀川市の藤沼ダムの近くにある滝防災公園で6日、「記憶をつなぐつどい」が開かれた。7人が死亡、1人が行方不明となった被害と教訓を後世に伝えようと遺族や住民が誓いを新たにした。
雪が降りしきる中、慰霊碑の前で住民ら約60人が黙とうし、花を手向けた。加藤和記実行委員長は「今もまだ心癒やされることなく、苦しみの中で毎日を送っている遺族もいる。教訓を100年後にも確実につないでいきたい」と述べた。
昨年から語り部として活動する長沼高(須賀川市)3年五十嵐夏菜さん(18)は「自分より年下の子どもたちにも記憶や教訓を伝えていくために、これからもずっと活動を続ける」と話した。
藤沼ダムは、震災の揺れで堤が決壊して水約150万トンが流出し、濁流が下流地域をのみ込んだ。ダムは修復を終え、2017年春に農業用水の供給を再開。19年3月には東側の市道約1・5キロが開通し、湖畔を1周できるようになった。昨年3月には滝防災公園に慰霊碑が建立された。
◆2022年3月7日 福島民友
https://www.minyu-net.com/news/news/FM20220307-689651.php
ー藤沼湖決壊、心に刻む 須賀川でつどい、遺族ら献花ー
須賀川市滝の防災公園で6日、東日本大震災から11年を前に「大震災と藤沼湖の記憶をつなぐつどい2022」が開かれた。参加者が震災時の農業用ダム「藤沼湖」決壊による犠牲者の冥福を祈った。
藤沼湖の決壊では、貯水されていた約150万トンの水が土砂などとともに集落に流れ込み、7人が死亡、1人が行方不明となった。つどいは地域住民でつくる実行委が犠牲者を追悼して災害の記憶を後世に継承するために毎年開いている。
公園内に建立された慰霊碑の周りに約80人が集まり、黙とうした。加藤和記委員長が「まだ心が癒やされていない人もいると、心に刻みたい」と述べ、橋本克也市長らがあいさつした。遺族を含む参加者が献花台に花を手向け、犠牲となった人たちをしのんだ。天栄村の添田徹さん(84)は、義理の弟石田三造さん=当時(68)=を決壊で亡くした。毎年つどいに参加しており「今年も来たよ」との思いで献花したという。「多くの人が黙とうをささげてくれてありがたい。残念で悔しい気持ちは、生きている限り忘れない」と語った。
◆2022年3月17日 朝日新聞
https://digital.asahi.com/articles/ASQ3J6KRXQ37UGTB00K.html
ー震災でダム決壊、怖かった 短大生になっても語り継ぐ記憶ー
東日本大震災で決壊し、死者・行方不明者8人が出た福島県須賀川市の農業用ダム「藤沼湖」。11年前、ダム近くの小学校で被災した五十嵐夏菜(かな)さん(18)が今春、閉校する地元高校を卒業した。ふるさとを襲った災害の語り部として、新しい一歩を踏み出す。
あの日、小学1年だった五十嵐さんは、藤沼湖から1・7キロほどの長沼小学校の教室にいた。午後2時46分、大きな揺れに襲われ、校庭に避難した。
揺れが収まって校舎に戻ろうとしたとき、誰かが叫んだ。「水がきたぞ。逃げろ!」。ゴーッという音とともに校庭に濁流が入ってきた。何が起きているかわからないまま、高台にある体育館付近に逃げた。
地震の揺れでダムが決壊し、150万トンもの水が流出。川沿いの集落で家や人が流された。自分の家族や家屋に被害はなかったものの、土砂に埋もれたほかの集落や壊れた道路を見て、とても怖かったことをいまも覚えている。
ダム決壊により、生まれ育った地域でどんな被害があったのか。毎年3月11日が来るたび、心にひっかかっていた。被災した住民から話を聞いて育ったが、家族や友だちと災害の話をすることはなかった。
意識が変わったのは長沼高校2年のときだ。社会科の先生に勧められ、県内各地の高校生が震災や復興について話し合う「ふくしま創生サミット」に参加。ダム決壊について話した。
浜通りの津波被害や原発事故はみんな知っているのに、内陸の災害はあまり知られていなかった。つらい思いをしている人がまだいるのに、このままではやがて忘れられてしまう――。危機感が募り、「私が語り部になって語り継いでいこう」と決心した。
地元小学校の防災学習などで体験を話してきた。そんなときに伝えているのは、自分たちの住む地域で想像できないような災害が起きた事実と、ふだんから避難経路の確認など防災の意識をもつことの大切さだ。
今月1日、五十嵐さんは長沼高校を卒業した。同校は4月から市中心部の高校と統合されて閉校する。「最後の卒業生になったのはさみしい。でも、だからこそ、ふるさとで起きた災害をこれからも伝えていこう」。そんな思いが、わいてきた。
6日に被災現場であった「大震災と藤沼湖の記憶をつなぐつどい」にも参加し、「誰かが語り続けなければ歴史は消えてしまう。それができる1人が私なんだ」との思いを新たにした。
4月から郡山市の短大に通い、栄養士をめざす。新生活が始まっても、語り部の活動は続けていくつもりだ。(斎藤徹)